状態変化 03 






「黒崎、忘れ物だよ」
 次の日、黒崎が忘れていった読みかけの本を渡した。
 忘れていった、と言うか、僕が貸した本だから、僕のものだけど、これは読みかけだったはずだ。だから、渡した。もしかしたらもう読み終わっている可能性もあったけれど、僕に返されたわけじゃなかった。読み終わっているなら、そう言って僕に返すべきだ。だから、まだこの本は黒崎が持っているべきなんだ。

 ……別に、気にならないなら、渡さなくて良かったんだ、本当は。黒崎がこの本を忘れたって言ってこないなら、もう読まないって意味だって、それだって良かったのに。


 ただ、あの日を境に、黒崎が………もう、二週間になるだろうか。

 別に毎週学校が終わってから、もしくは黒崎がバイトの帰りにそのまま、そうじゃなかったら土曜日に僕の家に来るだなんて、そんな約束した覚えはない。そんな事は約束したわけじゃない。知らないうちにそうなっていただけだ。
 黒崎が来たから僕が迎え入れて、そうやって一緒に過ごして、ただそれだけだ。
 黒崎だって予定ぐらいあるだろう。僕以外だって、黒崎には友達はいる。遊ぶ相手もいるだろうし。

 学校で、僕達の関係を誰にも知られたくなかったから、僕達だけの秘密にしておきたかったから、だから僕達は恋人として付き合うようになってからも、今までとは変わらずに一定の距離を保つようにしていた。なるべく話しかけないようにしていたし、話し掛けられても、極力素っ気ない態度を返していた。

 話し掛けられて、緩んでしまう表情を止められないから。
 黒崎を見る僕の視線が、僕の気持ちを代弁してしまいそうで、誰が見てもきっとそう言う顔をしてしまうだろうって、ほとんど確信だった。僕だって自分が情けないほど緩んだ顔を誰かに見られるのは嫌だし、そんな表情をしていたら僕が黒崎を好きだってバレてしまう。そうしたら、黒崎は、迷惑だろう?
 だから僕達が付き合い始めてから、学校では、あまり話さないようにしていたけど……。

 もう、二週間も僕は黒崎に触れていない。

 ……触りたい。

 黒崎の体温を感じたい。
 キスしたい、もっと深い所で繋がって、黒崎を感じたい……。

「あ、おう。悪い」

 触れたいと切望しているのに、黒崎が僕が差し出した本を受け取る一瞬、黒崎の指先が僕の指先をすこし掠めただけ。

「……いや」

 本を返す……それだけで、僕には勇気が必要だった。
 返すって言っても、僕の本だ。続きが読みたかったのなら、僕に言えばいい。僕の家に取りに来ればいい。

 だって、話しかける話題なんか、他に見つからなかった。僕には、それが限界だった。


 本当だったら、詰問したい。

 最近、どうしたの?
 僕の事避けてる?
 僕に飽きたの?
 僕が嫌いになったの?
 他に誰か………

 そんな事……言えるはずもない。訊けるはずもない。

 黒崎が僕を選んでくれただけだ。

 このまま………終わるなら……。

「あ、黒崎……」
「悪い、ちょっと他のクラスの奴に呼ばれてるんだ」

「……そう」


 そう、言って……黒崎が横を向いた時に見えた………。

 首筋の、赤い……。

 誰に?

 キスマーク?


 黒崎の首筋に……誰が触った?

 僕の黒崎に、誰が触った?


 黒崎が僕を選んでくれたんだ。一時だけでも、一瞬だけでも黒崎の目が僕を見てくれたんだ。僕はそれだけでも良いと思った。それで満足だと思っていた。諦めは悪い方じゃない。仕方がないことだってある。気持ちなんて流動的なものだ。こんな僕なんかに黒崎が留まるはずない。
 初めから、覚悟はしていた。

 黒崎がもし心変わりがしたなら、きっとそっちの方がいいってずっと思ってた。
 おかしいって思ってたんだずっと。僕なんかが好きだって、黒崎が言ったこと、一時的な勘違いなんじゃないかって、ずっと思ってた。
 そう、聞いたこともあった。黒崎は怒ってたけど……。

 ほら、僕の方が正しい。
 僕は間違ってなかった。

 ……誰に?

 黒崎は、誰に視線を向けようとしてる? 僕じゃない、誰に?

 ベッドの中で、頬に手を当てて、僕の瞳の奥まで突き刺すような淡い色をした、それでも熱い眼差しを、僕以外には誰にも向けて欲しくない。
 僕だけに向けて欲しい。

 僕の、ものだ。黒崎は、僕のだ。


 目の前が、赤くなるのが解った。なにもしていないのに、勝手に心臓が早く動いていた。


「黒崎、少し付き合って」
「石田? あ、いや、これから……」
「後にしてくれ」

 僕は、黒崎の腕を掴んだ。
 固くて、力強い腕。

 僕を抱き締めた、腕。この腕で、他の誰も包まないで。

 黒崎の腕を掴んで僕は歩き出した。僕達が歩いて行くと、廊下に居た人達は驚いて道を開けてくれる。僕達が二人でいる所を見られているけれど、構わないって思った。今はそんなことはどうだっていい。

「おい、石田、これから授業」
 予鈴が響いた。

 生徒がいた廊下もだんだんと教室に戻って行って、歩いている最中に静かになってくる。

 その中を僕は黒崎の手を引いて歩いた。






20130529