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 何が、起きたのか解らなかったので、僕はしばらく立ち尽くした。

 赤い……。

 マルフォイが………。










「マルフォイっ! マルフォイ!」

 僕の声は、叫び声に近かった。狭いバスルームに僕の声が響いて充満するけれど、それ以上に僕の頭の中の方が大音量で疑問符を散らしていた。



 慌てて、僕は水の中のマルフォイに近づいた。顔を数度手で叩いて……。

 何を、こう言った場合、どうすればいいかだなんて、僕は解らないよ。敵を、倒す魔法は覚えた。だけど、助ける魔法なんて知らない。

「マルフォイ! マルフォイ! ねえ」

 生気、が、感じられない。血で、水が赤く染まっていた。立ち込める臭いで、むせ返るようだ。



「マルフォイっ!」


 マルフォイを水の中から救い上げて、床に寝かせる。血は、マルフォイの左手首から溢れていた。近くにあったタオルで、左手首に真一文字にあった傷を上から圧迫するように縛って……。



 首筋に手を当てて、脈をはかる。






 どうか……助けてください。

 神への信仰なんかないけど。僕は誰かに、何かに祈らずにはいられなかった。どうか、助けてください。彼を助けてください。僕を助けてください君がいなくなったら……。










 少し……だけど。

 まだ、脈があった。

 身体中が冷えきっている。

 こんな時に、僕はどうやって、対処すればいいかだなんて解らないよ!


 どうすれば……。



「………」


 少しだけだけど………。


 マルフォイが身動ろいだ。


「マルフォイ」

「………か」



 小さな、声だった。


 息がほとんど漏れていないから、解らないよ。唇を僅かに動かして。


 良かった。

 生きていた、良かった!


「………良かった。マルフォイ」
「残念だ………間に合わなかった」





 ほとんど、聞き取れなかったけど。マルフォイは、少しだけ、弱い笑顔を作ったんだ。


 何が、とは訊かなかった。






 濡れていた服を、なんとか破いて、毛布でくるんで寝かせた。




 傷口は魔法で塞いだ。
 造血の魔法なんか知らないよ。応急処置くらいはできるけど、こんな時に僕は何をすれば良いかなんか解らなかった。

 とにかく温かくしなくては。と、室温をいつもより高くして、僕は、一緒に彼の布団に入り、抱き締める。

 いつもより、冷たい。
 いつも体温が低いマルフォイは、一緒に布団に入ると僕の体温を奪ってからようやく寝入るのだけれど……いつもより、冷たい。

 本当に生きているの? 死体を抱き締めているようだよ。





 明日薬屋に行って、薬を買って来よう。こんな時に頼りになる友人には、だってここにマルフォイが居るだなんて、知らない。伝えてないし教える気もない。マルフォイが死刑になる。だなんて事もきっと知らない。それでいい。僕のこの気持ちは、誰にも伝えてはならない。僕はこの気持ちを死ぬまで誰にも打ち明ける気なんか無いんだ。僕はマルフォイへの想いと心中するんだよ。


 マルフォイについて、訊かれたら、言ってしまいそうなんだ。そうじゃなくても、言ってしまいそうなんだ。誰にも言ってはいけないのに。



 魔法省にこの事が知られるのは避けたかった。だから公の医者には連れて行けないし。マルフォイはこの家から出てはいけない。





「間に合わなかったって……」


 先ほどの言葉を思い出す。僕は、何度もマルフォイの顔を撫でた。白くて。




 何で、こんなことしたの?

 何が間に合わなかったの?




 僕が帰って来るまでに、死にたかったの? 何で?

 静かな呼吸の音が、それでも僕の気持ちを軽くした。




 冷たい身体を抱き締めて、もっと体温を彼にあげたかったから、僕は自分の服を脱いで肌を密着させる。少しだけマルフォイの寝顔が安らいだように思ったのは、きっと僕の錯覚なんだろうけど。


















 次の日には、マルフォイは自分で身体を起こせるくらいまでは回復した。

 本当は、手首を切ったくらいじゃ、人は死ねないんだよ。
 それでも、マルフォイが死を見たいと願った事は伝わったんだ。

 あんな事をしたのに、相変わらずマルフォイは、いつもと変わらない態度で、起きてこようとしていた。今日1日は、ベッドで大人しくすると約束で、僕は仕事に向かい、帰って来た。





「ただいま」

 窓の近くの椅子には居なかった。勿論バスルームにも。約束したようにマルフォイは、ベッドに横たわり、ぼんやりと天井を虚ろな淡い光彩で見つめていた。

 この部屋の中ではマルフォイは魔法を使うことができない。僕は、家中の刃物を捨てた。果物ナイフでさえ捨てた。

「ただいま、マルフォイ」

 返事が無いのはいつもの事。反応すらしてくれないのも、いつものことだ。そのいつもに、僕は少しだけ安心した。
 まばたきを、一度。


 その時がくるまで、せめて君のそばに居たいんだ……あと少し。








081206