9(H)















 思い出せない。


 僕の記憶の中に、今までの僕の生活の中に君がいたことはきっと事実なんだ。情けないことに僕はそれすらも思い出せないのだけれど。
 僕の中に空白があることはわかっているんだ。


 綺麗な綺麗な君。

 一目見ただけで、目蓋に焼き付いた。



 僕の掛かり付けの医師は、魔法界でも屈指の優秀な医師で僕も頼りにしていたけれど、その医者が言うには僕の頭はなんでもないらしい。
 ぶつけて瘤になった頭に大きな氷嚢を乗せられて帰された。

 藪医者と大声で罵りそうになってしまったけれど。




 ………僕は僕の記憶を失った。僕のであり、僕の中の彼を。
 僕は、彼を失ってしまった。僕の中にきっといるはずなんだ。それは昨日の彼の涙が物語っている。だって、本当に泣いていたんだ。

 僕の中に空白がある事がわかっている。

 黒い染みのような……。その場所だけ黒い闇なんだ。

 きっとそこに君がいるんだろう?





 思い出せれば、いいのに。
 彼にあんなふうに涙を流させてしまうのは、きっと僕のせいなんだ。












 家に帰ると、彼は笑顔で僕を迎えてくれた。
 家に人がいるのは、なんでこんなに空気が違うんだろう。

 柔らかいんだ、ふんわりと包み込むように、温かくて。僕はこんな空気にずっと憧れていた。
 この家は僕の理想を表現した広く部屋数が多い家なんだけれど。家具もこだわったし。広い間取りを意識してあまり物を置かないようにして。
 まるであの家とは大違いで………。


 どこの?


 僕の中にふと見えた

 あの家は? ロンの家と似ていてごちゃごちゃと物が押し寄せるようで、本と薬品で生め尽くされた……狭い家。
 が、一瞬だけ見えたような気がした。


 ……何だ?


 もう一度その場所をイメージしてももう浮かんで来なかった。


「お帰り」


 彼の声で、僕はすぐにそれを忘れてしまった。

 僕はこうやって、誰かに帰りを迎えられたかった。
 向かえてもらったら、その安堵と喜びをキスで表現したかった。
 結婚をして、奥さんにそうしようと思っていたけれど、まだそんな日は来そうにない。
 ………彼にそんなことをしたら、驚かれるだろう。男同士だし、彼の事を何も知らないし。
 僕からするのは、何も抵抗がないように思えたけれど。彼は本当に綺麗で、男だからとか、そういう抵抗はなかった。そんな不思議な雰囲気を纏っていた。男らしいとは言いがたいけれど、どちらかといえば中性的な雰囲気ではあるけれど、それでも確かに彼は男であるのだし。







「お帰り、どうだった?」

 彼の目は、少し腫れていた。


 僕がいない間、また泣いたのだろうか。僕が泣かせてしまったのだろうか、やはり。



 ごめんね。

 泣かせたくないんだ、君を。
 僕のせいだよね。
 笑って。
 笑ってくれればいいのに。
 僕のせいなんだ、きっと。
 ごめんね。
 君を泣かせたくないんだ。
 君の笑顔が見たいんだ。今みたいに。
 すごく素敵だ。
 何なんだよ、僕の頭は。なんでぶつけたくらいでこんなにポンコツになるんだ。

 情けない。
 情けなくて泣けて来る。苛々するよ、泣かせてしまった。




 僕が頭を抱えて苛々するから、彼は僕を外に連れ出した。




 他に僕は何か大切な事を忘れていたりはしないか?
 忘れているのだから、何を覚えていないかなど思い出せない。
 大切な人。
 僕の親友達のことは覚えている。心を許せる他人。僕の親友。
 他にも色々覚えている。ちゃんと、僕の中に僕の記憶が残っている。他には? いつから僕は……彼と、僕はいつ出会ったのか?
 学生時代のことも覚えている。その前のことも。

 とても、不安。
 僕の中に空白がある。
 そこに、どんな僕がいたのかわからない。

 彼が僕の近くにいてくれていた。それは、いつからなんだろう。


 でも、昨日の夜、その前の日の夜……いつからなんだろう

 この町並みはちゃんと覚えている。

 歩く。
 こんなことで、僕の気分は紛れるのだろうか。ただ彼には心配をこれ以上かけたくないんだ。
 心配そうに僕の顔を覗き込む彼に、僕は大丈夫だよと言って笑顔を見せた。

 少しだけ、彼が笑ってくれたのが、僕はとても嬉しかった。






 何でだろう。
 僕はしっかりしているのに。
 ちゃんとこの町を覚えているんだ。顔見知りもいる。僕はクィディッチなんてやっているし、そのほか過去の因縁から、僕の顔は広く流出しているので知らない人からもよく声を掛けられるけれど。

 前はそれが鬱陶しくて髪型を変えたり、髪の色を変えたり眼鏡を外したりしていたけれど。


 歩きながら、彼は僕に色々な話を訊いて来た。
 歩きながらのお喋りは楽しかった。ただ、彼が買い物をして、帰る頃にようやく歩き始めたばかりの小さな女の子が僕に近付いて来た。本当に可愛い子だった。
 こうやって子供にサインを求められることもあるし……。
 僕のやっていることに対しての好意は、本当に嬉しいから。



 ただ、その頃から彼が、俯いてしまった。なにか僕がしたのだろうか。

 さっきから、彼は黙ったままだ。
 だから、僕も黙ったままついて歩く。

 家に着くまで、一言も会話はなかった。








「ねえ、名前は?」


 食卓に出されたのは、ポトフーで、僕はこの家で暖かいご飯を食べた事がなかった事に気がついた。
 僕は帰ってからのことを思い出せないから……ここしばらくずっと、僕が夕食に何を食べていたのか、思い出せないけれど。僕が作れるものはたかが知れているから……。
 温かい夕食。
 誰かと一緒の。


 僕が欲しかったもの。

 彼がここにいてくれるだけでそれが得られた。

 お礼を言おうとして、僕はまだ彼の名前を知らない事に気付いた。ずっと、訊こうと思っていたのだけれど。訊いたけれど、それはすぐにはぐらかされてしまい、答えてもらえなかったのだし。それ以降何度か訊こうと思ったけれど……。
 僕は、それでもすぐに彼を思い出すと思ったんだ。

 君は、一目見たら忘れられないよ。
 圧倒的な存在感。とても、綺麗。
 


 君の名前を呼びたい。




「……そんなの、思い出せればいいんじゃないか?」

「思い出すけどさ、それまで呼べないのは嫌だよ」

 まだ、機嫌が悪いのだろうか。さっきは本当に何で機嫌を損ねてしまったのかわからなかった。僕が、親子連れにサインを求められて……ただ、それだけだったはずだ。
 彼の笑顔はとても僕の心を明るくしてくれたから、僕は笑って欲しいのに、昨日の夜君がソファで寝ていて、君を初めて見てから……どうやら初めてではないのだけれど……僕は君を泣かせたりしてばかりだ。

 笑って欲しいのに。


「………ニコラス」

 彼は不機嫌な顔のまま、名前を教えてくれた。

 ニコラス……。
 僕の口の中で転がしてみる。馴染みがあるから、彼には馴染まない名前だ。


「へえ。僕の友人にもニコラスっているよ」

 チームは違うけれど、仲の良い選手だ。よく一緒に飲みにも行くし。
 ただ、僕の知っているニコラスは、身長も僕より高くて、肩幅も胸板もがっしりしていて、男らしいという形容詞がとても似合う奴だから、彼とのギャップに少し面白くなって笑ってしまった。
 共通点は美形ってくらいだ。
「知ってる、アイスオックスの選手だろう」

「なんだ、そうなの」

 そのネタで話題を振る事ができればいいと思ったのに。彼がどんな人なのか、僕にはさっぱりわからない。とりあえず、とても綺麗な人だということしかわからない。

「ああ。昔からクィディッチは好きでな」

 そういえばファンだって言ってたことを思いだす。


 彼は家出してきて、僕と会って仲良くなって、僕の家に住んでいる。


 それは、本当だろうか。
 眠りに帰るだけのこの家に、誰かが生活しているようではなかった。今だって、何も置いていない。僕にはあまり必要なものがないし……。
 最近は僕も使っていないのに。

 彼が住んでいるのなら、こんな風に料理が作れるのなら、キッチンがもっと汚れているはずなのに。

 嘘か?


 はぐらかして何も答えてくれないから。
 僕は君の事が知りたいんだ。




 部屋は、どこを使っているんだ?

 さっき着替えるために二階に上がったけれど、使わない部屋を閉め切っておくと換気が悪いから扉は開けておいているのだけれど。
 どの扉も開いたまま。

 もし、彼がこの家に住んでいるのなら、どの部屋を使っているんだろう。一階はリビングを広くしたかったから、部屋はリビングだけ。ダイニングも繋がっているから。


 嘘、なのだろうか。どこまでが? それとも全部?


「ニコラス、どこの部屋を使う?」

「ああ、あとで部屋を見せてくれ」

 さらりと。


 ああ、やっぱり嘘なんだ。

 僕の中に君がいる事はわかっているんだよ。

 でも、それでも君は僕に君を伝えてくれようとはしてくれないんだね。



 何で嘘なんかつくの?




 そりゃ、忘れた僕が悪いんだけれど、でも何で嘘なんか。

 僕は信頼されていない関係だったのだろうか。
 僕たちは、本当にどんな関係だったの? 普通の友人?




 悔しい。
 何で僕は彼のことを忘れてしまったのだろうか。
















070526