7(D)















 僕は僕の髪を触れるハリーに気がついた。
 僕の髪質は柔らかいので、ハリーは気がつくと僕の髪を触っていた。
 髪にも神経があるように、ハリーに触られると、それだけで嬉しい。

 僕はハリーの手が気持ち良くて、いつまでもこうやってじっとしていたくなる。

 僕はハリーの手を握り締めたまま、ソファに俯せる姿勢で眠ってしまったようだ。

「ハリー………」

 昨日………ハリーは僕のことを。

 大丈夫。
 こうやって触ってくれているんだ。
 昨日はハリーが混乱していただけだ、きっと。

 大丈夫、もし僕を知らないならこんな風に僕の髪に触れていることなんか、きっとないんだ。






「君、ずっとそばにいてくれたの?」






 ああ……………。


 大丈夫って、ハリーに言ってもらってないから、やっぱり駄目なんだ。
 ハリーじゃなきゃ駄目なんだ。

 確定された絶望を僕は突き付けられた。

 名前で呼んでくれていない。僕のことを名前で呼んでない。
 ……そうか昨日の事は夢でもなんでもなく、ただの現実だったんだ。


 ハリーが僕の事を忘れてしまった。

 僕の事を知らないって……。


 目頭が熱くなる。
 胸が詰まる。


 昨日、散々泣いたのに。
 きっと瞼が腫れてみっともない顔をハリーに見せているはずだ。

 もう泣きたくないって思うのに、

 胸が潰されてしまうよ。


 ハリーが僕を……。



 ハリーのせいじゃない。誰かが悪いわけでもないんだきっと。


 ハリーが僕を忘れてしまった。

 涙が止まらないよ。



「僕のこと………」

 僕の事を本当に忘れてしまったの?

 好きだって言ってくれたことも?
 一緒に住もうって言ってくれたことも?

 僕への気持ちも無くしてしまったのだろうか?

 ハリーが悪いわけじゃない。

 だけど。
 切なくて。


 ハリーの深緑色は僕を映しているのに。
 僕を見てくれているのに。

 僕はハリーを縋るように見つめたから、彼は困ったように僕から目を逸らした。


「っ……」

 何かを言おうとしたハリーの顔が歪む。

「ハリー! ハリー、大丈夫か?」

 頭を押さえて、立てた膝に顔を埋めて、苦痛の声を出す。
 痛いんだ。ハリーが苦しんでいる。僕は何か彼にしてあげる事ができるんだろうか。


 昨日も……。


 僕を思い出そうとしてくれているのかな。
 そうするとこんな風に苦しいのだろうか。


 ハリー……。


 ハリーを抱き締める。
 抱き締めて、そんなことで僕が伝わるはずないけど、それでも。


 大丈夫だから。
 痛いなら、やめていいから。無理に思い出そうとしなくていいから。

 僕は大丈夫だから。

「ごめん、大丈夫」

 大丈夫。
 ハリーが、そう言うから。





 大丈夫、なんだ。
 僕は大丈夫。


「…………そう、か」


 ハリーが辛くないなら、苦しくないならそれでいいんだ、僕は。


 大丈夫なんだ。

 ハリーが僕を忘れてしまっても僕の中からハリーがいなくなってしまったわけではないから。


 大丈夫。何度も唱える。
 僕はいつもと同じだし、ハリーが僕を忘れてもハリーがいなくなってしまったわけではないんだから。


「他に痛い所はないか? ちゃんと病院に行って見てもらったのか?」


 声はいつもと同じ物が出せたと思う。




「行ってないけどさ、なんで君が?」



 不思議そうに尋ねられると、なんだか頭に来た。
 どれだけ心配したと思っているんだ。

 でも記憶が飛んでしまうくらいの衝撃を受けたなら、もしかしたら外傷はないけれど………。

 僕は考えている事が怖くなって、テーブルの上にある昨日届けられたクィディッチの速報をハリーに突き付けた。
 大丈夫。
 そう、ハリーの口からその言葉が出たら絶対大丈夫なんだ。
 そう思うと安心してきて………。


 頭に来た。


「何をやっているんだ、本当に、お前は馬鹿か」

 そんな初歩的なミス。学生の頃僕だって直撃なんかしなかった。クィディッチは楽しいけど一瞬でも集中力を欠いたら大怪我をする可能性だってあるんだ。お前は何年箒に乗っているんだ。


「なんで君にそんなこと言われなきゃいけないんだよ」
「うるさい、ファンをなめるな!」

 ハリーが口を尖らせたけれど僕が一喝したら、黙り込んだ。
 クィディッチ界のヒーローとまで呼ばれているハリーにとっては僕なんかにそんな事を怒られるのは気に食わないのかもしれないけれど、でもやはり一言言わないと気が済まない。

 いくら、勝ったら一緒に住むって約束してたからって……。

 馬鹿ハリー。

「……スミマセン」

 ハリーは、素直だった。
 実際、あんなこと退場だなんて……ファンじゃなくても思うに違いない。

 僕は溜め息をつく。

 そして、大丈夫なんだ、僕はと思う。
 ハリーがちゃんとこうやっていてくれるから、だから大丈夫。

 僕からハリーを取り上げられたわけではない。

 僕は立ち上がる。

 今ハリーに顔を見られたくない。



「今日、練習があるのか? あるならちゃんと休んで病院に行って来い。今は朝の六時だ。今からなら連絡を入れれば間に合うだろう? 昨日キッチンをのぞかせてもらったが、ベーグルとベーコンはあったから簡単に朝食を作ってやる」

 早口になったのは、これ以上ここにいたら喋れなくなってしまいそうだったから、嗚咽で。

 きっと、変に思う。


 僕は、キッチンに行って、ハリーが見えない場所で泣いた。


 ハリーが、元気そうで良かった。




 ハリーが僕のことを忘れてしまった。

 神様………。


















 簡単に炙っただけのベーコンをベーグルに挟んでハリーに渡した。本当はもっと美味しいものを作って上げたかったのだけど。

「君は一体誰なの?」

 無言で口だけを動かしていると、ハリーが僕に問い掛けた。
 確かに僕を知らないのであれば、僕の存在はとにかく異質なものだろう。
 勝手に家に上がり込んでいるわ、キッチンを使うわで、何者なのかを知りたくなるのも当然だと思う。



「直球だな」



 どう、答えれば良いのだろう。
 それに、ちゃんと僕達の関係を伝えた所で、信じてもらえるのだろうか……。


「ハリー、お前は実はゲイで僕はお前の恋人だ」

「…………はあ?」

 やっぱり。
 妥当な反応が帰って来た。僕も知らない人間にそんなことを言われたら、どう反応を返して良いのかわからないから。
 そんな事を突然言われても理解するのは無理だろうから。

 ハリーは顔を赤くしたり青くしたりと色々な百面相を作って見せてくれたのだが、さすがになんだか……。



「いや、冗談だ」

 ハリーの顔が面白かったから、僕はつい笑ってしまった。
 昨日の朝は僕はちゃんと笑顔を作っていたはずなのに、とても久し振りに笑えたような気がした。

 大丈夫、ちゃんとこうやって笑える。


「ひどいよ、怪我人にさ」
「ひどいのはどっちだ。僕のことを忘れるなんて」

 軽く、そう笑って言えたけど……。
 なんで僕のことなんだ。

 なんで他の人じゃなくて僕なんだ。
 他にもハリーにはたくさんいるのに、だけど僕にはハリーしかいないのに。

「僕は実はアズカバン送りにされる予定の罪人で、魔法省に追われていた所をお前に助けてもらったんだ」

 神妙そうな顔をして言ってみた。
 僕は罪人なんだ、追われているわけではないけれど。

「それも冗談でしょ」

「ばれたか」
「だって君、虫も殺せないような顔をしてるし」

 アズカバンに送られる所だったのは事実だけれど。それに虫くらい殺せる。


「じゃあ、僕は見合いが嫌で家出をして、大ファンだったクィディッチ界のヒーローのハリーと会って、意気投合してこの家に居候させてもらっているってことにしておいてくれ」

 口から出任せだが……。

 僕は僕をなんて言ってハリーに押しつければ良いのか。嫌わないでいて欲しい。一緒にいたい。だから、僕がここにいて不自然でない関係。


 ここにいたいんだ。


「じゃあって何だよ……」
「他のが良いなら……」

 他にはどんなのがあるだろう。ハリーはどんな僕を好きになってくれるんだろう。







『僕は、きっとドラコだったらどんなドラコでも好きになると思うよ』

 いつだったか……。
 こんな風に一緒に朝食を取っていた時だったと思う、ハリーがじっと僕の顔を凝視して言った。
『なんだそれは?』
『いや、好きだなあって』
 ハリーはいつも唐突なんだ。僕は滅多にハリーを好きだなんて言わない、恥ずかしいし。目が見えなくてハリーをニコラスだと思っていた頃はハリーにたくさん告白していたけれどやはり面と向かって言うのは照れくさい。
 言われるのにはもう慣れるほどだけれど、それでも前置きもなく唐突に言われると顔から火が出そうだと思った。
『僕が不細工で性悪な奴でもか?』
 なんだか恥ずかしいのを隠すために口調が尖るのはいつものこと。
『きっとドラコだったらどんなドラコでも綺麗だろうなって。性悪って言うんだったら、昔から変わってないじゃん』
『ちっとも褒められた気はしないが……』
 それでも朝から好きだと言われて僕は一日気分が良かった。世話をしている薔薇も綺麗に咲いていた。





 どんな僕でも好きだと言うのは、結局どんな僕なのだろう。


「ああ、いいよ別に。忘れた僕が悪いんでしょ」


 ハリーがむくれている。少し口が尖る。ハリーの癖。
 僕はその顔も好きなんだ。雑誌なんかではあまり見ない表情だから、僕が特別に扱われている気がする。


「まあ、きっとすぐに思い出すと思うよ」

 あっさりとなんでもないようにそう言うから、きっと僕も大丈夫だって気になって来る。


「ねえ、名前は?」


 名前……僕の名前すら、忘れてしまったのか。

 僕は、名乗ろうとして、少し考える。

 もし……もしハリーが今の僕の記憶だけを無くしたのなら……もしホグワーツの頃のことを覚えていたのなら……。

 僕の名前を出しても大丈夫だろうか。

「食べ終わったら病院に行って来い」

 僕は名乗れなかった。ハリーの声で僕の名前を呼んで欲しいけど……。

 もし、学生の頃の僕を覚えていたら、きっとハリーは僕のことをよく思うはずなんてないから。
 僕が今名乗れるのはドラコだけだけど………。

 せめて嫌われたくないんだ。


「一緒に行かない?」

 一緒に行きたいけど……心配だし……。

 この町は小さくて病院は小さな診療所だけだから。僕が薬屋のような事をしているくらいだし。

 もし行くのなら、この町を出なければならない。
 ……僕はこの町から出てはいけないから。出るためには魔法省に届け出が要る。

「……なんで僕が?」

 一度、目が見えない時にハリーの箒で空を飛んだ。あの時は無許可で、その時以外、僕はこの町から出たことはない。あの時は見つからなかったけれど、もし見つかったらどんな処分があるのだろう。

「まあ、いいけどさ」

「じゃあ僕は読みたい本があるから」


 ハリーが立ち上がってジャケットをとる。



 ………行ってらっしゃいのキスは僕から……。





 僕は、笑顔でハリーを送り出した。


 軽く上げたその手の薬指に、まだ僕とのペアリングがはめられていた。

















070523