6(D)















「君は、誰?」



 僕が、凍ったかと思った。実際そう言われた瞬間に僕は身体が動かなくなった。心臓が止まった気がした。僕の何もかもが動かなくなってしまった。





 何をふざけた事を………。

 僕はそう思って笑い飛ばそうと思った。怪我をして、連絡も入れないで、こんなに遅く帰って来て、何の嫌がらせだと、そう言って怒ろうと思ったんだ……。






 ハリーの顔は、笑っていなかった。

 なんで? そんな冗談を言って僕をからかおうとしたって無駄なんだからって………なんでハリーは笑っていないんだ? 冗談にしても質が悪すぎる。





「ハ、リー………何を……」



 笑おうと思ったけれど、うまく笑えなかった。
 ハリーが笑ってくれないんだ。

 ふざけてるんだと思った。当たり前だ。いきなり、何を。僕の反応を見て、からかって遊んでいるんだ。

 それでも、声が、震える。


 だって、ハリーが笑ってくれないんだ。






 ハリーに触れようと伸ばした手が、その指先が急激に冷えて行くのが分かった。

 全身に寒気が……。






「君は、誰? 何故こんな所にいるの? ここは僕の家なんだよ」



 ハリーの声。
 いつものハリーの声。

 それなのに……。

 なんでそんな……ちゃんと僕を名前で呼んで。
 君って誰だよ。
 ちゃんと僕の名前を呼んでくれ。僕のことを……

 なんで……。


「僕が、わからないのか?」


 だって今朝だってちゃんと……分からないなんて事があるはず……。



「君を?」



 ハリーの声は悪戯をしている時のような声ではなかった。僕を好きだと言ってくれている時のように優しい声。

 僕の大好きな声。

 目が見えなかった頃から、大好きなハリーの声。


「今朝、お前が来いと言ったんだろう?」

 朝だってちゃんと僕はハリーをキスで送り出した。いつも通りだった。いつもとおなじだったのに……。

 僕だ、わからないのか? ふざけているんだろう? 
 僕が何かお前に嫌なことでもしたのか? 謝るから、頼むからやめてくれ。心臓に悪い。いくらハリーでも言っていい冗談と悪い冗談があるぞ。
 昨日の夜だって、朝だって。一緒に住もうって言ってくれたじゃないか。
 なんで……。


 ハリーの目が泳いだ。
 思い出そうと記憶を探っているような仕草。わざとか?
 思い出すまでもないじゃないか、だって僕達はずっと一緒にいた。



 その時に、ハリーの顔がしかめられた。

「っ……」

 呻き声を上げてハリーが頭を抱えて僕の方に倒れ込んで来る。
 ハリーが、苦しそうな声を上げて、苦しそうな表情で……。

「ハリー、大丈夫か? まさか今日の怪我で……」

 僕は、どうしていいのかわからずに、ただハリーを抱き締める。そんな事くらいしかできない。
 僕は何度もハリーの名前を呼ぶ。


 ハリーの額に、汗が滲んでいた。




 ハリーが、苦しそうに頭を押さえて……。
 どうしよう。
 怪我が痛むのか?

 僕はどうすればいい? こんな時に痛みを和らげる魔法とか、わからない。


 どうしよう、今、ハリーが苦しんでいるのは、それは事実なんだ。だって、こんなに辛そうにしている。それは、嘘じゃない。歯を食いしばっていて、汗が流れている。


「ハリー、ハリー! 大丈夫か?」
 
 聞こえていないかもしれないけれど、そんな事しか本当にできないんだ。ハリーの名前を呼ぶことしか出来ないんだ。
 ハリーが苦しんでいるのに。
 ハリーが、こんなに苦しそうなのに。
 ハリーの身体と額には、じわりと汗が染みて、それは熱さではなく苦痛による物だとわかる。
 ハリーがこんなに苦しんでいるのに、僕は代わってあげられないのが僕には苦痛で、抱き締めて、名前を呼んで、僕は本当にそんな事しかできないことが悔しくて。


 僕はそれでも何度もハリーの名前を呼んだ。























 落ち着いたらしく、ハリーはぐったりと僕の胸に頭を預けたまま寝息を立てていた。
 良かった。寝息は安定して落ち着いたものだったから。
 もう、ハリーが苦しくなくて良かった。








 なんとか僕はハリーの身体を抱き上げて、ソファの上に横たえた。
 汗がひどい。
 拭いてあげたくても、僕はこの家のことを何もわからないし、それにハリーのそばを離れたくない。

 もうきっと大丈夫だと思うけれど、それでも離れる事ができない。

 着て来たジャケットをハリーの上にかけて、僕はソファの下に座り、彼の額に触れる。稲妻型の傷跡、彼の証拠。
 熱はないようだ。良かった。
 明日は元気だといい。









 僕はハリーの手を握り締める。
 いつもハリーの手はマメだらけでささくれだらけでごつごつと武骨で、それでも大きくて暖かくて僕は大好きなんだ。この手が僕の頭を撫でてくれるのがすごく幸せなんだ。

 いつも暖かい手が今日は汗ばんでいて、少し冷たい。
 僕が今日は暖めてあげるから。僕はあまり体温が高くないから、あまり暖かくないけど、それでも………。



 僕が暖めてあげる。







 ハリーが僕を忘れてしまった。




 本当なのか?

 嘘だって……今でも信じられない。

 でも、ハリーは冗談だって言ってくれなかった。だって、笑ってくれなかったんだ。









 ハリーが、僕のことを忘れてしまったんだ。
 あんなに好きだって言ってくれたのに。




 どうしよう。

 ハリーは、僕の中心だった。ずっと、学生のころから、きっと。

 言った事はないけれど、ずっとハリーに憧れていたんだ。自由で。空を飛ぶ姿が、自由で、ハリーに近付けば僕も自由になれる、そんな気がしていたんだ。





 ハリーが僕を、知らないって。






「……ぅっ…くっ」


 泣いたら駄目だ。
 せっかくハリーが寝たのに起こしてしまう。
 泣いたらきっと起きてしまう。

 怖い夢を見て、夜ハリーの隣で泣いていた時も、ハリーは僕を抱き締めて、涙を拭ってキスをくれた。寝ていたのに。
 泣いたら起きてしまう。

 あの時、僕はどんな夢を見たんだろう。

 昔の夢だろうか。暗くて広くて誰もいない、闇が襲いかかって来る恐怖に怯えて独りでベッドの上で夜通し起きていた頃の夢だろうか。まだ僕は広くて暗い場所が嫌いなんだ。
 どうだったか……。


 あの時僕が泣いていたら、ハリーが後ろから抱き締めてくれて、耳の後ろにキスをくれた。

『ハリーが僕を嫌いになる夢を見たんだ』

 あの時は僕はそんな夢を見た。誰か知らない綺麗な人と、楽しそうに話していて、僕がハリーに声をかけようとしたら、僕の事なんか知らない人のように横を向いてしまった。そんな夢を見たんだ。

『なんでそんな不吉な夢見てるの? 僕がドラコを嫌いになるなんて、ドラコが僕を嫌いになるよりもありえないよ』
『僕がお前を嫌いになったら、ハリーは僕を嫌いになるのか?』

 どんなことでも、僕はハリーに嫌われる可能性を排除したい。いつでも僕はハリーの一番でありたいんだ。

『ドラコは僕のこと嫌いになるの?』
『………ならない』

 たとえ、ハリーが僕を嫌いになったって、僕はハリーが好きなんだ。ずっと、嫌われていたのだし。ずっと、僕のことなんか好きになってくれるはずがないと思っていたのだし。

『じゃあ、そんな仮定は無意味だよ。僕はドラコが僕を嫌いになったってドラコが好きだよ』



 そう言って、僕を前から抱き締めて、僕はハリーの胸に顔を埋めて、僕が安心して泣きやんで眠るまで暖かい手で僕の頭を撫でてくれたんだ。

 今は、冷たい。

 涙は止まらない。
 嗚咽も止まらない。

 大丈夫、何度も僕を大好きって言ってくれたんだ。

 一晩眠ればきっとよくなる。
 今日は頭をぶつけてしまい混乱していただけなんだ、きっと。
 大丈夫。

 僕が悲しい事や困ったことがあると、理由なんか訊いてくれなかったけど、僕も言うつもりはなかったけど、それでも何度も大丈夫って……。
 ハリーがそう言うから、僕は大丈夫な気がして。

 大丈夫。
 心配しないで。
 僕がついてるよ。
 僕がずっと隣にいるから。
 僕は英雄なんだってさ。
 この僕が言うんだから、ドラコは絶対大丈夫だよ。



 僕の英雄なんだ。


 僕の中心にずっといるんだ。



















 僕のことを忘れたら、嫌だ………。






070522