4(H)

















 目が覚めると、僕は控え室のソファで寝かされていた。
 見覚えがある場所だし、何度もこうやって運ばれたことがある。僕だけじゃなく他の選手もだ。

「……かっこ悪い」
 鮮明に覚えている、スニッチに夢中になってしまい、暴れ玉に気が付かずにもろに直撃した。初歩的なミスだ。
 情けない。

 まだ試合は終わっていないようで、歓声が聞こえる。今試合はどうなってるんだろう……。
 監督に怒られるだろうな……。
 頭がずきりと痛んだ。頭をぶつけたらしい。きっと大きな瘤になるだろう。これくらいで済んでよかったと思うべきだろう。
 身体中の関節を一通り動かして見るが、別に痛い場所もない。手の甲を擦りむいたらしくヒリヒリするが、これくらいならよく効く軟膏をつければその場で治るくらいだ。
 いたたまれない気持ちのまま僕は試合の様子を伺った。補欠のシーカーはあまり強いわけではないから……。

 試合は予想通りの大敗。

 僕のミスだ。ああ、怒られるだろうなあ。
 僕はチームメイトに何て言って良いのかわからずに、第一声の言葉を考える。
 早く考えないとチームメイトが戻って来る。何て言って謝れば言いのだろう。今日の試合前にみんなに今日は絶対勝つからと発破をかけたのに。その僕が試合早々退場だなんて……。




 悶々と悩んでいるうちに、間もなく扉が開いた。まずはキャプテンが入ってきて。
「ハリー、大丈夫か?」
 怒られる前に心配された。それがまた僕をより落ち込ませる。
「ああ、うん。ごめんなさい」
「いや、大丈夫ならいいんだ」
「本当に申し訳ないです」
「本当に平気か? 頭打ったりしてないか? 怪我をしてたりとか……」
「本当に大丈夫だって。頭をぶつけたみたいだけど、ちょっとこぶになってるくらいだよ。あと手を擦りむいたくらいでさ」
「ならいいんだけど」
 みんなが口々に僕を心配してくれる。
 ああ、僕は愛されているなあ。みんなありがとう。しかも、負けたことに僕に謝って来る。みんなのせいじゃないのに、僕のせいなのに。

「ハリー、反省会はいいから、今日は帰れ」
「いや、大丈夫だよ。頭ぶつけたくらいで痛い所もないし」

 いつも、チームは試合のあと、反省会とそのまま宴会になだれ込む。僕はそういえば最近反省会だけで最後まで参加していなかったけど。
 やっぱりこんなことがあったばかりなのだから、僕を信頼してくれているみんなと交流を深めたいような気もする。最近真っ直ぐに帰っていたから。
 どうせ、家には誰もいない。
 帰っても、暗い家が待っているだけだ。
 狭い部屋で育ち、学生の頃も相部屋だった僕には広く静かな家は、ずっと憧れていた居心地の良い場所なのだけれど。


 リーグが始まったわけではないから、まあそれほど大した失点でもない。
 僕はみんなと楽しいお酒を飲んで、久しぶりに暖炉を使わずに帰った。
 時々ぶつけた頭が痛んだけれど、練習中にもっと酷いこぶを作ったこともある、大したことじゃない。














 家に着くと、僕の家の居間から明かりが漏れていた。

 ………僕は今日、明かりを点けたまま家を出てしまったのだろうか……。
 今日の朝………?
 覚えていない。いつも朝は、窓の多く採光の多い家だから朝明かりをつけることはないから、いつものように点けていないはずだ。
 昨日の夜は?
 ………いつも僕は練習が終わった後、何をしていた?





 ともかく、早く帰ろう。酔いも覚めて来た。



 ドアノブに手を掛ける。ああ、鍵、どこだっけか。
 ジャケットのポケットに鍵を入れるはずだ、いつも。ポケットに手を入れる前に、僕が手を掛けたドアノブは、かちゃりと音を立てて回る。
 開けたままだったのか? 
 酔いが回っているのか、朝のことが思い出せない。
 まあ、もし開けたままにして置いたとしても、泥棒が入ったとしても、何も高価な物は置いてないから大丈夫。盗られたとしてもたいした物は置いてない。
 たいした心配をしていたわけでもないが、それでもやはり緊張する。
 泥棒が入っていたとしたら、鉢合わせでもしたら嫌だ。






 扉を開く。


 何かが違う。

 何か…なんだ?


 この家の扉を開くと、いつも冷たく動かない空気が押し寄せて来る。誰もいないから、空気は冷えて固まっているはずなのに。

 でも、空気が柔らかい。


 まるで誰かいるみたいだ。

 誰か、いるのか?



 誰だ?
 物色されているような音は聞こえない。

 居間から漏れた光は柔らかく………。不審に思いながらも、それでもなぜか嫌な予感はしなかった。僕は自分の家なのに、足音を忍ばせた。

 そっと、リビングの扉を開く。















 綺麗だと思った。


 まるで、そこに光があるように。




 精巧に作られた人形かと。


 銀色。眩しい光の色。



 僕の家のソファに、誰かが眠っていた。

 ほとんど銀に近い色合いのブロンド。年は僕と同じくらいだろうか……。
 何故、こんな所に……。
 ここは僕の家だ、間違いない。さすがに酔って帰って来たとしてもそのくらいはわかる。同じような家が建ち並ぶわけではないんだ。
 これは……。


 泥棒ということではないだろう。もし彼がその職業であればこんな所で明かりを点けたまま眠るはずがない。

 彼は白いシャツにその華奢な肢体を隠し、ソファに身体を横たえて。。
 なぜか、新聞を握り締めていたのが気になった。ぐしゃぐしゃになって……何だろう……。


 さらさらと光の色をまぶした銀髪は頬にかかり、その顔を隠す。
 肌は透けるほどに白く、唇は赤く、うっすらと開いて、閉じられた瞳は長い睫毛で覆われていた。
 綺麗な……そんな形容しかできなくなるくらい。

 僕は知らないうちに近寄って彼の顔を観察していた。
 ソファの前に膝をついて……いつまでも見ていたいような……触ることもできなかった。起きてしまったら、彼が消えてしまいそうな気がした。起こしてしまいたくなくて、僕は自分の呼吸すら止めていたんだ。
 微かな寝息。呼吸をする度に倒した身体が僅かに上下していた。

 ふと、

 その長い睫毛が動く。




 瞳の色は透けるようなアイスグレー。
 まるで宝石をはめ込んだみたいだ。


「ハリー……」

 彼が柔らかな声を紡いだ。
 僕は今までこんなに甘く僕の名前を呼ぶ声を聞いたことがあっただろうか。

 口許には柔らかな笑みを湛え、瞳は僅かに細められていたが、それでも僕を映していた。

 白く、細い指先が僕に向かって伸ばされていた。整った卵型の爪は薄いピンク色をしていた。

 僕はその手に触れて良いのかと……僕なんかが触れて汚してしまわないだろうかと……。

 どうしていいのか、わからなかった。

「ハリー?」

 不思議そうに……
 彼の顔から笑みが消えた。


 何を言って良いのかわからない。




 君は誰なんだ?
 僕はこんな綺麗な人を知らない。
 こんなに綺麗な人なら、一目見たら忘れられないはずだ。









「君は、誰?」








 僕が、その言葉を言った途端に、彼が、凍り付いた。

 全ての機能を止めたのがわかった、呼吸も、心臓も………。

 なん、だ?

 その白く白い肌は、見る間に青くなって行く。

 血の気が引いて、かたかたと僕に向かって伸ばされた指先が震えた。

「ハ、リー………何を……」
「君は、誰? 何故こんな所にいるの? ここは僕の家なんだよ」

 僕は彼を落ち着かせるように、努めて穏やかな声を出せていたと思う。
 こんな甘い声が僕に出せるのかと驚くほどに。まるでベッドに入っている時のような。

「僕が、わからないのか?」

 涼やかな、声。ああ、君は声も綺麗なんだね。
 少し、震えていた。

「君を?」

「…………」

 わからない?

 僕は忘れている?

 彼を……?
 こんな綺麗な人、一目見たら忘れるはずもないのに。顔が綺麗で、その細い身体も綺麗。それだけじゃなくて、全体から醸し出される雰囲気が、透明度の高く空気を凍らせたような凛とした雰囲気が、何より綺麗。
 忘れるはずないと、そう思った。






「今朝、お前が来いと言ったんだろう?」

 声が震えていた。

 今朝?

 今日の朝?

 今日の朝、僕は?

 朝……眩しい光を見た。カーテンが開かれて溢れる太陽の光。

 眩しくて、嬉しくて僕は微笑んだのを覚えている。

 ………覚えていない。

 昨日の夜は?
 昨晩もだ。夜も帰って来て、僕は家を出た。

 僕はあれからどこに行ったんだ?


 覚えていない、思い出せない。


 僕が、今度は震え出してしまう。

 記憶が、ない。
 なんだ?

 昨日も、一昨日もその前も……夜、帰って来てからのことを思い出せない。

 空白。

 すっぽりとその部分が僕の中から抜け落ちている。




 無理に昨日帰ってからの記憶を辿ると大きな壁にぶつかる。
 その先に行こうとしても、闇が僕を絡めとりさっきの場所に戻す。
 なんだ?



 思い出そうと……。




 ずきりと頭に痛みが走る。頭の奥の方、激痛が生まれた。




 痛い。
 なんだ?

 記憶がない恐怖……。
 そして、ひどい痛み。





「っ……」
「ハリー、大丈夫か? まさか今日の怪我で……」


 触れることさえためらわれた綺麗な人が、僕の頭を抱えて………暖かい、安心して……

 優しい



 痛いんだ、


 頭が割れるようだ。

 なんだ、この激痛は。


「うっ……」


 今日の事故のせいか? さっきまで何でもなかったのに。

 痛い。

 痛いんだ。



「ハリーっ!」



 僕は頭を抱えて、彼にすがりついた。何かに縋っていないと、痛みで僕が潰れてしまいそうなほど。

 彼は、僕の頭を抱き込んで、何度も僕の名前を呼んでくれた。
 鈴の音のような澄んだ声はどこか遠くから聞こえる。冷や汗が流れる。全身から汗が噴き出して、それなのに体温がどんどん下がってくる。




 君は……?

 もう一度彼の顔が見たくて………。


 痛みを堪えながら僕は、彼の顔を見る。




 綺麗………。


 光に包まれているような、綺麗な……。



 君は………、













 誰?






















070517