43(D) どのくらい時間が経ったのか覚えていない。 時間は淀んで流れない。 過ぎるものではなく、時計のようにいつまでも同じ場所を回り続ける。 もう僕が誰なのかすらよくわからなくなってきている。 僕はドラコ・マルフォイであったはずだ。 すでに、ドラコはマルフォイを識別するための記号でしかない。マルフォイはもう僕ただ一人だから、ドラコは用無しだ。 僕を表すものは全て失われた。僕がドラコである必要はなくなった。それを名乗ることはないが、僕はもうマルフォイ以外には扱われない。 気持ちが凍る。心とか……。 「今すぐに、ここを引き払いたい」 僕は勝手に僕の部屋に上がり込んだ魔法省の役人にそれを告げた。 与えられていた温室の青い薔薇の管理だってもうできないんだ。ここにいる必要はないから。 「困りましたね。御役所は仕事が遅いから。貴方を受け入れたいという土地を探すのにも時間がかかりそうですし……」 確かにこの土地はかつてマルフォイの領内であった場所だから、未だにマルフォイに対して、闇に落ちたにも関わらずに老人達は敬意を表してくれていた。 「今すぐだ、でなければ……」 でなければ……僕はどこに行こうというのだろう。 どこにも僕の居場所なんかない。ハリーの隣……そこだけだ、僕が安心していられた場所は。 あとはどこだって同じだ。 ハリーがいないなら、きっと何もない。どこだって同じだ。 ハリーがいないなら、僕だっていない方が良い。だけど僕は自ら命を絶つ勇気なんかは何もない臆病者なんだ。 「我がラウス家にお出でになる決意はつきましたか?」 もう、どこだっていい。 ハリーがいないなら、僕だっていない。どうだっていい。 ここには居られない。 ハリーとの想い出で溢れているから。 この家にある一つ一つがハリーとの思い出に溢れているんだ。 ハリーが僕にくれたもの。ハリーが一緒にいる時に読んでいた本。ハリーが使った食器。ハリーが座った椅子。ハリーが僕を抱き締めてくれた時の服。ハリーを起こすために開ける窓もカーテンも、ハリーと一緒に眠ったベッドにも。 この家には全部ハリーが染み付いているんだ。 ここにはいたくない。 悲しくなるから。 ハリーに会う前は僕は独りでも生きていたんだ。ハリーがいなければ、いい。僕がドラコでなくなるだけだ。ハリーがいないなら、僕なんていなくていい。 「好きにすればいい」 あのあと、すぐに僕はラウス家に入った。 人形のようにしていればいい。貴族同士の集まりの時には黙って笑顔を浮かべているだけでいい。 僕が、いなくなる。 日々はゆっくりと穏やかに苦痛のうちに過ぎて行く。長く無意味な一日が終わればまた何もない乾燥した長い一日が始まるだけだ。 何も感じない。 ハリーを思い出さなければ、僕は幸福か不幸かを感じることすらない。それを不幸だとも感じない。 ただ始終笑みを浮かべていればいいだけ。 もし僕が今死んだとしても僕は何も想わない。 ハリー。 ハリーの事を思い出すときだけ、僕は心臓が動いていることを実感できる。 身体がふわりと優しい温もりに包み込まれる気がするんだよ。 ハリーは幸せになれた? 誰か教えてよ。 ハリーが笑顔でいてくれれば、僕はそれだけでいいんだ。 ハリーは幸せにならなきゃいけないんだよ。神様だってそれをご存知のはずなんだ。 どうか、幸せに………。 ハリー……。 「クィディッチはお好きでしたよね?」 僕がこの家に厄介になってからすぐに僕を担当していたギルバート・ラウスは魔法省を辞したらしい。 どうやらただ僕を探すだけに魔法省に勤務をしていたようだ。 実際この世界に戻ってきてから、マルフォイの純血としての今も根付いている権力を実感せざるを得ない。どんな奴も僕に頭を下げる。腹の中ではどう思っているのかは知らないが。知りたくもない。僕は顔に笑みを張り付かせてさえいればいいんだ。 ラウス家は着実に権力を伸ばしていった。ギルバートの父親が病死し、ギルバートが跡目を継いだせいもあるだろうが。 僕は笑ってさえいればいい。 ハリーの事を思い出さなければ……。 「僕が? 目が見えないというのに?」 視力は、また封じた。 あの時ギルバートには僕の目が見えていることを悟らせてしまったが、僕は知らないふりをしたし、ギルバートは何も言わなかった。 だって……ハリーがいない世界は見なくてもいい。それほどの価値もない。ハリーがいたから世界は光が溢れていた。ハリーがいない世界は、見えていてもなんの感動もないんだ。 だったらハリーの笑顔を目蓋に残したまま、その上から何も上書きしたくない。 いつまでも僕の中にハリーを綺麗に残しておきたい。 「最近あまり御元気ではないようなのでで」 「気のせいだろう?」 「瞼が腫れていますよ」 ああ、また昨日の夜、泣いたから………。 「昨日は遅くまで起きていたからな」 別に僕が何を想っていてもいい。僕が笑ってさえいれば、誰も何も困らない。別に僕の瞼が腫れている理由なんてなくてもいいものだ。ただ外見的にあまり良いものではないが。 「この前、クィディッチのあるチームとオーナー契約したのですよ」 クィディッチは貴族の道楽の部分がある。僕も学生の頃はよく父に連れていってもらった。父はそれほどの道楽として好んでいたわけではないが、付き合いというのもあるらしい。僕はその頃から好きだったけれど、あまりはしゃぐと父に嫌な顔をされたから、あまり顔には出さなかった。 オーナー契約をしたという……。クィディッチを楽しむのではなく社交の場の一つになっている。道楽だ。 「今度、観戦に行きましょう。雰囲気だけでも楽しめるはずです」 僕に拒否権はない。 面倒だから行きたくないんだ。僕は生きているだけで、最早恥になる。 没落したマルフォイだなんて……。 喜ぶ奴なんかいない。無くなったものだ。闇に落ちた。 僕が生きていることだけで父はさぞお嘆きになるだろう。父はご自分の生き方には誇りを持っていたから……決して誉められたものではないが。 それに、とギルバートは付け加えた。 「会わせたい方もいるんですよ」 僕は人間ではなく人形であればいい。 僕はただ使える道具であればいい。 今度はどんな女性を紹介されるのだろうか、目が見えないから解らないが、醜女か行かず後家か。 せっかく来てやったんだから、僕を有効に使え。 家と家を繋ぐパイプとして、僕は非常に役に立つだろう。何しろあのマルフォイだ。没落したとは言え、貴族主義の中核の信条としての純血からすると、僕は雑じり気のない象徴としての役割を存分に果たしているはずだ。 そして背後に、最近台頭してきたラウス家があるとすれば、子孫を残すことができなくとも、僕との縁談を結びたいと考えている家はいくつもあるだろう。 僕は目が見えないのだし……気に入らない相手なんかいない。僕に拒否権はない。あっても使う気さえない。 どうだっていいんだ。 別に誰だっていいんだ。 ハリーでなければ誰がいたって誰がいなくたって同じ。 離れてみてわかる。 僕はハリーだけでできていた。 離れなくてもそんなことわかっていたんだ。 ハリーがいない。 僕のとなりにハリーがいないんだ。 助けてよ、ハリー、切ないんだ。 僕が困ったら助けてくれるって言ったよね? 僕が悲しかったら慰めてくれるって言ったよね? 僕が不安だったら抱き締めてくれるって言ったよね? 僕に何があってもそばにいてくれるって……… それを拒絶したのは僕自身なんだ。わかっている。 今更……。 だってずっと好きだったんだ。 ずっとハリーを見ていたんだ。 忘れるには同じ年月が必要なんだ。 それでも忘れられなかったらきっとそれが日常になる。人間は痛みに馴れる動物だって何かで読んだ。大丈夫、きっと、ハリーが笑っていてくれれば。 ハリー? ちゃんとご飯食べてる? 070824 → |