28(H)
















 彼が家に戻ってきたのは、それからだいぶたって、雨足が弱まってきてからだった。


 さっきまでの土砂降りが、今は嘘のよう。今はしっとりとした空気が夜を包むだけだから、この分だったらきっと昼には晴れているだろう。
 僕は、何をしていいのかわからずにただじっと玄関で待っていた。
 どこかに探しに言ってすれ違いになっても嫌だったし……まず一番先に君に会いたかったんだ。
 彼が、いない間、僕はどうしていいのかわからなかった。
 もし、このまま戻ってこなかったら……。

 もし彼がこのまま……誰かの所に行ってしまったら……。
 彼がしていた指輪……彼にあげた人だろうか。こんな夜中に雨の中? まさかとは思うけど、誰かに会いに行ったのだろうかと、僕の胸騒ぎは止まらない。
 何でもいいんだ、近くにいてくれさえすれば。僕の隣に君がいればいいんだよ。本当にそう願っていたんだ、その時は?




 だから、扉が開いて、彼が僕の家に戻ってきてくれたときには、正直安心した。





 玄関が開いて、明るい彼の髪の色を見た時に本当に涙が出るほどに嬉しかった。帰ってきてくれてありがとう、て。

 彼は僕を見つけて、はにかんだ笑顔を見せてくれた。そしてすぐに顔を伏せた。


 でも。





「どこに行ってたの?」

 僕に黙って、こんな雨の中。誰に会いに行ってたの?

 心配したんだよ、すごく。不安だったんだよ。

 君がいなくなるんじゃないかと思って。




「こんな雨の中、どこに何の用だったの?」


 どこに行ってたの?

 僕に知られたらいけないことでもあるの?

 誰に会いに行っていたの?

 疑心暗鬼に囚われる。君のことが信用できない。

「ああ、庭の鉢植えが倒れていないか心配になって見て来たんだ」

 いつも、彼ははぐらかして答えてくれない。見え透いた嘘しかつかない。それが嘘だってわかる嘘しかついてくれない。君の本当のことを知りたいんだよ。
 なんで僕に言わないんだ。
 もし君が他の誰かを好きだったとしても、僕にそれを止める権利なんかはないんだ。君がどこに行っても僕にはどうすることもできない。
 僕が部屋を貸しているだけ。洗濯とか、そういう身の回りのことはやってくれるけれど。それが僕はとても嬉しくて、つい甘えてしまっているけれど、でも僕にそんな権利はないんだよ。君は僕のところにいて、家のことをやる義務なんて何もないんだ。


 それがひどく悔しい。


「心配してくれたのか?」

 彼が明るい口調で間の抜けた事を話すから。

 心配したんだ。
 どこかに行ってしまうんじゃないかと。

 僕のことなんてちっとも考えてくれてないんだろう? こんなに心配したのに。

 君は僕のことなんて本当はどうだっていいんじゃないか。
 そんな言葉は何の役に立つのだろう。
 何をしたって、君が僕をもし好きになってくれても……君を束縛することなんてきっとできない気がした。僕にそんな権利なんてない。


「女性ではないのだし、このあたりは治安も良いんだ。心配なんかは要らない」

 彼は軽く笑うと自然な動作で上着を脱いだ。とても自然な動き方だった。
 きっと僕は今とてもぎこちない動きをしている。
 きっと僕の怒りは空気を介して彼に伝染しているはずなのに……それを気付いていない? それともわざと?


「とりあえずシャワーを浴びたいんだ」

 そう言いながら、彼は僕の肩に少し肩をぶつけながら僕の横を通り過ぎようとしていた。

 実際彼の身体からは湿った香りがしていて、身体も冷えていた。近づいたときにひんやりとしたから、シャワーを浴びたいというのは本当なのだろう。

 それに……泥だらけだ。

 珍しくデニムを穿いていたようだけれど、雨と泥とで、ぐしゃぐしゃに汚れていた。
 どこに行っていたんだよ。この辺は、あまり舗装されていない道もあるから……こんな雨の中で歩いたらすぐにズボンの裾は真っ黒に汚れてしまうだろうけれど……それにしても、この汚れ方は、おかしかった。



 本当に、心配したんだ。



「僕の質問に答えてくれてないよね」


 彼は僕の怒りには、気付こうとしないで、それとも気付いていてわざとか……僕のそばを通り過ぎようとしていたから。


 僕は壁に手を突いて、彼の進路をふさいだ。
 僕の予想以上に荒々しい動作になってしまったけれど。


「………ハリー」
「ねえ、どこに行ってたの?」

 どこに行っていたの? 僕になんで隠し事なんてするの?

 僕が、君の事を忘れてしまったから?

 もう、最近は不安で眠れないんだ。
 今まで布団に入ったらすぐにすぐに寝つけていたのに……ずっと君のことを考えてしまって、最近はよく眠れないんだよ。


 君がそばにいてくれないと……。


 僕は、堪えきれなくなって、でも必至に我慢しながら、彼を抱きしめた。
 限界だよ。

 君がここにいるのに。
 こうやって、抱きしめていたいんだ。



 それでも、僕は出来る限り優しく抱きしめたんだ。この想いのまま抱きしめたりしたら……壊してしまいそうだ。

 彼の身体は、本当に冷えていて……僕が、暖めてあげるから。
 ねえ、ずっとこのままでいようよ。


「好きだって、言ったよね……」

 好きだって、知ってるでしょ。
 僕は、君に想いを伝えたんだ。
 返事もしてくれない。

 細い、身体。

 女の子とは違う抱き心地。細くて、華奢で、折れてしまいそう。


 大切にしてあげるから。

 誰よりも君を大切にしてあげるから、ねえ、ずっとこうやって僕に抱きしめられていてよ。



「……ああ、聞いた」
「冗談だと思った?」


 困らせたのはわかっているけれど……。君は僕の気持ちを知っていて、それで、僕の家にしかいる場所がないから、それで僕を利用しているの?

 それでもいいから……本当のことを教えてよ。


 君のことなら、何でも受け入れるから。

「いや」

 彼が、僕の腕の中で、かすかに首を振った。
 冗談じゃないってわかっているなら、なんで僕に返事をくれないんだ?

 僕のこと好きじゃないならそれで良い。
 僕の気持ちが重荷になるなら、もう言わないから。



 それでも……。



 キスが、したかったんだ。


 僕に気持ちをくれなくても、僕は君が好きなんだ。


 キスを、してしまおうと思って……。
 彼の滑らかな頬に、頬ずりをすると、濡れた感触が僕の肌に触れた。





 ――涙?




 君の瞳から、一筋。





 泣かせて、しまったのだろうか。

 僕が、君を泣かせてしまったのだろうか。




「ごめん……」



 泣かせたいわけじゃない。

 僕が一番君を笑顔にしたいんだ。誰よりも強く、そう思っているんだ。





「……ハリー?」

 笑って欲しいんだ。


「泣かせるつもりじゃなかった」





 彼が、何を思っているのかはわからない。
 僕を、受け入れてくれない理由もわからない。
 僕を友人としての好意を持っているから、同性だから僕の気持ちを受け入れないというわけではない。それは僕はわかっているんだよ。

 君を抱いた時に、それはわかったんだ。


 男に抱かれてあんな風に反応するだなんて……。




 泣かないでよ。




 僕が、笑顔にしてあげたいんだ。











「ごめんね、ニコラス」










070715