20(D)



















 あれ以来、僕達の歯車はズレ出した。



 いつもと同じように振る舞っていて、それでもどこかぎこちない。


 きっと、これでいいんだ。

 あの時……僕が、ハリーを突き放した。抱き締められると、あの時そう思った。
 それは、ただの僕の勘違いだと思うけれど。
 ハリーに触れただけで、身体が熱くなってしまう。想いが止まらなくなる、溢れて零れそうになる。抱きしめて……そうしたら……。



 手を払われた時の驚愕と切なさは、経験があるから。ハリーにも、きっと同じ思いをさせてしまったのだろう。
 あの時、あの瞬間は、驚愕だった。あとから怒りがこみ上げた。当時としては妥当な感情だったと思う。あの時の僕は怒りしか覚えなかった。本当に昔の事だけど、未だに覚えているくらいだ。




 ハリーは、この世界の英雄で……僕なんかが独占していいものじゃない。


 いつもと同じように振る舞っているのに、それでも僕達の間の会話が減った。

 笑っていてもすぐに途切れる。
 溜め息が増えた。
 窓が多く、採光の多い作りの明るいハリーの家が、ほんの少し暗く感じた。
 空気が重くなった。空気に、質量を感じるようになった。


 こんなことを望んでいるわけではないのに。もっと、ハリーの笑顔が見たいんだ。一緒に笑いたい。そばにいるだけで、僕は嬉しいのだから。

 きっと、でもこれでいいんだ。


 まだ、あの魔法省の役人の言葉が頭を回る。ハリーに笑いかけるたびに……。










『良かったですね。ハリー・ポッターが失ったのが記憶だけで』









 ハリーが、記憶を失ったのは、僕のせいなのか?


 もし、ハリーの記憶が呪いによるものだったら……。



 もし、ではない。きっと、それは本当のことなのだろう。
 僕のことだけを都合よくすべて忘れるだなんて……ありえない。ハリーだって不思議そうにしている。僕のことを訝しんでいるはずだ。


 純血主義の貴族達は、権力に固執するばかりで心がない。僕だってそうだったから、よくわかる。相手を陥れることに手段はない。手に入れる利益の前に、善悪を感じる必要はない。



 僕だって純血の端くれだ。魔力はハリーには及ばないが、それでもこんなことにならなければ優秀な魔法使いとなっていたことだろう。魔力を取り上げられることはなかったが、それでもこんな身分だから僕は何もすることが出来ないが……魔法省がかけた強力な呪いではなく、あの男が用いた呪いだとするならば、僕にだって解けるかもしれない。解呪の法はかなり難しいけれど……それ相応の魔力と知識を必要とするから……でも僕になら出来るかもしれない。

 でも。
 その呪いを解く事ができても……僕がハリーの隣りにいる限り……もしかしたら、また……。

 次に、僕の前からハリーが消えたら?















 最近、ハリーの帰りが遅くなった。



 夕食も済ませて帰って来る事が多くなった。お酒も飲んでいるようで、帰ってくると少しアルコールの匂いがした。


 朝も僕が起こしに行く頃には、着替えている。だから、僕は最近ハリーを起こしに行くことがなくなった。着替えも自分のものをハリーの家に持ち込んだ。ハリーの服は楽だけれど、サイズも違うし、あまり似合わないことぐらいはわかっているから。ハリーは何も言わなかった。

 朝食の時間だけ、帰ってきてからハリーが寝室に行くまで……それだけが、彼と顔を会わせる時間になった。



 ………きっとこのまま……。








 これでいいんだ。




 ハリーは、幸せにならなきゃいけないから。
 それが、僕の一番の望みだから。




「ハリー、今日は?」
「ああ、遅くなるよ。ご飯はいらないから」



 ハリーが食事を済ませて立ち上がる。これで、今日の会話が終わる。

「……わかった」


 今日も、この会話。
 昨日も、この会話。
 今日もこの会話だけ。

 帰りもいつも遅く、お帰りと言うだけ。ハリーは、そのままシャワーを浴びて、部屋に行ってしまう。僕はハリーが部屋に入ったことを確認して自分の部屋に戻る。


 辛くないと言えば嘘だけど……。
 ハリーの邪魔はできない。ハリーは、僕なんかに関わっていい人じゃないんだ。




 いつか……僕はここを出て行く。

 その日までに慣れなくては。
 ハリーが手の届かない人になっても……だって、ずっとそうだったんだから。


 その日がいつか……来ない事を僕は願っている。矛盾しているけれど。
 別に、嫌われていても良いから僕はお前のそばにいたいんだ。

























「最近はどうですか?」

「今が最悪だな」

 ラウス・ギルバート。魔法省の役人。
 どんなコネを使ったのかはわからないが、魔法省にもぐりこんで、今日も僕の家に来た。

 来る事が分かったのは朝だった。僕が薔薇の手入れに必要なものをとりに家に戻ると、手紙が来ていた。
 そして、慌てて視力を封じた。目の見えない世界に僕はいなくてはならないのだから。

 僕は一人掛けのソファに座り、動かなかった。しばらく男は立っていたが、やがて断りを入れてからダイニングの椅子に腰を下ろしたようだった。長居をする気か?

 あれからまだ半月しか経っていない。
 魔法省は暇なのか?
 前任のジジイはこんな辺境に来る事を嫌がっていたのがよくわかった、手紙で済ませる事もしばしばだった。




「父からの手紙は読んで下さいましたか?」


 今日は、こっちの用件か。まあ、予想はしていた。忌々しいから考えたくもなかった。僕はもう、その世界には関わりたくないんだ。
 僕はハリーに解放してもらったんだよ。


「残念ながら読む前に灰になってしまったよ。今度は燃えない紙で送るといい」
「わかりました。父に提言してみます」

 最近、ハリーは遅いから。この前みたいに心配をかけるようなことはないだろうけれど。

 苛々する。
 僕の記憶によれば、この家とは浅い付き合いしかなかったはずだ。
 マルフォイの傍流にあたる家だ。何度か目の前にいる男の父親にあたる男に会ったことを思い出した。
 目付きがギラギラとして痩せこけていた。
 父が僕を連れて行って下さったパーティで何度か会ったことがあった。陰湿そうで執念深そうな顔だった。出し抜く事ばかりを考えていそうな……ほとんどがそういう大人だった。人の顔を覚えるのは得意だったから。






「何を考えていらっしゃるのですか?」

 僕はわざとらしく紅茶を一口啜る。ギルバートと名乗る男には出していない。僕はお前を招いてはいないと、あからさまに見せ付けているのだけれど、ギルバートはそれを一向に介さない。わかっているのだろうが。


「お前の顔を想像していた。父親に似ているのであれば、さぞかし狐のような顔をしているのだろうな」
「父を覚えていらっしゃるのですか?」
「いや、忘れたな」

「生憎、私は母親似です」


「……それは残念だ」

 嫌味を嫌味だと理解してはいるのだろうが……どうにも僕の方が分が悪い。
 僕とのこの会話すら楽しんでいるような。


 僕の弱点は把握されている。何も持っていない唯一の僕の弱点はハリーだ。唯一にして最大。僕は、ハリーしかいないんだ。
 他には何もない。
 何がなくなっても困らない。
 ハリーがいないのであれば、アズカバンに送られることだって僕は覚悟していたのだから。



 ハリーのそばを離れたくないんだ。今は、まだ。
 少しでいい、近くにいたい。


「何が……ハリー・ポッターが貴方を引き止めるんですか? 貴方のことを忘れても?」

 僕は、歯ぎしりをしそうになる。
 今まで僕は幸せだった。




 邪魔をしたのはこの男。



 その幸福が例え間違いだったとしても、僕は……。

 ハリーにとっても正しい事をしたのかもしれない。一般的に見ても、英雄と罪人、同情をしているとしか思われないだろう、それでも僕はハリーの近くにいるのが嬉しかった。僕だけの利益だ。ハリーには、僕は必要がない。

 ハリーには幸せなってもらわなければ……。ハリーは、英雄なんだよ? この世界を救ったんだ。僕を解放してくれた。
 この男がしていることは間違いではないのかもしれない。



「そう思うのか?」


 もし、僕がハリーにしがみついていたら、またハリーの中から今度はニコラスと名乗ってそう呼ばれている今の僕すらいなくなってしまうかもしれない……。


 もう、あの恐怖は二度と味わいたくないんだ。




『君は……誰?』




 まだ、頭の中にこびりついている、ハリーの声。
 あれは、驚愕ではなく、恐怖だった。


 ハリーの中から僕がなくなる恐怖。
 僕にはハリーが全部なんだよ? 
 僕が、いなくなってしまうような、恐怖。
 死んでしまったとしても、僕はハリーの中にいたい。






「貴方とハリー・ポッターとの関係は?」

 どうせ、調べたのだろう。知られていることぐらいはわかっている。
 だから……僕は、ギルバートを睨みつけたかった。もしそれだけでこの男を殺せるのであればそうしたかった。




「お前が想像する通りだ」

「そうですか……ハリー・ポッターが貴方を忘れて良かった」

 いけしゃあしゃあと……ギルバートは厚顔無恥にもそう言い放った。
 忘れたのではなく、忘れさせたのだろう?



 ハリーが僕のことを忘れた、あの試合……。

 ハリーが、そんなミスをするはずないじゃないか。
 もし、そうだとしてもハリーなら避けられるはずだ。
 何か、暴れ玉に細工したのだろう。


 そうして……ハリーの記憶を消した。

 正面から行ったって、ハリーは最強の魔法使いだ、敵うはずなんてない。だから、あんなことをしたんだろう?



「そうか」





 ギルバートの声は、嬉しそうだった。この男は感情を隠すのに長けているというのに……この声に含有する歓喜は故意か? この僕が……相手の感情を読み取ることは得意な僕が、この男だけは何を考えているのかいつもはわからない。



 今でもハリーに執着していると、そう思われているのだろう。
 それは、駄目だ。



 ハリーに手を出されたくない。
 ハリーは関係ない、そう言い切ってしまうこともできないくらい、僕の全部はハリーなんだ。笑うのも泣くのも怒るのも全部ハリーなんだ。

「何か勘違いをしていないか? 学生以降久しぶりに再会して今では気の会う友人だ。お前からしたことでハリーも迷惑している」

 友人であれば……。

「それは、申し訳ありませんでした」


 ……やはり。

 隠そうともしなかった。
 この男が……ハリーの中の僕を消したんだ。
 僕にとっては、それが全てだったのに。





 ああ……でも本当に友人であれば良かったのに。
 僕とハリーは本当に友人で、会って話して、笑って……ホグワーツに居た頃のハリーの友人達のように、本当にそれだけの関係だったら、僕はどれだけ今、幸せだったのだろう。



 でも、無駄だ。


 僕は、ハリーに恋をしているのだから、そんな仮定は、無意味だ。






「何故一緒に住むのですか?」
「一件分の方が食費も浮くからな」
「……貴方に遺されたマルフォイの遺産は、大半は没収されたとはいえそんなものではないでしょうに」

 もちろん、それが嘘だなんて簡単に分かるだろう。わかるように言った。馬鹿にしているだけだ。僕が一生仕事などせずに暮らして行けるくらいの遺産はある。没収されたのは家だけで……家にはそれなりの調度品も魔法具も置いてあったから財産として考えるとその大半を没収されたわけだが、銀行に預けていたお金だけは僕のものとして残っている。魔法省が僕が勝手に生きていけばいいという計らいだろう。魔法省にも純血主義の人間はたくさんいる。
 それに、ハリーだって、年収は半端じゃない。一線で活躍しているんだ。

 ハリーとの関係を否定しきるのは、無理だ。誰にだって本当は胸を張って言いたい、ハリーが好きだって。僕は、そう言ってもいいけれど……これからのハリーにそれは邪魔だ。


「………何か無粋な詮索をする気か?」

「いえ。良かったと思いまして」

 何が良かったんだ?
 何を考えているんだ?


 この男の、考えが読めない。


「私は昔、貴方に一度お目にかかったことがあります」

 声音は柔らかかった。

「へえ……」


 こいつの父親が子供を連れて来たことがあっただろうか………思い出せない。
 父に恥をかかせないように、マルフォイと言う家名に泥を塗らないように、僕は大人の顔ばかり見ていた。その場にいた子供など眼中になかった。パーティーなどに行っても僕は同年齢の子供達と一緒にいることはなかった。親に連れられてきている子供は何人か、いたけれど……僕は父に気に入られることに必死だったから。




「……あの頃から貴方は美しかった」

 ………美辞麗句は場を円滑化させるための手段にすぎない、こいつは僕に取り入ろうとしている。


「もう一度お会いしたいと……」

 声は真摯なものだったが……つまり僕に気に入られようとそういうわけか?
 もしハリーと離れたって僕はお前の家になんか行くつもりなどはないのに。
 もう、嫌なんだ。
 ハリーに嫌われていた頃の僕に戻ることが。


「それは良かったな」
「あの時から、貴方をお慕いしていましたよ」

 …………。
 何を、考えている?
 わからない。

 嘘だ、ということは、わかる。
 マルフォイだから、気になっていたのだろう、だから覚えている。そのくらいは真実なのだろうが……。僕はただの有効な道具。そう、見えているはずだ。



「それは、虫酸が走るな」



 ハリーに褒められるのも好き。
 ハリーに好きだと言われると未だに僕は舞い上がってしまう。

 なんで、こいつに言われるとこんなに気分が悪いのだろう。
 僕は、この男が嫌いだ。
 殺してしまいたいほど。


 男が動いた気配がした。
 帰るのか?

 早く帰って欲しい。そろそろヒステリーでも起こしそうだ。




 男が、僕の手首を掴んだ。片手で両方の手首を掴まれ、僕の顔にもう一方の手が添えられた。

 シャツの上から、その手が大きな事が分かる。立ち上がる気配からも、長身だと言う事が分かる。

 分が悪い。

 杖を持っていない。持っていなくとも多少の魔法は使えるが……何をする気だ?
 こいつを出し抜くために……こいつはどう出るんだ? 考えなくては。



 ギルバートは何を、考えている?











 口が塞がれた。





 その感触から相手の唇だと分かる。
 わかった途端、総毛立った。





「………何をっ!」

 ようやく顔を振って男の唇から逃れたが、今度は、頭を掴まれ深く口付けられる。

 滑った舌の感触が、気持ち悪い。



 ………嫌だ。


 気持ちが悪い。


 相手の舌が生き物のように僕の口の中で暴れる。
 鳥肌が立つ。


 ハリーにキスされると、ふわりと浮き上がるような気分がするのに。

 なんだ、この不快さは。



「やめろっ!」

 声を荒げるが、一向に意に返す気配すらなく、男は僕の首に唇を押しつけた。

「……っ」

 歯を立てられた。肌に痛みが走る。

 男の髪が僕の肌にかかる。頭の重さすら気持ちが悪い。肌に触れる髪の毛がハリーのものじゃないと嫌だ。



「やめろっ!!」

「まさか、した事ないわけではないでしょう? こんな事くらいで」



 耳に声を吹き込むように喋られる。気持ちが悪いんだ。
 ハリーだと、あんなに気持ちがいいのに。


「何故僕がお前のような男とする必要があるんだ」

「……そうですか、女性がお好きなんですね?」

 ………。
 ハリーが、好きなんだ。

 ハリー以外には触られたくないんだ。

「大した侮辱だな」



「……安心しました。そっちの傾向があるのではないかと思っていたので」





 その芝居掛かった声からは楽しんでいることがわかった。この男は、きっと……わかっている。
 お前とするぐらいなら、女性のほうが何倍もマシだ。
 もともとゲイのつもりなどはなかった。ハリーに恋をしただけだ。ハリーに恋をするまでは、僕の恋愛対象は女性だった。ハリーが好きなだけだ。




「ならば、僕が冷静でいるうちにここから出て行け。お前を殺しそうだ」



 本当に殺せるものならば殺してしまいたいくらいだ。


「………そうですか」


 軽く笑ったのが癪に障る。手当たり次第の物を投げそうだ。杖を持っていたら、どうなっていただろう。
 流血の惨事にはなっていただろう、そのくらい僕は腹が立っていた。魔法省の役人を傷つけたとあれば、ただでは済まないはずだ。アズカバンに送られることもあるかもしれない。それでも……
 今、僕は心底からこの男が憎い。



 ふと、手首が開放され、男が離れた。



 肩から力が抜けた。僕はどうやら緊張していたようだ。
 手が、じっとりと汗ばんでいた。



「また来ます」
「僕の怒りが解けるまではお前声を聞きたくないな」
「では、それまで喋らないように努力しますよ。貴方の怒りが解けるのはいつですか?」




「お前が墓に入る頃だろうな」
「では、また来週来ます」










 パタンと、扉が閉じる音がした。


























070624
限界、眠い4:10