9

















 夜、彼は月明りの下にいた。

 ここは誰も来ない。誰も来れないと言うべきか。

 誰にも見つけられない場所。
 箒で来ることができる。
 ただ、よほど箒の扱いが上手くないと屋根の上のこんな場所に来ることなどできない。建物と建物にぶつかった風が吹き荒れているから、誰も来れないし、来る事が出来たとしても、こんな場所を探そうとは誰も思わないだろう。僕達なら、来る事が出来る。

 僕が見つけた場所。

 僕がこの場所を見つけて、僕が彼に教えた。彼はここから見える何にも遮られない大きな月がとても気に入ったようで、嫌なことがあると彼はここで一人になる。





 月明りの下。

 何かに失敗したり、嫌なことがあると、彼はここに来た。





 今日、僕はまた失敗してしまったから。

 君に触れてしまった。誰もいなかったから………。不意な動作。そんな言い訳が通用するとも思いがたいが。
 箒はその辺に適当に転がっていた、彼はその側に膝を立てて座っていた。
 掃除のされないような場所には決して触ろうともしないのに、彼は気が向いた場所に……例えば芝の上や木の枝などに……気軽に腰を下ろしすことがある。


 ぼんやりと大きく楕円をした月を見る横顔を、僕は彼が月を見るようにぼんやりと視界に入れた。


 月明かりを浴びて、君はとても小さく見えた。


























 図書室の本棚の影にいた。本棚に背を預けて、片手で本の頁を捲りながら、さらりと髪をかき上げていた。髪が彼の頬にかかる。
 そういえば最近髪が伸びたようだった。
 僕は彼を見つけてしまったので、息を呑んでその場に立ち尽くした。

 近づく事は出来なかった。
 気がついて、しまったら、僕は目がそらせない。それでも近づいてしまえば、どうなるかわかっていたから……。
 僕は、立ち止まる。

 せめて、君が僕に気がつかなければ良いと、そう思った。





 僕は、資料を探したいだけだったのだが。

 この辺りの本棚はわざと行く手を阻むように動いているのではないだろうかと思えるほど入り組んでいて、なかなか抜け出せないため、よほど探し物が無い限りこの辺りには人気がない。僕は本をそれ程読まないし好きでもないので、あまり得意としない場所。


 彼は、さらさらと落ちて来る前髪を自然な動作でかき上げる。細い肢体をローブに包んで……白い彼には黒が良く似合う。


 僕は、黙って彼を見ていた。一枚の切り取られた絵画のように現実味のない空間が彼を包んでいる。

 いつもそうだ。
 いつも、彼の周囲には不思議な空気と不思議な時間が流れているように感じる。


 僕はずっと彼を見ていたかった。
 触れることができないのならば、手に入れる事がもうできないのならば、僕はずっと彼を見ていたかった。見ることで、僕の視界の中に君を閉じ込めて……。


 音を立てたら消えてしまいそうだったので、僕は声を掛ける事もできない。
 呼吸すら、できない。

 僕の鼓動の音すらが、邪魔になる。


 時間を止める魔法があれば僕は覚えたい。
 この一瞬を切り取って持ち帰ることができたら良いのに。









「ハリー、そっちはどうだ?」

 遠くで親友が僕の名を呼ぶ声が聞こえた。図書室なので大きな声ではなかったが、静かな場所なのでよく聞こえた。

 僕が声のする方に振り返ると同時に、僕が見ていた場所からパタンと本を閉じる音がした。


 視線を彼に戻すと、僕を見つめている彼の視線とぶつかった。


 彼が僕の存在に気付いた。気付いて、目を見張った。
 アイスグレーが驚愕の色に染まったのも一瞬で、彼は僕の存在をないものとした。
 視線でわかった。
 僕を見たのは一瞬だったから。すぐに彼の瞳は横に逸れた。

 僕達の間に穏やかな空間は流れない。僕達は顔を合わせたら、嫌悪を表現しなければならない事になっている。
 だけど……誰もいないこの状態では、感情を吐露してしまう可能性が高いことを僕も彼ももう、わかっていた。口を開く事すらままならない。


 だから、彼は逃げた。
 僕もその方が有り難いと思った。
 君が、近くにいたら、僕は君に何をするかわからない。きっと抱きしめてしまうだろうから。それは、君が望むことではない。

 僕たちが望んでいるのは、そんなものじゃなくて……僕達の繋がりを断ち切ること。間違いを、忘れること、憎みあうこと。

 だから、僕が優しくしてしまう前に、彼は逃げた。
 さり気ない動作で僕のそばを通り過ぎる。


 ただ……。


 彼が本を置いて僕の横を通る時、ふわりと彼のコロンの独特の香りが鼻孔に届く。
 ずっと変わらない香り。甘く、静かに彼を引き立てる。
 彼に良く似合う香り。女物の香水なのだそうだが、その澄んだ清涼感は、彼の肌に良く馴染んでいた。




 通りすぎてしまう。

 また僕の側を去ってしまう。

 そう、思うと、僕は……。


 僕は、彼の腕を掴んだ。

 彼の身体が強張ったのを感じた。







 彼が俯いてしまった。
 僕を見ない。
 見なくても僕がどんな表情をしているのか、よくわかっているはずだから。僕が自分でどんな顔をしているのかわかっている。
 きっと彼が今している表情と同じだ。

 俯いていて、顔は見えないけれど……。

 腕は細くて折れてしまいそう。
 僕はあれから身長が伸びて、それでも彼と合わす目線の位置はそれほど変わらないから……きっと彼だって成長しているはずなのに……また痩せたのだろうか……。




「……離せ」



 彼の声は透明度が高い。奏でるように喋る。
 僕は言われた通りに彼の腕を離そうとした。

 指が、強張ってうまく動かせない。放したくない、それだけじゃなくて……離せない。



 僕の気持ちを伝えてはいけない事は分かっている。


 もし、伝えることが出来たとしても、僕の気持ちをどう表現したらいいのかはわからないけれど。だから、結局伝わらないかもしれない、でもきっと彼は僕を全部理解している。


「ごめん」

 離せないよ。
 放したくないんじゃなくて、離せない。不可抗力なんだ。
 君の命令を拒否したのは僕は初めてだった。
 君に逆らうつもりなんかはないけれど。君に抵抗したいわけじゃないんだ。


 だって、できないんだよ! 君を離すだなんて。



 ふと、彼が僕の顔を見て、泣きそうな表情を作った。僕もきっと同じ顔をしている。

 視線が、絡み付く。


 目が、逸らせない。


 わかったよ。わかってしまったよ。
 君もやっぱり無理だったんでしょ……。
 わかるつもりなんかはなかったけれど……半信半疑だったけれど、もはやそれは確信。
 無理なんだよ。


 もう、諦めようよ。


 僕は僕の中の気持ちを、君が他の奴に触れられているのを見たあの時に取り戻した。

 君の涙を見たから、取り戻すことができたんだ。それだけは感謝している。

 忘れていた方が良かったのだけれど、そんなことくらいわかっているけれど……でもこの気持ちを取り戻したら……この気持ちは僕の中で神にも等しく崇高なものだから。だから、思い出せてよかった。



 ねえ、無理なんだよ。



 やっぱり無理なんだ。









 ――だから僕を見て、ドラコ………。





 滲んだのは僕の瞳だったか、それとも君のものだったか……。





 瞳から、視線から、僕達の気持ちが溢れる。



 零れる。




















「ハリー、そっちにあったかい?」

 僕の親友が再び小さな声で僕に呼び掛けた。



 ふと、気が逸れた。
 僕の手の中から君が失われる、そんな感覚。
 僕が掴んでいた手から、彼はするりと腕を外し、ローブを翻した。


 後姿。






 
「ハリー?」



 本棚の間から僕の親友の赤い髪がのぞいた。

「ああ、ロン。ごめんなかなか見つからないや」


 僕は、滲んだ涙を見つけられないように、本棚に視線を送り、親友から顔を背けた。

「……今そこにマルフォイがいたけど……」

「………」

 今、ここにいたんだよ、君が来る前は。


 そう、言えない。
 僕は、君のおかげで助けられた。ありがとう、本当に感謝しているんだ。



「目を赤くしてたけど、なんかあった?」














「さあ、知らないよ」







 それは夢見心地の一瞬の出来事だった。











070415