7

























 二人の視線が一気に僕に集中した。



「ポッター……」

 彼の声が僕を呼んだ。
 声は、震えていた。
 顔が、歪んだ。
 いつもの機嫌の悪そうな顔を張り付かせた無表情ではない。もっと苦痛を表す表情で。

 顔色を失っていた。
 僕の顔を見て。
 僕を確認して、呆然と……。


 そう。今、君の視界に僕が入っているんだね。







「何をしているんですか、先輩?」

 きっと僕の顔は笑顔だった。
 顔が強張っているのが分かったから。




「……無粋な奴だ」

 僕の声に正気に戻った彼は、今にも泣き出してしまいそうに歪んだ顔をもとに戻して、いつもの不機嫌な顔つきにしていた。

「ポッターか、脅かすな」

 男は、見たことがあった。同じ寮の……上級生だったはずだ。この人も、彼に陥落したのだろう。僕はこの上級生の笑顔しか見た事がなかった。いつも柔らかい笑顔を顔に張り付かせていたことが気になったことがあった。誰と話していても笑顔で、怒った事を見たことがないと、そういう評判のある上級生だった。僕と同じ臭いを感じたことがあった。
 この男も内側に何かを抱えていたのだろう。
 そういう人間ほど、彼の魅力に堕ちる。
 彼に近づけば、彼に許されれば、少しは浄化できる気がするのだ。それは勿論ただの錯覚でしかないのだけれど。わかっていても、それはどうしようもないことなんだ。






「マルフォイなんかと、何をしているんですか?」

 僕は、わざと彼を見なかった。
 彼はつまらなそうな顔をしながら、シャツを羽織り直してボタンを止めていた。その様子を隠すように、男が僕たちの間に入る。
 貴方が邪魔なんですよ、先輩。




「お前は、もう帰れ」

 彼の声はいつものように平坦で冷気を含んだ光沢を持って耳に入り込む。そしてそのまま心臓を刺す。
 それは、僕に向けて発された言葉ではなかった。
 それでも同じように心臓が痛んだ。


「ドラコ……何を」

 ああ……先輩、彼の名前を気安く口に乗せないで下さい。
 僕の顔はきっと笑顔に違いない。
 怒りで、我を忘れてしまいそうだから。



「気分が逸れた。だから先輩は帰っていいです」

 顔つきはうっとりとするような笑顔だったが、それに反比例して、冷たい、声。
 それに反応して男の顔が青褪めて行く。青い月明りの下でもよく分かった。


「そんな……」

「聞こえなかったのか? もう一度言おうか?」

「………」



 彼がもう一度口を開くと言う煩わしい動作をする前に、そこにいた男は弾かれたように、彼から逃げるようにして一目散に扉を目指して走り出した。
 彼の下にいて、彼を至上と称え賛同する人間に、彼の命令に逆らうことも、そうして彼の機嫌を損なうこともできるはずが無いのだ。

 男は立ち上がって駆け出した。
 一直線に、僕のいる扉へと走って来た。憎悪と絶望と怒気と恐怖とが、絶妙に混ぜ合わされて正気を保っているような顔を一瞬だけ僕に向けた。




 擦れ違う。
 射殺すような視線を僕に向けて、男は立ち去って行った。
 黒のローブを着ていたので、すぐに闇の中に混ざってしまい見えなくなった。






 彼は床に落ちたローブを拾いあげ、袖を通しているところだった。
 彼は月明りに照らされていた。
 淡い銀髪が光を受けて鈍く反射している。


 寒気のするほど綺麗な横顔に長い睫毛が影を落とす。



 何があったのだろうか。
 あの男が何をしたから彼の機嫌を悪くさせたのだろうか。彼に近付くことを許されて、そのせいで彼の機嫌を損ねた。どれほどの絶望だろう。
 なんで、僕以外の奴に、僕以下の奴に触れさせるんだよ。


 彼は溜め息をついた。
 重く吐き出したその息さえきらめいているようだ。

 彼に近付きたい。
 近寄って抱き締めたい。
 抱き締めて、口付けたい。 このまま、僕も逃げてしまおうか。
 このままここにいたって……。

 
 目が、逸らせない。

 彼は月明りによく映えた。
 凍るような存在感が冷たい月明りに助長され、細く小さい身体をしているというのに、彼の存在は教室中に広がった。


 綺麗で、泣きそうになる。

 君が僕に求めているものは、僕が君に与えたいものじゃない。


 僕からの君に捧げたい気持ちを彼は必要としていない。むしろそれは邪魔なのだ、あってはならない、だから僕は僕の気持ちを殺す。

 本当なら、君の側に行くことができるなら、僕は彼に膝を折っても構わない。
 君に触れることができるなら、僕は彼を崇拝してその感情を君に許してもらえるのであれば。僕は何をしても良い。


 でも、それは彼が僕に求めることでは無いから。
 僕が君に捧げたい気持ちは、君が一番要らない物。要らない、のではない、在ってはならないものなのだから。


 だから僕は君の望むように行動する。
 それが、彼の僕に対する甘えだから。




 彼がもう一度溜め息をついた。

 ふと、顔を上げて。

 僕を見た。



 目が合った。
 僕達の視線は絡み付くように交錯して、ぶつかった。




 僕は立ち去らなければならなかった。見なかったことにして、彼が誰にその身体を触れさせていようと僕は立ち去らなくてはならなかった。今回は彼の意にそぐわない事態ではなかったから。彼が許可したことだから、僕が立ち入る権限なんてどこにもなかったんだ。
 だけど、確かに僕は気付かれたいと思った。気付いてもらいたかった、彼の瞳に僕を映したかった、僕を認識して欲しかった。
 僕がここにいるのに、君は他の奴に身体を許すの?


 僕を見つめて、まるで視線だけで何かを伝えるように。そんな魔法はないのに。


 ……それでも言いたいことはわかっている。




 少し、彼の顔が歪む。

 困ったような泣きたいような顔をしていた。


 今すぐ駆け寄って抱き締めたい。抱き締めてキスをしたい。そんな風に思った。君の許しがあれば、きっと今すぐにでもそうする。


 走りたい気持ちを押さえて、ゆっくりと僕は彼の側に歩み寄る。本当は、近づく事を許可されているわけではないけれど……。
 間違って僕が彼を抱き締めてしまう前に、僕は彼を嫌いだと主張するような悪口を考えて置かなくてはならない。
 そうしなくては、僕は君を抱き締めて、キスをして、優しくしてしまうよ。

 何を言えばいいんだろう。
 僕の口からどんな嘘を吐き出せば良いのだろう。




「……僕の邪魔ばかりをして……一体何の用だ、ポッター」

 僕を察してくれたのか、彼の方から先に口を開いてくれた。


「別に君に用事なんかないよ」

 ただ、許せなかっただけ。
 君の瞳に僕以外の奴が映ることが、許せなかっただけだから。


「そうか、だったらさっさと消えろ」


 彼は先ほど男に言ったような気軽さで僕に話しかけた。
 だけど、なんでそんな顔をするの?
 今にも泣いてしまいそうな顔を僕に向けて、君はどうしたいんだ。


「そうだね。君にもここにも用事なんて無いんだから」


 僕は近付いてしまう。
 引き寄せられてしまう。
 君から、すごい引力が発生している。
 ますます僕は君に近寄って行ってしまう。

 それを見ながら彼は困ったような笑顔を向けた。さっきの男に向けた凍り付きそうな優しい笑顔を作ろうとして、失敗していた。だってもう、泣きそうじゃないか。


「君こそ。こんな時間に何やってんの?」

 わかりきったこと。
 僕はずっと見ていたんだよ。君もそれをきっと理解している。僕のわざとらしい質問は、君の中でどんな効力を持つのだろう。

 彼は下を向いた。
 何かを言いかけて、やめた。




 口を開かなければ、僕は君に想いが溢れてしまいそうだ。口を開いて、君が望む言葉を考えて、そうしなくては、僕はこのまま君を抱き締めてしまうだろう。



「お前には、関係ないだろう」

 絞り出すようなかすれた声。

 またその瞳が僕を映した。きつい眼差しを投げたかったのだろ、きっと。でもそれは上手く出来ていないよ。

 僕を見つめる彼の瞳が潤んでいる。
 そんな目で見られたら、僕はおかしくなってしまうよ。
 君は泣いたら駄目だ。

 君は孤高を保たねばならない。君は泣くはずがないんだ、僕に弱みを見せてはならない。


 ……優しくしてしまいそうになる。








 彼が、手をそっと伸ばしかけた。

 手が僕の方に向かって、でもすぐにきつく握り締められて、また元の位置に戻された。


 僕に気がつかれていないと思っているのだろうか。
 そんなことをして、なかったことにするつもりだろうか。



 僕は見てしまった。君の気持ちが僕に向かっているのを、僕は見てしまったんだ。





 駄目だよ。





 君は何も求めてはいけない。

 そんな生温い感情を持っていると誰にも気付かれてはいけない。



 特に僕には。





「そうだね、関係ないね」

 そう、僕は口にした。
 何の関係も持ってはいない。
 君と僕の接点は何もない。



 彼は、安心したように微笑んだ。
 綺麗で泣きたくなるような笑顔は、僕の内蔵を掻き乱した。





「ああ、その通りだ。さっさと僕の前から消えろ」

 彼の声が柔らかく響く。
 つい、心を許してしまいそうになる。中を見せてしまいそうになる。




 早く、彼の目の届かない所に行かなくてはならない。
 ここにいたら、また間違いが起こってしまいそうだ。

 もう、間違える事は出来ない。はやく、軌道を修正しないと……早く元に戻さないと、僕達の間に空間を作らないと……待っているのは絶望だけ。





 早く行かなくては、僕は彼の涙を見てしまうことになるかもしれない。今、彼が命じたから、つまりそういうことなんだ。早く彼の前から逃げてしまわないと、僕は君を抱きしめてしまうかもしれない。
 そうなったら………。







 でも、この気持ちを押さえていたら、僕はいつか暴走してしまいそうだ。破裂してブレーキが壊れてしまいそうだ。そうなれば僕は君に向かって暴走する。衝突すれば壊れるのは僕か……君か。
 君を壊すわけにはいかないから……壊れた僕を君は抱き締めてくれるだろうか。





 僕に伸ばされた方の手を、そっと握る。
 こんなこと……



 彼の指先が一瞬だけ強張って震えた。
 僕たちの視線は触れ合った僕達の指先に収束した。



 相変わらず、冷たい。
 ひんやりとした体温は、君が本当に生きているのかを不安にさせる。



「うん。君となんか一緒にいたくないからね」

 彼がうっとりするような笑顔を刻むから。











 そっと彼の手に僕は口付けた。

















 彼の頬に、一筋だけ、涙が伝った。

 













070413
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