暗黙 5 スリザリンとの合同授業があり、教室に行くと彼はすでに席に着いていて、済ました顔で教科書を読んでいた。 周囲が何かを言うと口の端だけつり上げるいつものシニカルな笑顔をみせた。 その笑顔を見て彼の周りを取り囲んでいた一人は両手まで使ってますます大袈裟な表現をして彼の気を引こうとしていた。しばらくその様子を見ていた彼だったが、そのまままたいつもの冷たい表情に戻り、周りはすぐに話しかける事を止め、他の生徒と談笑を始める。 いつも通り。 彼は周囲と話をしても周囲には溶け込まない。 誰と話をしていても彼はその中心にいて、それでも周囲とは隔絶していた。 彼が少し口を開けば周りは彼の言葉に笑い、憤慨し、同調する。 彼が口を閉ざせば、周りも彼には話しかけない。彼の気が向いている時だけ、周りにいることを、話しかけることを許されている、そんな関係が彼と周囲との友情なのだろう。 僕達が彼のいる窓側とは逆の廊下側の席に着くと、彼はようやく僕の存在に気がついたようで、冷たい一瞥だけを僕に投げ、また視線を教科書に戻した。僕を確認して僕の方を見たわけではなく、僕を含めた光景を確認した程度のもので、そこに何の感慨も含まれていなかった。 いつもと同じ。 昨日、あったことは夢だったのだろうかと思われるほどに、何も変化の無い日常に強制的に彼は戻っていた。 それを僕に強要していた。今の視線はそれを意味していたのだろう。 何も変わらない。 変化は求めていない。 教授が来て、授業が始まる。 彼はいつも通り真面目ふりを装った真摯な視線を黒板と教科書に向けていた。 つい魅入ってしまいそうな綺麗な横顔。僕は退屈なふりをして窓の外を眺めるふりをして彼の横顔を盗み見る。 彼の顔は崩れない。 昨夜のように、彼は顔を歪めて泣くことはない。彼は涙など流さない。そんな感情は持っていないんだ。 彼は、僕を見ない。 彼は誰も見ない。 でも、彼を見ない人間などいるのだろうか。 誰しもが彼を見て、彼の魅力に気付く。 その存在の強さに惹かれ、それに反発あるいは引き寄せられる。 昨日いた二人は彼の信望者だと言っていた。 彼は誰とも親密な関係を築かない。 昼間周りに置いている同じ寮の人間は、彼が一人で孤立しているのを目立たせないためのカモフラージュにすぎない。一人で居ると彼は目立つから。周囲に大勢いれば溶け込めるのだと勘違いしている。周りに何人いても彼は一人だけ違う空気を身に纏っているのに。 決して一人で居ることが嫌なわけではないのだろう。円滑にこの学園生活を生きていく為の処世術の一環なのかもしれないが……それでも彼とその周囲の関係を友情と呼ぶには異質だった。 だから僕は安心していた。 だが、あんな存在が彼には複数いた。彼に気持ちを捧げることができる存在、それを彼に受け取って貰うことができる存在。 彼の前に跪いた存在が、いた。そのことを僕は知らなかった。 気付かなかったし、知りたくなかった。 僕が……、僕だけが彼の特別でありたい。 実際、僕も彼らと変わりがないのだろう。何も変わらない。彼にとっての存在価値は僕の方に比重が置かれるのだろうが、僕は彼らと何が違うのか。 英雄だと祭り上げられ、世界の闇を一度撃退したとしても、僕はただの人間だ。ただ他人よりも魔力が強いだけ。 使える人間を彼の信望者として近くに置いているのだろう。彼は相手からの感情を許す。 彼は何も返さない代わりに、近付くことだけを許し、気持ちを捧げることだけを許す。 それ以外は彼は近くに寄ることすら許さない。だから、彼の周りにいるのは彼に気に入られた人間だけだ。 僕は彼にとってどれほどの価値があるのだろう。 授業が終わり、彼が数人を従えるように引き連れ、ローブが靡くくらい正された背筋で大股で歩きながら僕の前を通り過ぎていく。 僕の存在を気にも止めずに……僕の存在を大衆に埋没させ、それは空気と同じ扱いになる。 僕達の関係は、頻繁に喧嘩をするとは言え、仲が良くない程度の他人だ。 目の前を彼が過ぎていく。 僕に目もくれず。 僕をいないものと扱う。 それが正しい在り方だ。それを僕たちは求めている。 「首のところ、どうしたの?」 授業が終わってすぐなので、まだ誰も教室から出て行っていない。 僕達の空気は常に一触即発なので、周囲は僕達の距離を常に気にしている。 僕はみんなに聞こえる様にわざと大きな声で言った。 周囲が僕達に視線を集中させたのを感じて、僕は笑顔を作る。回りの注目を集めた。これで答えないわけにはいかなくなった。 彼は一瞬自分の首筋を押さえかけたがすぐに、やめた。首元に持って行こうとした手を途中で口許に手を近付け少し考える様なポーズをした後、自然な動作で下ろした。 昨日、彼の首にあった赤い鬱血した痕。 知らない男が彼につけて、その上から僕を上書きした。 その場所を気にしていた事が分かった。今はその首は相変わらず透き通るように白いけれど。 魔法で消したのだろうか。 「何のことだ」 彼の顔は、不思議そうに、不機嫌そうに作られていた。 ただ、確かに彼は首を気にしていた。 昨日の事は事実であり、僕は彼のために忘れてはならない。 僕は、彼が嫌がる事を思い付く必要があるから。 特に周りにそれを伝える必要は何もない。周りには悟られてはならない。他言するなとは言われたから。 ただ、僕が知っている、覚えている事実を彼に認識させる必要がある。 彼が気に触る事を僕はしなければならない。僕を殺したいくらい嫌いになってくれれば僕は成功することになる。そうして初めて僕は彼からの信頼を得ることができる。 僕が嫌がることばかり考え、彼の存在を消してしまいたくなるまで僕が彼を嫌いになるように、彼も努力しているのだから。 僕達の中の暗黙の条約のため。 「何でもないよ、気のせいだったから」 僕もいつもと同じ、彼に対する冷えた声で会話を打ち切った。 「頭を使わないから、ついにボケたか。可哀相に」 「君に心配される義理はないよ」 彼は白けた視線で白々しい笑顔を作った。 傷ついた時のあの綺麗な微笑とは違っていたけれど、彼の笑顔はひどく整っていた。作り物だから。 僕も、だから同じ笑顔を作る。君を嫌悪していると、君以外はきっとそう認識してくれるだろう視線と、表情。 そのまま僕は、彼の肩にわざとぶつかって、通り過ぎた。強い衝撃を与えたわけではないけれど、少しよろめくだろう程度の。 ぶつかった時、鈍く呻く声が聞こえた。 僕は知っている。 彼はうまく振る舞っているが、彼は今立っているのも辛いはずなんだ。膝をついて床に小さくなる。 彼の取り巻きが、彼を気遣って近寄る。こうしないと彼の機嫌がますます悪くなるから。 ただし、わざと痛そうな演技をしている場合に限って。 今の彼は本当に苦しいから、彼らに近寄られたら痛そうなふりをしなければならないのだ。今彼が苦しいのはふりなんかじゃないのにね。 可哀想に。 心配をかけさせる事にも気を使うんだ。 僕は哀れみと言う侮蔑を投げようと、彼をもう一度振り返った。 ぶつかった肩を押さえて……痛いのは肩じゃないのに……蹲る彼を抱きかかえる様に、取り巻きが二、三人心配そうに彼の顔を覗き込んだ後、被害者面した彼らは僕を睨み付けた。それでも彼以外の視線は僕にはなんの影響も及ぼさない。 僕は彼に触れることのできる幸福な奴等に一瞥する。 彼がゆっくりと顔を上げる。 痛そうに顔をしかめながら、それでも僕が見ていることを確認すると、周りに気付かれない様に、僕に対してだけ、僕のためだけに笑顔を作った。ほんの一瞬だけ。 彼の視線だけが、僕を捕らえて揺さぶる。彼の視線を受けて、僕の背筋に何か熱いものが走る。 それでいい。 声はなかったが、彼の口が、そう刻んだ。 僕達は、この関係が自然な位置なのだ。 ライバルであり嫌悪する仲。 殺してしまいたいくらい憎み合うこと。 彼にとっての僕のポジションを誰にも譲る気は無いし、逆に僕の中の彼の立ち位置に彼以外を据える気は無い。 彼がどう思っているのかはわからない。 それを考えてはいけない。 彼を理解してはいけない。 昨日、僕は彼を理解しかけた。 彼も理解されたがっている部分があった。それを感じてしまった事は僕の罪だし、彼も今それを悔いているはずだ。 僕達は、憎みあっている。弱点を見つければ、そこから攻撃しなくてはならない。お互いをより憎みあう様に、そう仕向けなくてはならない。 いつもと変わらない。 変えては、ならない。 070411 → |