暗黙 4

























 今日、ここで、あった事はすべて忘れる。


 僕が、そう彼に告げた。そう、約束した。彼が、そう僕に命じたから………










 彼は、声を上げて泣き出した。
 声を上げて彼は泣いていて。





 僕も泣いてしまいたい。
 僕だって、泣きたかったんだ。



 あんなことがあったんだ。彼はひどく傷ついているはずなんだ。僕だって、悔しかった。



 僕はなんて声をかければいい? 
 どういう言葉をかけてどんなことをすれば、彼の気は済むのだろうか。

 どうすれば、君は気に入ってくれる?



 わからない。


 優しくしてあげることはできない。優しくしないことは僕の意趣返しでもあるし、彼もそれを望んでいない、それはよくわかっている。

 僕が一番してはいけないこと。彼に優しくすること。僕が彼に憎しみと嫌悪以外の感情を見せること。



 だけど、今日ぐらいは許されるのだろうか。僕の気持を君に届ける事が、もしかしたら今だけは許されるのだろうか……今だけなら、許してくれる?



 僕は、彼の細い身体を抱き締める。そっと。大切な物を扱うように。
 一瞬だけ、彼の身体が震えたが、それだけ。彼は泣きやまなかったから。大丈夫。僕がこうやって彼に触れていてもいい、その許しを貰った。


 彼の身体は細くて折れてしまいそうだと思った。

 折れそうで。だから僕はそのまま、僕の気持ちのまま、彼を抱き締める腕に力を込めた。


 僕の腕の中にいる。


 僕は、どれだけ、こうやって彼を抱き締めることを望んでいたのだろう。
 ずっとこうしたかった。
 ずっと、こうしたかったんだと思う。

 考えないようにしていた。考えてはいけないことだったから。


 ずっと、抱きしめたいと思っていた。彼のぬくもりを僕の腕の中に閉じ込めたかった。


 明日には忘れなければならない。



 声を上げて泣いて、僕にしがみついて来る彼を、僕は抱き締めている。


 僕はこのまま力を込めていって、そのまま彼を僕の中に閉じ込めてしまいたかった。誰の目にも触れさせない場所に彼を閉じ込めたかった。僕が、彼を独占できたらいいのに。









 彼の嗚咽と、シャワーの水音だけが聞こえていた。

 彼は泣いた。

 泣くと言う事は僕に弱味を見せるようなものだ。
 僕に縋って泣いたと言う事は、僕を少しだけでも頼ってくれたということ。
 僕でいいのだろうか。


























 どのくらい、こうしていたのだろう。


 腕の中の彼の震えは止まっていた。



 泣きやんでしまったようだ。
 彼が泣いていたから、僕は彼に触れることが許されていたのに。
 彼が、いつもの状態ではなかったから触れる事が出来た。元に戻ったら僕も戻らなくてはいけない。


 今更?

 もう、遅いんじゃないか? ……君だって。

 君が、僕を見つけた時から、君だって………。




 




「そろそろ、放せ」

「……」

 

 彼は僕との距離を作ろうとしたから、僕は余計に力を入れた。彼の腕に力が入って、僕の胸を押した。

 離したくない。

 君を放したくないんだ。




 僕は自分の鼻先を彼の首筋に埋めた。滑らかな肌触り。薫るよう。

 気持ちがよくて。
 ずっと、このままでいれたらいいのに。
 ずっと、こうして触れていたい。





「ポッター!」


 強い声。



 僕は、仕方なく彼の身体との間に隙間を作った。それでも、僕はまだ離せなかった。少しでもいい、1ミリでも良いから近くに居たいんだ。

 彼には、僕は逆らえない。僕にとって彼の命令は絶対に服従すべきものである。僕達はそうやって出来ている。僕達の力関係は対等の様で、全然違う。彼が僕を求めるよりも、僕が彼を求める想いの方がきっと強いから。

 僕は、下でもいいのに。君に触れることができるなら、どこでもいい。
 君のそばに在ることができるなら、なんでもいい。君に思いを伝える事が出来るのならば、僕の気持ちを君に捧げる事が出来るならば、それがきっと至福だ。

 さっきいた二人と同じ立場でも、彼を手に入れることができるならそれでいいのに。


 彼はそれを許さない。


 きっと僕が彼から得た位置は誰よりも彼に近くて一番触れることのできない場所なのだ。
 それが、彼にとって唯一の甘えなのだろう。唯一甘えることの出来る対象が、この世界でただ一人僕だけだから。


 彼が僕に望んでいるのはそんなことではないのだから。

 僕は、素直に彼を放した。少しだけ力を緩めると、彼は猫のような身のこなしで僕の腕をすり抜けた。何の言葉も無かった。

 感謝されたいわけじゃない。そんなものは何の役にも立たない。ただ、少し君と共有できる時間があれば、そっちの方が嬉しい。彼からの気持の篭らない無理矢理を繕った言葉よりも、僕を見てくれた一瞬の方が、僕に何倍もの興奮をもたらす。

 彼の足取りはまだふらついていたが僕の手は借りない、そうはっきりとした拒絶が彼の全身から感じられたので、僕は黙って彼を見ていた。



 彼は僕を見ようとはしなかった。







 出る時に彼は呟いた。
 シャワーの音で、あまり聞き取れなかったけれど。












「これは夢なんだろうな」










 夢かもしれない。



 夢の中で彼は僕にしがみついて、綺麗な顔で微笑んでいたから。
 夢の中では僕達は抱き合うことだってできたのだから。
 夢の中では、僕は彼に唇で触れても、彼は笑顔で受け入れてくれていたのだから。






 彼の吐き出したものを軽く洗い流して僕がシャワールームを出ると、彼はすでに着替えを終えていて、破れた服も魔法で直したのか、いつも通りきっちりとしたいで立ちに戻っていた。

 いつもの冷たく高慢な表情を張り付かせて。



 ずぶ濡れたまま僕が出ていくと彼は杖を振って僕を乾かした。突風が一瞬僕を襲い、次の瞬間には、べたりと張り付く服の感触がなくなっていたから。




 僕が何かを言おうと思ったけれど、僕は何の言葉を見つけることもできずにただ真摯に彼を見つめて、彼はそんな僕の視線を把握して軽く笑った。
 いつもの彼に戻っていた。

 あんなに泣いたのに。
 あんなに、みっともないぐらい、僕の腕の中で、大きな声をあげて泣いていたのに。




 少し、目が腫れていた事だけが今あったことが事実だと証拠付けていた。







「忘れろ」



 彼が言い放った。
 短い言葉。
 強い命令。

 僕は頷く以外の手段を持たない。彼の言葉に逆らうことなどできない。
 彼が忘れろと言うのだから、僕は忘れなければならない………忘れられるかは別としても。


 彼は孤高を保たねばならないから。
 馴れ合うことは許されないから。彼には取り巻きがいたとしても友人はいない、作ってはならない。
 彼に対等は存在しえない。唯一対等として扱われるのは僕だけ。ライバルとする相手ならば、僕は彼と同じ高さに立つことができる。

 彼は……マルフォイは誰よりも上である事を示す称号でも在る。彼はそれを誰よりも理解して、それを自らに強いている。



 唯一、僕にできるのが、彼と同じ高さに立つ事。
 彼と対等である僕を保つ事だけだ。


 彼は一人で高みにいなければならないから、せめて僕が同じ場所にいることができればいいのだ。
 彼はそれを望んでいる。
 ライバルという位置。

 彼は僕以外、嫌うこともできない。嫌う程度の価値を相手に対して見出だすことができない。
 僕なら、その価値がある。


 だから、僕は彼に気に入ってもらえるように、彼に嫌われる事を努力する。



「ポッター……」

 声が……かすれる。





「…………頼む、忘れてくれ」

 絞り出すような声。



 彼が僕に手を伸ばしかけて、やめた。

 その手がきつく握り締められた。



 ああ、君だって………。







 また、泣いてしまいそうな顔。



 ………僕は、たまらなくなって。



 もう一度だけ、彼に近寄って、彼の伸ばしかけた手を恐る恐る取って、彼の反応を見た。

 少しだけ、彼の手に温度があった。僕よりも幾分冷たいけれど、それでも体温を感じた。
 手に触れても、怒らない?






 彼が望むこと以外は僕にはできない。






「ねえ……」


 抱き締めて、いい?

 抱き締めても、大丈夫でしょうか?



 彼の瞳を覗き込んだ。
 僕が握った彼の手が、わずかに僕の手を握り返して来た。


 これが、彼のできる限界だった。








 僕はそのまま彼を引き寄せて、包み込むように彼を僕の中に閉じ込めた。大切なもの。何よりも失いがたいもの。
















「優しくして欲しい?」

 優しくしても良いですか?
















「………今だけは」











070408