15
僕はどのくらい泣いていたのだろう。
いつの間にか僕の中から時間が無くなっていた。
ふと緊張していた空気が、元に戻った。
彼がいつものように、闇の印を魔法で隠したのだろう。これほど強大で禍々しい魔力を少しも漏らさずに隠すために彼は常にどれほどの魔力を消費しているのだろう。
「ハリー、すまない」
空気が軽くなったと同時に耳鳴りも止んでいた。彼の声がいつもと同じようにノイズの混じらない音で聞こえたから。
「すまない」
僕は動けなかった。
床に座り込んだまま……僕はこの床と一体化してしまったような気がした、動けないんだ。
彼が自分で動いて身支度をしているのが分かる。シャツに袖を通している彼の姿が視界の端でちらついていた。
それは僕の仕事なんだから、とらないでよ。
僕は、口さえも動かせなかった。
「……ハリー」
彼の声が近くで聞こえた。
気が付くと、彼が僕の目の高さを合わせるために床に膝をついていた。君はそんな所に座ったりしたら、服が汚れちゃうよ。
床に叩き付けた手は、皮膚が裂けて血が滲んでいた。僕はそんなことには気付かない。どうでもいい、僕なんて。
ああ、でも結局、彼の身体に刻まれた印を許す事ができないのは僕のエゴだ。君が僕のものにならない事で絶望するのも僕の独り善がりでしかない。
僕の皮膚が破けて血で汚れたその手を彼は優しく両手で包み、その傷にそっと口付けをくれた。
暖かな温度が広がる。
やめてよ、癒さないでよ。
今見た事を忘れてしまいそうだ。記憶から抹消してしまいそうだ。忘れてしまいたい。忘却の呪文をかけてしまおうか。そうすればこんな辛い思いをしないで済む。でもきっと君の事なら思い出す。
「ハリー……」
僕は、彼を引き寄せた。
――想いは全て貴方に流れて行きます。
抱き締めた。
僕の中に閉じ込めた。
君は泣かないで。
笑顔で僕の隣りにいて。
僕が君を守ってあげるから。
「ハリー、愛しているよ」
僕は、声を上げて子供のように泣いてしまった。
離さない。
放してなんかやらない。
君はずっと僕の側にいればいい。
僕が守るんだから。
君はそのままの君でいるだけで僕が全ての望みを叶えてあげるんだ。
僕によってだけ君が笑えばいい。
僕によってだけ君は満足すればいい。
僕が君の願いを何だって叶えてあげるから。
「もう、終わりにしよう」
僕が泣き始めてからどのくらい経った頃か、彼が静かに言った。
彼の声は心臓に突き刺さるように突き抜けた。
意味が理解できないのに、心臓は潰れてしまいそうで。
「ドラコ、何言ってるの?」
わけがわかんないよ。
意味がわからない。
言葉は言葉として届いている。ただその内容がわからない。
「もう、やめよう。君といると辛いんだ」
「………ドラコ?」
「いつか……その時を絶望しながら一緒にいることが辛いんだ」
彼は僕を抱き締めてくれた。
柔らかい抱擁。本当に愛されていると、信じ込んでしまうくらいだ。本当に僕の事を愛しているんだ、きっと。そう信じてしまいそうになる。
愛しているよ、ドラコ。君を愛しているんだ。僕は君が……
「だから……ハリー」
彼の声が遠くから聞こえる。ガンガンと耳鳴りがして来る。世界が終わる音にきっと似ていると思った。
「無理だよ。僕は君から離れている事なんかできない!」
僕を離さないで。
「ハリー、僕を忘れるんだ」
君から離れたら……僕は、何にも無くなってしまうんだ。
「ドラコ、無理だよ。離れるなんて考えられない」
考えただけで息が詰まる。喉元を押さえ付けられて脳が絞められて行くような気分だ。そのまま死んでしまうかもしれない。
僕を殺す事ができるのはきっと君だけだ。
君は言葉一つだけで僕を殺す事ができる。
離れたら窒息してしまうよ。
「僕だって」
「だったら……」
「ハリー……」
彼が困ったような声を上げた。
困らせてしまっている。
僕は彼の我が儘をきくことになっている。僕の我が儘は君のそばにいること。ただそれだけなのに。
「僕を困らせないでくれ」
わかっている事なんだ。始めから分かっていた。僕だって色々考えたんだ。
僕は僕の復讐を諦める事はできないし、彼も裏切る事を考える事すらできない。彼の中のマルフォイの血を最後の一滴まで捨てない限り彼は死んだとしても家を裏切らない。
そんなことは僕達の関係が成立するよりも前から分かっていたじゃないか。
僕達はそれが前提に成り立っている仲だ、知っている。
「ハリー、聞いてくれ」
「嫌だ」
「……ハリー」
「離さないよ!」
「ハリー!」
「絶対に離れない。君を誰にも渡さない! 君は僕が守るんだ、全てから! そうじゃなきゃ、僕は……」
「ハリー、僕の話を聞くんだ」
彼が、柔らかい声で、それでも強い響きを持って僕に命じた。
「………」
だから、僕は黙るしかなくなる。
僕は、心の中の闇に飲み込まれてしまうよ。その、言葉は、出口を失う。
それでも、彼がどんな決意をしても、僕の気持ちは君から動かない。動かそうとも思えないし、何をしたって動くこともないだろう。
人前で喋るなと言われればそうする。
もう二度と触れてはいけないと言われたらそうする。
君の命令は何だって受け入れるよ。
だけど……。
気持ちを離す事なんかできない。
僕の心は君にあるのに。
君だって僕がいなくなって、そうしたら誰もいなくなるよ。
君はまた誰一人自分の中にいない孤独に埋もれて、それでもそれを不幸だと感じる事すらできない荒涼を受け入れる覚悟があるの?
君は甘える事がこんなに好きなのに。
僕は君にとって唯一の他人なんだよ?
「この前薬を作ったんだ。遊びで作ったものだが……」
そう言って彼は僕の腕を解いてローブの懐から小さな小瓶を取り出した。
コルクで蓋がされている、スプーンで一掬いくらい、ほんのわずかな量の空色の液体が入っていた。
それが、二本。
「この前遊びで作ったんだ。恋の妙薬と全く逆の成分を同じ手法で作って見た」
彼はそう言って、少しだけ得意げに笑った。
「……それで?」
「何ができたと思う?」
「わかんないよ。僕は魔法薬学は得意じゃないんだ」
勉強は好きではない。覚える事は嫌いだ。彼はその授業がとても好きだった。教授が、だと思っていたが、実際はそうでもなかった。彼は独自に薬を作り出して、よく遊んでいた。
「この前、仲の良さそうな奴等で実験したが、成功した」
ドラコが何をしたいのかわからない。
ドラコは時々面白い薬を作ったと言っては持って来て楽しそうに話す。苦しまずに死ねる薬だったり、飲ませた相手を一日言うことを聞かせるものだったり、確実にいい夢が見られる麻薬まがいのものだったり、あまり建設的なものをもらったことはないけれど。
「想いを、消すんだ」
「………どういう」
「髪でも爪でも、体液でも、この液体にいれたその相手に対しての高ぶった感情を鎮静させる効果がある」
「………」
「記憶は消えない。ただ、感情が静かになるだけだ」
ドラコは、うっすらと口許の辺りにだけ笑みを湛えた
綺麗な笑顔。
僕は君の笑顔が大好きなんだ。
だけど、この笑顔は……とても寂しい。
「………ドラコは、そうしたいの?」
否定して欲しかった。
否定して、嘘だって。
僕を嫌いになりたくないって。
僕への想いを消したくないって。
僕は大抵のことには耐えられる。でも。
君に嫌われたら僕は生きて行けない。
君が愛しい僕でないと僕は僕を愛せない。
離れるつもりなんかないし、放すつもりもない。
君は僕とだけ一緒にいればいいんだ。
君への想いを消す必要なんかない。
僕が君を守ってあげるから。
それでいいじゃないか。
もうこんな話はやめてよ。君の綺麗な笑顔が見たいんだ。
彼は否定も肯定もしなかった。ただ僕の瞳をじっと見つめた。
「忘れないから、絶対」
「僕の薬をそんなに簡単なものにするな。効かないわけはないだろう」
「何でもいいから、僕は君のそばにいたい、それだけなんだ」
「これを飲めばそんなことは想わなくなる」
彼は小瓶を一つ僕に手渡した。
「嫌だよ」
「………」
「離れたくないよ」
「………ハリー、お願いだ」
「嫌だ!」
「僕の言うことを聞いてくれ!」
叩き付けるような声。二人きりの時僕は初めてこの声を聞いた。
彼は滅多に感情を荒げないから。突然泣き出すこともあったし、唐突に笑い出すこともあった。それでも、こんな風に語気を荒げたりはしなかった。
僕は、何も言えなくなる。僕は彼の願いを何でも叶えると誓ったから。
彼が本気でそれを望んでいるなら……。
「ねえ、ドラコ。僕のことを愛している?」
君が僕を忘れても必要がなくなっても、僕がもし彼を求めなくなっても……。
「ハリー、愛しているよ、誰よりも」
彼が僕にしか見せない涙や、僕にしか聞かせない声とか、僕にしか触れさせない場所とか。これは、僕にしか言わない言葉。
きっとこれがあれば僕はすぐに思い出す。
すぐに君を抱き締めることができる、離れることなんかできない、それがすぐに証明される。
思い知ればいいんだ。僕は君がいないと呼吸すらできなくなるように、君だって僕が必要ってことを……。
でも、彼が苦しいのであれば、僕はそれを取り去らなくては。
「苦しいの?」
僕がいるから?
「ああ、苦しいんだ。いつか、僕達はどちらかが死ぬだろう。それを想うと……」
それは確定されている。僕達の道はもう、ほらそこ、目の前、別れている。進む方向は僕達が出会う前から決まっている。
僕が英雄としてではなく、ただの学生で、彼もマルフォイでなければ……そう考えた事はある。そう、出会っていたらと。
きっとそれでは僕達は出会わなかっただろう。惹かれることもなかったかもしれない。僕と彼とはこの肩書きを持って以外では、僕達にはなりえなかった。
「ドラコは死なせない」
「お前は生きろ。生きて勝利しろ」
ドラコは、世界については興味が無い。闇に沈むならそれでも構わないし、闇と共に自らが滅びることも厭わない。そう思っていることぐらい、僕には良くわかっていた。
彼は本当は僕に対して以外、ほとんどなんの感情もない。
「お前がいなくなることが怖いんだ」
「僕だって」
君がいなくなる事は、僕が死ぬ事と同義だよ。
「それに僕がいなくなった後のお前を想うことも怖い」
「ドラコは誰にも殺させない」
「それ以上に……」
彼は、僕の頬を両手で挟んだ。
冷たい指先。
「お前が勝利して、僕が死んで、その後お前がどうなるのかを考える事が、何よりも怖い……」
ああ、そうだね。
もし、その時は僕はどうなるのだろう。
復讐するという、僕の内部がなくなって、それから僕が彼のいない世界に放り出されてしまったら、僕はどうなってしまうのか考える事すらできない。
君がいない世界にはきっと空気すらない。
僕の想いが君の重荷になるのであれば、僕はそれを取り除いてあげなくてはならない。
ドラコは、僕の想いが苦痛なんだ。
君がいない僕は要らない。
そんな僕を彼は見捨てる事が出来ないから。
僕の想いが、彼にとっては本当に……だって、君がいないなら僕は死んでしまうよ。
「だから……」
「ドラコ、愛しているよ」
「忘れてくれ、僕のために」
彼は僕の手に小瓶をおしつけた。
「愛している、ドラコ」
「さあ、ハリー。僕達の最後のキスだ」
070429
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