16
僕達が唇を離した時はどのくらい経っていたのだろう。
僕と彼とはお互い小瓶の中身を口に含み、唾液を混ぜあうようにして深い口付けを交わした。
僕は、彼の味や感触を忘れないように、少しでも覚えておけるように、深く味わった。
彼も僕が口腔内をかき混ぜるのに合わせるように、僕にしがみついて来た。
君の事を忘れるなんかできるはずが無いと思った。
この気持ちを押さえる事なんて誰にも、どうやってもできないと思っていたはずなのに。
君の気持ちが僕から離れてしまったら、僕はどんなことよりも絶望してしまうと……。
貴方の居ない世界は僕にはただの闇なんです。
この世で貴方だけが僕の光なんです。
無くしてしまえば、僕は呑まれてしまう。心の闇に引きずられてしまう。そうなったら僕は親友達にもうまく笑えるかどうか自信がないんだ。
君を忘れるなんて、ありえない。そう、思った。
それなのに。
心が急激に冷えて行くのがわかった。凍り付いて行くのが分かった。
離さないと、絶対に何があっても離さないと思っていたはずなのに。
忘れたくない。
君が愛しい気持ちを取り上げられたくない。頑張って気持ちにしがみついていたのに。
それなのに。
唇が離れると、その間を細い糸がひいていた。
僕は、何の感慨も無くそれが切れて無くなるのを見ていた。
僕は冷めた目で彼を見た。
彼も同じくらいの温度で僕を見下した。
いつも、キスをした後、彼はどうだった? 唇を唾液で濡らしたまま、上気する頬と潤んだ瞳で僕の瞳の色を観察していなかったか。いつもは、ぼんやりと僕を見て……僕はその顔を諒承と認識して……。
彼は唇に付いた僕のだか彼のだかわからない唾液を手の甲で無造作に拭うと立ち上がった。
「気分はどうだ、ハリー・ポッター」
「さすがだね、マルフォイ」
彼をもうファーストネームで呼ぶ気にはなれなかった。彼が僕を呼ぶ時の甘い声も期待していなかった。
彼を見ただけで沸き上がっていた押さえ切れないほどの欲望も起こらなかった。
ただ、冷たい。
「この薬の効果は押さえるだけだ。僕達はこれから殺し合う事もあるかもしれない」
敵になるんだ。もしその時に対面すれば殺し合う事もあるだろう。
それを不思議だとは思えない。僕と彼とはそういう間柄なんだ。その関係は、崩せるものではない。当たり前じゃないか。
「僕を、憎んでいるか?」
憎い……ほどでもない。
ただそこに今まで愛しいと感じていたはずの対象が在るだけ。
「これから、僕達はお互い、憎み合わなければならない」
「……うん」
床に座る僕を見下ろしながら彼は腕を組んだ。
彼がもし対等な立場に在れば鼻に付く高慢な態度。彼にはそうする事が当たり前なのだろうが。
「お前はどんな事をされると気に入らないのか? 僕が何をすれば僕を嫌うようになる?」
「………」
僕は考える。
僕は何が嫌いなのだろう。さっきまで僕は彼に嫌われる事を恐れていたようだけど……それだけが僕の心の中を占めていた事を覚えている。覚えているだけで、今は……
何だろう。
「鬱陶しいのかな……あと、見られる事も嫌いだ」
そんなことで彼を憎む事ができるのかと言えばそれも疑問だが、決して僕が歓迎しない行為だ。
誰よりも、何よりも憎悪の対象が僕には在るから、僕は誰に対してもそれほどの憎しみを覚えない。彼が例えそちら側にいたとしても。ただ、僕の邪魔をするなら
確かに他人の視線は煩わしい。同情は悲劇に浸り陶酔したい人間のために用意された、周囲からの優しさだ。僕は自らの身に起こる悲劇を楽しむ余裕なんかはないんだ。
「なるほど」
少し考えるように、彼は僕の顔にしばらく視線を注いでいたが、そのうちにつまらなそうに僕から視線を外した。
「お前もせいぜい僕を嫌ってくれ。僕がお前を殺したいと思えるくらいに嫌ってくれ」
「そうだね」
僕は頷いた。
そう、何故僕達はもっと早くこうする事を考えなかったのだろうか。
とりわけ彼が嫌いなほどでもないが、僕は彼が死んでも今ならきっと泣かない。
殺すにはためらいが生じるかもしれないが、それでも僕は負けない。僕の邪魔を誰にもさせない。
「僕を嫌ってくれよ。もう、二度と間違いが起こらないように、僕がお前を憎むくらいまで……」
間違い……その言葉に、僕は何も引っ掛かる所はなかった。
さっきまでの僕ならきっとその言葉に激昂していただろう。そのくらいは簡単に想像ができた。だが今は。
胸の中にポカリと開いた穴が、ただ開いている。埋めようとも思えない。その部分だけが凍って固まって感じない。
さすがだ。
魔法薬学の授業だけは、彼は僕の親友と並ぶ。彼女は授業に関して学ぶ事が好きだが、目の前のスリザリン生は授業の内容を踏まえてただ薬を作って遊ぶのが好きなだけだ。
それにどんな違いが在るのかは僕にはよくわからないが。
彼の作った薬は完璧だ。
僕は今君が死んでも苦しくない、何もない。きっと、本当に何もない。
彼も同じようにつまらなそうな冷ややかな視線を僕に向けている。
きっともう大丈夫。
ちゃんと、僕の道を歩くことが出来る。
彼も、きっと今は気分が良いはずだ。彼が死んでしまったら僕もきっと絶望して生きてはいられないだろう、そう思っていた僕はもういない。
僕という重荷がなくなってきっと、君はとても軽いだろう。僕のせいで君は死ぬことすら出来なかったから。
「………間違い、ね」
「ああ、そう間違いだ」
彼は気分が良さそうに目を細めた。
君は、どうなんだろう。
君の心の中にもう僕はいないのだろうか。
いなくても、それで構わないのだが………何だろう。
大きな穴。
君にはあるのだろうか。
「せいぜい僕を失望させないようにな」
僕達が僕達として交わした言葉はそれが最後だったように思う。
070504
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