近距離走 3

 がらがらと僕の中の何かの壁が崩れ落ちていく音が聞こえた。









 マルフォイを見つけたのは、明日提出の課題がちっとも終わらなくて図書館でロンと一緒にハーマイオニーに手伝ってもらったその帰りだ。
 僕は少し用があったので一足先に戻って、来た時に中庭で。
 通り掛かったら、見つけた。
 始めは誰だかわかってなかった。
 見つけなきゃ良かったと思った。
 始めは、廊下からは良く見ないと見えない場所だったから、無視して通り過ぎようと思ったんだ。
 けど、
(足だよなあ)
 誰かの足が見えた。
 まあだから誰かいるんだろうけど。
(誰だろう)
 ただの興味本位。
 そしてそんなところで何をしているんだろうと。
 ただちょっと覗いて見ようと思っただけなんです。
 最近は昼は優しい陽気だけれど、朝夕はまだまだ冷え込んで、陽も影ってきていて、さっきまでの賑わいもすっかり潜まり、樹が風に煽られて葉がぶつかりあう音しか聞こえなくなったのに。
 樹の根元に丸まる影。
 ローブにくるまって、膝を抱えて。
(寝てる?)
 小さな影だったから、下級生か女の子かと思ったし、寝てるならこんな寒くなったんだから起こしてあげないと可哀相だし具合が悪いならなおのこと。
 近付いた時に、綺麗なプラチナブロンドがさらさらと揺れるのを見た。
 目は閉じられていて、本が横に落ちている。
 寝ている。
 やな奴を見つけちゃったと思った。
 こいつは僕の嫌いな相手で、昨日も散々な言われようで物凄く頭に来て、言い返すのも馬鹿らしいと思って無視したけど、昨日は夜中思い出して枕に八つ当たりして見た。
 このまま無視して、見なかった事にして戻ろうと思ったけど、その時に何か聞こえた。
 寝言だ。
 寝言と言っても言葉に直せるようなものではなかったけれど。
 マルフォイにこんなところがあるなんてすごく意外な気がした。

 マルフォイだって人間なんだから、たしかに寝言の一つくらいおかしくないだろうが、でもすごく意外な気がした。
 僕は嫌いだと言う理由だけで、マルフォイに同じ人間であることが理解できていなかったようで、本当に不思議な気がした。
 たしかに、寝言だけじゃなくこんな誰かの目があるところで彼がこんな無防備な姿を晒すのはとても意外なことだけど。
 すごく無防備だから、こんなに不思議なんだ。
 さらさらのプラチナブロンドが、優しく顔を撫でて、陶器みたいな真っ白な肌に赤い唇がすごく映える。
 いつもはこの口が酷薄な笑みを浮かべているから、ただの嫌味な顔だけれど、こうやって彼の無防備な寝顔を見ると、彼がとても綺麗な顔をしていることを思い知る。
 いつもあの嫌味な笑顔でなくとも、眉根をよせ、機嫌の悪さを振りまいていたのに、今はただ、人形のようで。
 口が裂けてもそんな単語を彼に使いたくはないが、
(……可愛い)
 僕は目が離せなくなっていた。
 普段だったらこの距離でこんなに長い時間いることなんてありえないから。常に一触即発で、顔を見たらいがみ合っていたから。
 彼の顔なんか気にしたことはなかったけれど。
 綺麗な顔だと思った。
 本当に穏やかな寝顔で。
 なんで僕にはいつもあんな態度なのだろう。
「くしっ」
 マルフォイが、小さくくしゃみをした。
 起きたのかと思って心臓が止まるかと思った。
 別に疚しい事なんて何一つないんだから、起きたって別に構わないんだけれど、この状態のままじゃ気まずい。
 でも、さすがにそろそろこの肌寒さじゃ風邪をひいてしまう。
 まあ、彼が風邪をひいたところで別に構わないんだし、気持ちとしてはザマアミロなんだけど。
(寒そうだな)
 もともとすごく華奢なのにさらに体を縮めて足を抱えていて。
 どうしよう。
 もちろん放って置く、勝手にこんなにところで寝てた方が悪いんだから、風邪をひいても自業自得という選択肢が一番当たり前のように思えたのだが。
 なんか、可哀相になってきて。
 かといって起こすのも、どうだろうか。
 起こした時に顔を合わせるのも…。
 ……………。
 僕は自分の着ていたローブを、彼にかけていた。
 起こす事も勇気が要るし、このまま無視なんてもっとできなくて。
 僕は、マルフォイに起こさないようにそっとローブをかけていた。
 マルフォイの顔がもっと柔らかくなって、彼にこんな表情ができるなんて、夢にも思わないほど、優しい微笑みだった。
 こんなに綺麗な笑顔もできるのに、こんなに優しい顔も持っているのに。
 僕は、なんだか彼に嫌われている事がとても切なくなってきた。なんで、こうやって僕に笑ってくれないんだろう。誰かにはこの笑顔で、なんで僕には………、
「…ありがとう」
 マルフォイが、小さく口を開いた。
 寝ぼけているのか、とても舌足らずな甘えたような声。
 起きたのかと思ったけれど、目は閉じられたままで、小さな声で続けられた言葉に僕はひどく驚いて息をする事すら忘れてしまった。
「ありがとう、ハリー」
 そうして、極上の笑顔で僕に微笑んだんだ。
 ……、なんだって?
 あのマルフォイが、ありがとうだって。
 彼とは一番縁遠い言葉で、向けられる好意は当たり前のことで、感謝なんかを感じる事なんか決してないと思っていたのに。
 彼のボキャブラリーの中にそんな言葉が存在したこともとても意外だったのに。
(なんだって?)
 ありえない名前が続いた、気がする。
 ハリー、て呼ばなかったか?
 誰のこと?
 僕の知っているハリーは僕以外いない。
 彼の知っているハリーはどうだか分からないが、ここにはいないと思う。
 僕の事だろうか。
 彼の夢の中で僕はこうやって、ファーストネームで呼ばれて、本当に幸せを振りまいているような笑顔を向けられて、ありがとうなんて素直に言われちゃったりして。
 マルフォイはまた笑顔を消してしっかり眠りに落ちたようだ。
 僕は、もう目が離せない。
 がらがらと僕の中の何かの壁が崩れ落ちていく音が聞こえた。
 彼の夢の中に僕がいることにも、夢の中の僕は彼に優しく微笑まれている事にも。
 僕はなんだか、彼の夢の中の僕に嫉妬をしているようだ。
 起こさなきゃなんて、思えなかった。
 僕だって、どうしていいのかわからなかった。
 視線すら動かす事ができなかった。
「へきしっ」
 もう一度、彼がくしゃみをした。
 僕は慌てて近くの木の影に隠れていた。
 見つけられたら、僕は何て言って良いのか分からなかったから。どんな顔をして良いのかもわからない。
 慌てて彼の前から逃げ出した。
 さすがに寒くなって起きたのか、ようやく動き出していた。立ち上がった彼が僕のローブをしきりに観察していたが、そのうちに彼はとろけるような笑顔で、僕のローブを抱き締めて、顔を埋めた。
 今、ここで出て行ってそれは僕のだと言ったら彼はどんな表情をするのだろう。
 どうしよう。
 どうしていいのかわからないし、きっと何もできない。みつからないように、ここで、でも彼を見ている事しかできない。
 そのうちに彼は、僕のローブを分かりやすいベンチの上に置いて去って行った。

 次に、僕はどんな顔をして彼に会えば良いのだろう。






 次の日は普通に時間が経てば来た。
 でも僕はどうしていいのか分からなかった。
 もし、このままマルフォイに会ってしまったら、僕はどんな顔をして良いのか、僕はいつも彼に会ったらどんな顔をすれば良いのだろう。
 見なければ良かった。
 誰か寝ていようと好奇心を持たなければ良かった。彼だとわかったらすぐに無視して帰ってしまえばよかった。すぐに起こせば良かった。
 色々と逡巡したところで、結局後悔もしていない。
 得をした気分どころではなく、あの笑顔も、僕を呼ぶ声も、しっかり残っている。
 思い出すごとに心音が倍速。
 いつもどおりに朝食の時間で、僕は忘れるようにロンとのおしゃべりで夢中になっていた。
 忘れるつもりだけれど、毎日同じところで食事をするのだから、顔だって会わせない日なんかないわけで……。
 マルフォイを見たら、僕はどんな表情になるのだろう。 なるべく見ないようにしていたけれど。
 ふと顔を上げた時に、視界に入って来るプラチナブロンドが、とても恥ずかしい気持ちで、顔が緩んできそうになるのを必死で堪えた。
 僕はこんなにマルフォイなんかのことで頭が疲れているのに、彼はいつもの通りの取り澄ました顔で朝食を口に運んでいた。
「どうしたの?」 
 ロンが不思議そうに僕の顔を覗き込んだ。
「どうしたの、て何で?」
 引き締めていた顔を戻したら、すごく締まりのない顔になったと思う。
 僕の見ていた方にロンも視線を送ると、納得したようだった。もちろん、僕が見ていたのはマルフォイで、僕がスリザリンを見ているということは、そこにしか視線の目標jはないから。言い換えれば、スリザリンの知り合いは大嫌いなはずのマルフォイしかいないから。
 見ていたことはばれたけど、僕の顔つきが不自然ではなかったようだ。
「すごく怖い顔してたから、何かと思っちゃったよ。また何かあったの?」
「う〜ん」
 何かあったと言えば大ありだけど、さすがにそんな事を話せないし、マルフォイが可愛いなんて、ロンには決して信じてもらえないだろうし、
それどころか僕の頭を疑われるのが関の山だ。
 僕だって未だにちょっと信じがたい。
「本当に嫌な奴だよな」
 そうでもないかも……。
 咄嗟に口をつきそうになったその言葉を嚥下するのに必死だった。
「うん」
 勝手に僕の前で穏やかな寝顔晒して、僕に断りもなく僕のファーストネームを声に出して、僕だけがこんなに色々悩まなきゃならなくて。
 ロンがマルフォイを機嫌の悪い顔で見ているから、僕も一緒に彼の方を見た。
 すました顔で食事をして、そんな顔すら、今まで見るのも嫌だったのに。
 髪の毛が綺麗だとか、顔つきが整っているだとか、赤い唇とか。
 あんなに優しい顔もできるのに、
(何で僕には……)
 心当たりがないわけではないけれど。
 僕達の視線に気がついたようで、マルフォイがふと顔を上げた。
 目があった。
 彼はびっくりしたように目を見開いたのも一瞬で、いつものように、嫌なものを見るように眉根を寄せると、すぐに顔を背けた。
「本当嫌な奴だよ」
 僕は声に出して呟いてみた。