Full Moon 05








「昨日、お前どうしたんだ?」


 今日が、満月だからだろうか。
 昨日よりも……目眩が酷い。喉も痛いくらいに乾いている。
 酷い空腹を覚えているのに、胃は何も受け入れようとしない。無理矢理詰め込むことはできるけれど、お腹が空いているわけじゃないって思い知るだけだった。


 保健室に入って来た時から、黒崎には気付いていた。いつものように霊圧で……ではなく、今は匂いで。

 枕元に立った黒崎から少しでも逃げたくて、僕は横を向いて布団を頭まで被ったけど、布団一枚くらいじゃ黒崎の甘い匂いは防ぎようがなかった。



「ごめん。忘れてくれ、昨日はどうかしていた。具合が悪かったんだよ」


 今の方が、もっと酷いけど。もっと、酷くなっている。いつ僕の正気がなくなって、黒崎に手を伸ばすかわからない。


「……石田」
「大丈夫だよ」

 君が居なくなればね。
 君さえ居なければ、少し貧血気味で済むんだ。少し喉が渇くだけなんだ。


 君がどこかに行けば大丈夫だよ。


「なあ、石田……なんか、悩みあるなら、俺でよけりゃ相談に乗るぜ?」




 僕の先祖が、吸血鬼だったらしくて、満月になると血の匂いが甘く香るんだ。

 って、そんな説明を、どうやって?

 どうして、黒崎の中で昨日の事で僕に何か悩み事がある事になったのかは、僕にはわからないけど……それが黒崎なんだろう。どう考えても、余計なお世話だって。
 相談なんかできるはずのない悩みを、打ち明ける気にもならない。

 自分だってこの甘い匂いにどうしたって実感せざるをえないけど、理解しかねている。というか、信じたくない。そんな非科学的な事あってたまるか。
 そもそも血液には嘔吐作用があるはずなんだ。血が欲しいだなんてあり得ない。ステーキだって僕はしっかり焼いてあった方が好きなんだ。それなのに、




 血が……飲みたいだなんて……。



「石田、汗、ひどいぞ。そんなに具合悪いのか? 帰るなら送ってこうか?」


 僕を思いやる気持ちが少しでもあるなら、早くどこかに行ってくれ。

 教室で君の匂いに耐えられなくなって、保健室に逃げてきたのに……今、まだ授業中だろう? 


 せっかく保健室に今誰も居ないのに。何で君がここに居るんだよ。虚が出ると死神化してどこかに行っちゃうから、授業だって遅れかけているんじゃないのか? 僕なんかにかまわずちゃんと勉強しろよ。

 別に黒崎じゃなければ誰が居たって大して問題じゃないのに。

 せめて霊体で来てくれればよかったんだ……そうすれば血の匂いなんかしないはずだから。
 まだコン君はメンテナンス中なのかな。早く帰って来てくれればいいのに。




 息が苦しい。
 甘い匂いに、胸がつまる。

「石田?」

 ぽん、と僕の肩に布団の上から黒崎の手が乗った。安心させるための動きだとは解った。振動は軽いものだったが、それでも僕の心臓は大きく跳ねた。







「黒崎……苦しい」

 早く、だから、行ってくれ。
 乾いて、苦しいんだ。
 我慢するのにも、限界がある。


「石田、大丈夫か?」


「……苦しいんだ」

 香りに顔を向ける。
 黒崎が僕をじっと見ていた。心配そうな顔で僕を見ていた。



「苦しいって、熱があんのか? 無理すんな。帰るんなら送ってやるから」

 黒崎は僕を覗き込むようにして……近い、場所から抗い難い香りが、僕の意識を麻痺させてゆく。



「……苦しいんだ」


 手を、伸ばす。黒崎に向かって手を伸ばす。

 黒崎の首に腕を巻き付けて、僕は黒崎を引き寄せた。


 黒崎の首に、顔を寄せる。

 この、匂い。そうだ、この匂いだ。全身に甘く痺れたような、感覚が……耐えられない。
 自制心なんか……何処へ行ってしまったんだろう。そんなもの……要らない。

 麻痺、する。


 麻痺した。

 この甘い匂いの前に、僕は……欲求に忠実に従うことにする。



「石田?」


 僕は、黒崎の首に、腕を回す。
 腕を回して、黒崎の首に鼻先を埋める。

 この、匂いだ……。

「黒崎……欲しい」



 僕は………強い香りを立てる皮膚に、噛みついた。
 黒崎の首に、歯を立てた。



「っ!」


 ぷつり、と歯が皮膚に沈んだ感触の後、口の中に広がる



 血の、薫り。





 温かい……血が……口の中に広がる。



 ああ……なんて、甘い!


 喉を通って、身体に入って行く……全身に広がるようにして隅々まで甘さによる歓喜が伝わるのが、解った。

 僕の中に、黒崎の血が……。


 温かい……黒崎の甘さが身体の中を快楽として走る。
 痺れにも似ている、甘い疼きが、全身を巡る。



 甘い。


 甘くて、溶ける。



 身体中に、広がる。


 何だ、これ。



 美味しい。


「……あぁ」


 美味しい。


 ジュルと、音を立てて、僕は、黒崎の首に吸い付いた。

 美味しい。


 僕は、こんな美味しい物を味わった事、ない。


 こんなに………



 口にするだけで、興奮する。美味しい。細胞が、その一つ一つが喜んでいるのが解る。全身に悦びが巡る。


 僕はどうなってしまったんだろう……どうなってもいいや。

 僕は酩酊した意識の中をふわふわと漂う。












「っ、石田!」




 鋭い黒崎の声に、僕は瞬間的に我に帰る。



 黒崎は僕の肩を掴んで揺さぶった。


「石田……! お前……」


「………あ」








 肩を捕まれて揺さぶられ………僕は、今。



「石田、何だよ一体!」


 ……今、僕は………。


 何をした?



 黒崎の血を、飲んだ?


 口の中に残る、甘い血の味は、現実。




「……ごめ」





 謝ろうとして、黒崎の首を見た。


 黒崎の首に血がついてた。


 血が、垂れていた。
 赤い。シャツについて、黒崎のシャツが赤い染みを作っていた。

 血液……を、僕は……。




 血が流れる噛んだ跡は、二つの穴……人間の歯形じゃ、ない。







 ………何だよ。


 やっぱり、父親の悪い冗談じゃなかったのかよ。




 血の気が引いた。



 目の前が真っ暗になって。








20111008