しばらく、その意味が解らなくて、つい黒崎の薄い色素の目をまじまじと見てしまったが……
「……わあっ!」
何が起こったのか気付いて、驚いた。
驚いて黒崎の身体を放り出すと、ゴン、と鈍い音がした。地面と黒崎の頭が派手に衝突したようだ。
…………いつの間に、黒崎は霊体を身体に戻したんだろう。
気付かなかった。
魂葬も、とっくに終わって……いたのに……僕は、何も気付けなかった。
「あ……ごめん。わざとじゃないよ、あんまり」
「って、めえ…」
頭を抱えて転がる黒崎から、やっぱり……さっきより、急に匂い強くなった。
すごく、甘い。
黒崎が身体に戻ったから、身体が動き出したから……きっと。
身体に体温が戻ったから、余計に香り立つ。教室にいる時より、もっと……こんなに近くに居るんだ。それに教室では色々な霊圧や気配に混ざってしまう。それでも強く感じていた匂いが……こんな近くにあるんだ。
「石田、てめ、急に放り出すんじゃねえっ!」
何だろう。
「驚いたじゃないか。いきなり戻るな。一声かけて然るべきだ」
苦しい。
「何度も呼んだけど、てめえ気付かなかったじゃねえか! それにてめえなら霊圧でわかんだろ?」
後頭部を打ち付けて、黒崎が痛がって転がってる姿が滑稽で僕の表情は笑っているけど……
苦しい。すごく、苦しい。
「僕だって考え事してる時くらいある。気付くまで呼べばいいだろ?」
背中に一筋、汗が流れた。
「俺の身体だ。てめえの許可なんていらねえだろ?」
すごく、甘い。
「………」
甘くて、苦しい。
「………石田、やっぱり具合悪いとか?」
「………」
「大丈夫か? あんま顔色良くねえけど……」
苦しい。
「君に心配されるほどじゃない」
「具合悪いなら、わざわざ来るんじゃねえよ」
「病人に虚を任せたくなければ、君はもっと早く到着するべきだ。初動が遅すぎる」
甘くて、正気を失いそう……まだ、大丈夫だって、思うけど……。
頭を抑えて地面に転がりながら、僕を睨み付けた黒崎が、ふと動きを止めた。
僕の顔を、覗き込むようにして……。
「黒崎、何だ?」
問いかけても、黒崎は僕から視線を外そうとはしなかった。
黒崎が、じっと僕の瞳を見つめていたその表情からは、驚きが読み取れたが、黒崎が、僕の何に対しての表情なのか、僕には把握しかねた。
甘い……匂い。
もうそろそろ限界かもしれない。
「今、光の加減だと思うけど……」
顔色が悪いとでも言いたいのかと思った。
「お前の目、真っ赤だった……」
………僕は、人間で、吸血鬼だなんて酔った父の妄想でしかないはずだ。
「……………光の加減だろ?」
そう、誤魔化した。
それにこんなにも甘い香りを前にして、それでも僕はまだ信じたくなかった。
自分が吸血鬼だなんて、非科学的な存在であるだなんて、何の役にも立たないじゃないか。それでいいことがあるのか?
黒崎から甘い香りがして、身体中が熱くな
る。渇いて熱いのに、指先に震えが走る。
吸血鬼だなんてモンスターだったところで、デメリットしかないじゃないか。喉が渇くだけじゃないか。
我慢するしかない。
黒崎なんかに悟られるわけには行かない。だから、早くこの匂いから遠ざからないと。そう、思うのに。
動けない……耐えられない。
黒崎の肌に……首筋が一番強く香る。
「石田?」
「………」
乾く。
欲しい。
欲しくて、
限界。
黒崎の首筋。
に、顔を寄せた。
なんて甘い。
薄い肌を隔てたその下に、こってりと赤くて濃密な血潮が流れているのが、僕には見えた気がしたんだ。
苦しくて。この苦しさは、きっと少しだけでも、和らぐ。それを僕は知っていた。
空腹の目の前に御馳走があるんだ。
一口……少しだけ。
口に含む程度で……舌を湿らす程度でいいから。
そうしたら、この震えは止まると、そう確信できた。
そっと、黒崎の首筋に唇を押し当て……
「……石田っ!」
思い切り、肩を掴んで引き離されて、我に帰った。
……今、僕は何をしようとしていた?
「あ………ごめ。僕……」
言い訳の言葉なんか、出てこなかった。
言い訳したとしても、黒崎の首筋が美味しそうだったからって、口実にもならない。
「石田、どうしたんだよ!?」
怪訝な顔で、そんな事を訊かれたって、僕は、どうやって答えたら良いかなんて解らなくて……自己保身の為の辻褄合わせる言い訳すら、出てこなかった。
出てくるはずがない。何より、自分の行動に自分が一番驚いていたのだから。
自制心は強い方だと、自負していたのに……。
香りに、理性が奪われた。
「石田……?」
僕は………逃げた。
走って逃げた。
死神化した黒崎だったら、追い付かれてしまったかもしれないが……。
生身で戦う僕に、黒崎が追い付けるはずなんか無いんだ。
僕は、逃げた。
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20111008