鼻が効くとは、誤算だった。間違いじゃない。確かに血、だからね。
「気のせいだろ?」
僕は、作業を中断して、黒崎を振り返り、無理矢理の笑顔を作った。それでも君に、この笑顔が作り物だって見破れるほどの嗅覚はないだろう?
「気のせいに出来る根拠がねえ」
「まさか、確認させろとか言わないよね」
確認、と言っても……一緒にトイレにでも行けば気が済むのだろうか。僕が全裸にでもなれば確認した事になるのか? 自分で言ってみて、馬鹿らしさに頭が痛くなりそうだ。
「じゃあ、確認させろ」
自分で言ってしまった手前、馬鹿じゃないのかとは思うけれど、それは言わなかった。
「僕が女だったら、認識でも変わるのか?」
「そりゃ……」
「別に男だし、生理なんか来る機能持ってない」
溜め息を吐き出しながら、黒崎に向き直る。小学生の時分ならいざ知らず、今の僕はどう見ても女らしいとは言いがたい外見をしていると思う。
幸い、ここには誰も居なかった。
こんな、馬鹿な会話を効かれずに済んだ。
さすがに妙な誤解は困る。
僕が女だって? 勘違いでも、そこまでだと、ある意味立派に思える。
どう見ても僕は男だ。それでも黒崎がそう言ってくることには何かあるのだろうか……と、勘繰ってしまいそうになる。何か……考えても特に何も思いつかない。僕が女であることのメリットではない。黒崎だって僕がどう見ても男だって見れば解るはずだ。僕が男であり、尚且つわざと女だと勘違いして確認をしようとしていることのメリットだ。何を、考えているんだ、黒崎は。
やはり、黒崎がただ頭が悪いだけなのだろうか。
僕は、シャツのボタンを外す。
別に、素肌を晒した所で。女の子じゃないから、大した事でもない。水泳の授業だってあった。その頃、黒崎は僕の存在に気付いて居なかっただけで、ジャージにも教室で着替える。こんな場所で、僕は何をしているんだと思わないわけでもないが、誰も居ない。
「これで、バカでも解るだろう? それとも、触らなきゃ解らないか?」
薄い、胸板。女でないと、どう考えても明らかだ。シャツの上からだって解るはずなのに。女性には個人差もあるだろうけど、それにしても明らかに違う。
「……触って、いい?」
「は?」
「わかんねえから」
「………どうぞ」
どんな嘘だ。
女性にも、体型の差はあるけど、それでも明らかに凹凸の無い身体をしているんだ。
とは、思ったが自分で言ってしまった手前、我慢しよう。
それで、何も言わなくなるなら、それがいい。二度とバカな勘違いはやめてもらいたい。
勘違いでなく、黒崎が勘違いして見せる事で、何かのメリットがあったとしても僕には理解できない。黒崎が何をしたいのかわからない……けど、別にいい。早く帰ってもらえるなら、それでいい。
黒崎が、僕に向かって、手を伸ばした。
僕は、その指先を見た……。
ぞくりと、背に熱いものが、走る。
黒崎が唾液を飲み込んだのが、解った。
何を、緊張しているんだ、黒崎は。僕も、つられて、震えそうになる。
恐る恐る、伸びてくる指先を、僕は見る。
この指が、僕のに絡み付いた……。
黒崎の指が届いた。暖かい、指先が僕の皮膚に触れた。
そっと……なぞるように……。
この指が……僕の中に入って…………僕の身体の中に入って……中を触れて……。
僕に触れた、手。
熱いと、思ってしまうほどの温かさと、力強い手。
声が、出てしまいそうだった。
思い出してしまった。
忘れたくても忘れられないのに、思い出してしまった。与えられた全ての感触と共に……彼は、一護は、僕に触れた。
「……っ変な触り方するなよ。気色悪い!」
「あ……悪い」
黒崎は慌て手を引っ込めた。
「悪い」
「君が確認できなたら、それでいいから」
それで気が済んでくれれば僕も満足だと思う事にする。それで帰ってくれればいい。
「すまねえ」
「で、確認できた?」
「……あ、うん。多分、男」
「多分じゃなくて、戸籍も全部正真正銘男だよ」
妙な勘違いを正せて良かったと思うようにしよう。黒崎が、結局何を考えての行動なのか、僕には理解が出来ない。黒崎がただ馬鹿なだけだとだけ、思って居ればそれでいい。いつものように、第一ボタンまで止める。だらしのない格好はあまり好きではない。窮屈だから嫌だと教師に向かって反抗していた生徒が居たが、たぶんただの慣れだと思う。僕は一番上のボタンまで留めても気にならない。
それにしても……黒崎は、何でそんな表情してるんだろう。
何故か、息苦しくて辛そうな、顔を僕に向けていた。僕は、その表情に対して、何も出来ないし、何かをする気にもならない。
「他に僕に言いたいことは?」
「……特に」
「じゃあ、サヨウナラ」
「見てていい?」
サヨウナラ、ってわざわざ言った意味を理解してくれていないようだ。さっさと帰ってくれって言ったんだよ。邪魔だって、言ったつもりなんだけど。
「気が散るから嫌だ」
「じゃあ、見ない」
「…………」
見ないなら、帰れよ。
もう、用事は済んだはずだ。僕と黒崎の接点なんてない。もういいだろう。僕の前から消えてくれ。
僕の願いは切実なのに、黒崎は対角線側の席に座ると、鞄から単行本を取り出して読み始めた。
君の、存在そのものが、邪魔なんだ……。君の存在が感知出来ない遠くに行ってくれないか? 君を思い出せないくらい深くまで記憶の奥に埋めてしまいたいんだ。
「なあ、石田」
「気が散るから、話しかけるなよ」
「………」
黒崎が、何か言いたげに、僕の顔を見ていた事は解ったけれど、僕はそれに応えてあげられる義理も優しさも忍耐も持ち合わせていなかった。向けられた視線を感じてはいたが、僕は黒崎の視線に答える気にもならない。
だって、僕は、黒崎が嫌いなんだ。
君が、嫌いなんだよ。
僕のミシンの音が、響く。
カタカタと軽い音を立てて、動く。その音だけしか、今この教室の空気を震わすものはない。音の振動だけ。
黒崎が時々視線を僕に送る。送るだけで、何かしようという気配はない。何か、言いたい事があれば言えばいいのに、何も言い出す気配はなく、ただ僕に視線を送る。
とても、気になった。
やっぱり限界。
黒崎のそばに居たくない。
早く、帰って欲しい。
そうでなければ、僕はまだここに居たかったけれど、帰ろう。もう帰る。一人になるのは嫌だけれど、誰か、人の気配が在る場所に居たかったけれど、黒崎と居るよりは独りで居た方がずっといい。
だって、本人が目の前に居るんだ。
僕と、二人で居るんだ………。
思い出さないはずがない。
指先が……全身が、震えそうになるのを、黒崎なんかに気取られたくない。
お願いだから帰ってくれないだろうかと、そう思って………。
ふと、見ると
……黒崎が寝ていた。
……何で、人前で眠るだなんて、無防備な事ができるんだろう。
強さから来る自信なのだろうか。彼の言動全てが、いちいち僕の神経を逆撫でていることに、何で彼は気付かないのだろう。
黒崎は、実際、強い。
ここ最近、霊圧の強さも増した、霊圧のコントロールも昔よりも上達しているのは解っている。
僕だって……力を失っていなければ。僕だって、強いはずなんだ。僕だって、もっと強くなれていたはずなんだ。僕は全てをなくした。
僕は、幼い頃から依拠していた僕の力を失って、黒崎は最近手に入れた力なのに、こうやって、強くなって………。
なんて、馬鹿らしい。
失った過去の力を取り戻す手段も解らない。失っていなかった場合、どうだ?
だから、何だ?
ただの、劣等感だという事は解っている。情けない、ただの僻みだ。過去仮定をしても、結局何も得られない事など、僕が一番解っている。
………寝ているわざわざ起こすのも嫌だ。
でも、ちゃんと帰ってって言わないと、一緒に帰る羽目になるかもしれない。
それも嫌だ。
起こしてみて、先に帰ってくれればそれでいい。もし僕を待つようであれば、僕は帰ろう。そのつもりであれば、早く帰った方が黒崎と居る時間は短くて済む。
どちらにせよ起こさなくては。黒崎に近づいて、肩を叩こうと……。
ふと、黒崎が顔を上げた。
「何だ、起きてた……」
顔を上げて、彼は、僕の顔を見た。
「……………ああ」
僕の顔を見て、黒崎は、口の端を釣り上げるように……笑って………
ざわりと………闇に、侵食される……
僕を見る、黒崎の瞳が、じわじわと闇の色に……
空気が、乾く。
ぴりぴりと、肌を刺すような、痛みを伴う……そんな……これは……
彼、だ。
「会いたかったぜ、雨竜」
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20110227