白亜の闇 10








 しばらくは平和な時間が続いた。
 平和……何もないことだ。
 虚が出ても、僕が相変わらず何もできないまま、黒崎は戦い、僕はそれを霊圧で把握しているだけの、平穏無事に時間が流れた。

 いつも通り。


 ただ、黒崎の何か言いたげな黒崎の視線に苛つかされてはいたけれど……。


 黒崎は、僕を見ると言いにくそうにしていた。見られている気はして、なるべく意識して黒崎の方を見ないようにしていたけれど、それでも良く視線が合った。
 ……何を訊かれるか、解っていた。


 心配なんか、されたら、ただ僕が惨めになるだけだ。何があったかも訊かれたくない。
 せめて、忘れたふりをしてくれるのが黒崎の優しさなのに、それすら気付かない厚顔は、物言いたげな視線を僕に送るばかり。



 僕は、頭を掻きむしりたくなった。だから、そうした。

 イライラする。


 思い出したくない。


 何も思い出したくない。このまま消えてしまいたい。



 事実が消えないなら、せめて忘れたいのに……彼の……一護の、目が………。


 怖かったんだ。


 本当に、僕は怖かった。
 思い出すだけで、指先が震えてしまうほどに。忘れる事も出来ず、ただあの瞳を思い出すばかり。怖かったんだ。



 それなのに、僕は。


 気持ち、良かった。
 僕は、感じたんだ。

 彼が僕の中に吐き出した時に、僕も絶頂を見た。世界が、頭の中の全部が吹き飛んでしまいそうになるほどの、快感。



 抵抗すらできない、プライドなんかへし折られて、ただのおもちゃのように扱われる自分が、惨めで、悔しくて……それが……。








 僕は、大きな溜め息を吐いた。内臓すら吐き出してしまいたかった。


 その、溜め息で我に帰る。




 さっきから、少しも作業が進んでいない。いつから、僕はミシンを動かしていないのだろう。ちっとも進まない。これでは作品展に間に合わないかもしれない。僕は今何もないんだ。虚を倒す事もない。ただ学生として生きていればいいだけ。それすらも出来ていない。こんな状態では、何も出来ない。


 幸い、今日は誰も部活に来ていない。

 手芸部は、基本、自由参加だから、月毎の課題さえ提出すれば、来なくても文句は言われない。作品展があって締め切りが近くなったり、文化祭前なんかは、誰かこのまま泊まり込むんじゃないだろうかと思う勢いで、みんな参加しているけど、今日は誰も居ない。たぶん、他の学校よりもこの部活は活発な方だと思う。レベルも高いと思うし。

 でも、在り難い事に今日は誰も居なかったから、困った事に思う存分溜め息が吐ける。


 本当は、誰かが居て誰かの視線があれば、溜息を吐いたり頭を掻き毟ったり、そんな事もできない。作業に集中していれば、嫌な事を考えずに済むから……帰りたくなかった。
 一人になれば嫌でも思い出す。家で、何もやらずにただ身体を抱えて布団の中でうずくまる。怖くて、思い出したくなくて、そうする事しかできない。何も出来ない。

 人の目がある場所ならば、思い出さない事はなくても、思い出しても、自重できる。自分を律する事を出来る。




 ……なんで、僕だったんだろう。



 弱いから。
 弱い……。


 僕が弱い。


 そんな事、知っているんだ。


 誰にも見抜かれたくなかった。
 死んでも見抜かれたくなかった。


 毅然とした態度を保ち、虚勢を張って、僕を強く見せる事が、僕のプライドを守る手段の一環でもあった。

 彼は、易々と、それを崩した。
 あんな、事……許さざるを得なかった。


 許すしか、なかった。



 それは、僕の僕に対する言い訳じゃないのか?

 死守したければ、死ねば良かっただけだ。自分のプライドの方が大事なら、殺される前に死ねばいい。なんとでも手段はあったはずだ。


 僕は、自分の弱さを晒したかったんじゃないのか? 弱さを晒した上で、認められたかった? 僕を、本当の僕を認識されたかった? 他との差異で識別されるのではなく、僕を僕として認識してもらえるために、僕は僕を晒す事に悦びを覚えたのではないか?





 内臓が腐敗していく気分がする。そう、思ってしまうと、どうしようもない。
 再び溜め息を吐こうとして…………。





 黒崎が……。


 この、被服室の前に来たことを感じた。
 ここに黒崎が近付いてくる事も感じなかった。霊圧を探るのは僕の意識の中で行っているものではなく、無意識に感じるものなのに……黒崎がどこにいて、どこに向かっているのか、なるべく近付かないようにする為に校内ぐらいは把握できていたのに……気にならないほど僕は自分の内側に入り込んでいたようだ。


 黒崎が、扉の前に居る。

 背後に霊圧を感じている。間違いない。



 ……どこか行けよ。
 僕に近寄るなよ。近くに来るな。


 扉の前で立ち止まっている黒崎の霊圧。


 お願いだから、来るなよ。僕に用なんてないはずだ。








 それでも、扉はがらりと開いた。












「何の用、黒崎?」


 僕は、ミシンを再稼働させる。目の前の音で黒崎の声なんて消えてしまえばいいと思い、高速で動かす。

「あ、いや…」

 僕は、振り返る気にもなれなかった。そこに黒崎が居るのは解っているんだ。

 そっか、霊圧……とか、呟いてる黒崎は、迷わずに僕の背後まで来た。

 背中に感じる霊圧には、嫌悪しか覚えない。矢鱈と大きくて、包み込むような、そんな霊圧。触れたくもないのに強制的に僕の意識の中にもぐりこんでくるような……僕の気を滅入らせるような霊圧。


 気を使うことすらできないくせに。
 傍若無人で、自分が正しいと、自分の正義感を振りかざしてる黒崎を、僕は大嫌いなんだ。


「ちょっと、訊きたいんだけど……」



 見られた。
 僕の恥部を。

 彼に、抉られた所の出血を見られてしまった。


 その事、ぐらいだろう。どうせ僕に用なんてないんだ。接点は、もうクラスメイトしかない。僕は虚を倒さない。倒せない。役に立つとすれば霊圧を探る能力、死神よりも滅却師の方が優れていると証明できる部分だけは、残っているけれど、僕は黒崎の役に立つつもりもないから、もう接点なんかないんだ。


 だから、訊かれるとすればあの時のこと以外ない。


 ……絶対に、嫌だ。


 世界中に知られても、黒崎だけには知られたくない。
 黒崎だけには、僕が弱いだなんて、知られたくない。同情されたら、僕は惨めになる。黒崎に知られたら……

 嫌なんだ。



「ちょっと、石田に確認したい事がある……っていうか、その……」

 要領を得ない黒崎の言い方に、僕の苛立ちは増す。



「質問があるなら、さっさと喋って、さっさと帰って欲しいんだけど」


 邪魔だから。
 声には出さないけど、そう伝える。促さないと、いつまでも黒崎が口篭っているのを待っていて、僕の作業がはかどってしまいそうだ。











「お前ってさ、石田。その……男、だよな」







 …………………………どういう、勘違いをしているんだ、この男は!?






「あ、いや、ほら、女ってセーリで血が出るだろ?」


 あの時の出血がズボンまで染みていたのを、黒崎は女性のモノと勘違いしていたらしい。



「……見て、解らないのか?」


 さすがに自分でも男臭い外見ではないとは思うけど、でも背だって低いほど低いわけではないし、声も高いわけじゃないし……それなりに喉仏も出ているし、どんなに頑張っても、女らしいとは言い難い……と、思っているんだけれど。
 こんな見た目の女の子いたら、僕が嫌だよ。


「だって、お前、この前ケツに血が着いてたぞ」


「ケチャップがこぼれてた所に、うっかり座ったんだよ」


 馬鹿馬鹿しくて真面目に答える気にもならない。用意した回答もなく、その場で適当に誤魔化すつもりだったけれど、それで良いだろ? その回答で満足して帰れよ。





「でも、お前、あの時逃げたし……」

 逃げる、しか、思い浮かばなかった。あの時は。一秒でも黒崎のそばにいたくなかった。言い訳を考える余裕すらなかった。


「馬鹿にされたくなかったし、君と帰りたくなかったしね」


「でもさ………」



 それでも尚も食下がる黒崎に苛立ち以外覚えない。
 ただ、僕が犯された、という事実に到達出来ない黒崎の頭に、今は感謝せざるをえない。










「でも、血の、匂いがしたんだ」








20110218