その日の空は、ひび割れそうな厚い雲で覆われていた。
教室に戻ったのは、ただ忘れ物をしたから。
部活で遅くなってしまい、部活で使っている被服室の鍵を職員室に返してから、教室に向かった。
本当は、教室なんかに行かなくても良かったんだ。
読みかけの本を、机にしまったままだったから。今日帰ってから、やることもなかったから。読みかけの本をとりに戻っただけなんだ。それだけ。別にとりわけ必要なものでもなかったけれど、早く帰る必要もなかったから。ただ、それだけ。
教室には、黒崎がいた。
机に伏せているけど、電気も消えていて教室は薄暗かったけど、でも黒崎だってわかった。教室に入る前から気が付いていたけれど、それでもここまで足を運んだので、黒崎がいるぐらい引き返す理由でも無かった。黒崎が居ても、特に会話する必要も無いならば居ないのも同じだ。
黒崎の髪の色はよく目立つ。黒崎がもし霊力を持って居なくても、後ろからでもすぐに解る。
机に伏せて動かない黒崎は、具合でも悪いのかと少し思った……もし具合が悪くても、起こすつもりも無かったけれど。
側を通り過ぎた時に、安定的な寝息が聞こえてきたから、ただ居眠りをしているだけなんだろう。昨日は、深夜過ぎまで黒崎は戦っていたから。
昨日、深夜、虚が出た。僕は行かなかったけれど。
行っても、今の僕は役に立たない。
黒崎が虚と戦っているのを、布団を被って感じていた。布団を何枚被っても、気休めにもならないけれど。
僕は、滅却師としての能力を失った。残っているのは、血統的に受け継がれている、強い霊感だけ。それ以外、僕は何も持っていない。周囲から霊子を収束して力に変える能力を失った。僕は、今虚を倒す手段を持たない。
力を無くした僕には、足手まといが妥当な称号だ。
だから、黒崎の霊圧と虚の気配を感じたくなくて、僕は頭から布団を被って膝を抱えていた。
僕が力を失ったのは自業自得だ。仕方ない。自分の力が弱かった、それだけだ。
僕が力を失うのは仕方がない。僕が弱かったから。
それでも黒崎が……黒崎には、死神の力があるのが、嫌だった。僕は滅却師としての力を失ったというのに、黒崎は今でもその能力を日々高めている。僕が失ったものを黒崎が持っている。
この感情が、ただの僻みでしかないのは解っている。
僕は、これまでずっと滅却師として生きてきたんだ。僕としてではなく滅却師として生きてきたんだ。言い換えれば、僕は滅却師として自身を誇示して、僕個人には何もなかった。
僕から力を無くしたら、僕には何もなかった。
僕が、弱いから。
そう、言ってしまえばそれだけだ。
僕は戦線から退かざるを得ないただの敗者だ。負けて、僕はこのまま逃げる事しかできない。父親のように、見えて居るものから目を逸らして……。
黒崎は、力をつけてきていた。黒崎が僕と戦ったあの時から、それからも力をつけてきていたのは解っていた。黒崎は強くなり、僕は力を失って……でも能力が全て無くなったわけじゃない。霊力は、相変わらず同じようにある。それを使う手段が無くなった。だから、黒崎が強くなっているのは解っているんだ。
強くなっている黒崎と……僕は僕を無くした。
ただの嫉妬だなんて解っている。
幼い頃からずっと修行して、滅却す力を手に入れて、ずっと戦って来た僕が……。
今の僕は、黒崎に勝てない。
低級の虚ですら、危ない。
でも、僕の霊力は今までと同じようにある……今の僕には、自身を守る手段すら危うい。
このままでは、僕はいつか虚に喰われるのも時間の問題だ。僕の霊力に惹かれてやってきた虚を撃退すらままならない。滅却師だった僕は、そんな惨めな死に方をするのかもしれない。
ずっと僕には、力が全てだったんだ。滅却師としての誇りが全てだった。そのために、僕は僕として全てを棄ててきた。
今まで安寧の中でのうのうと生きて来た黒崎には、力があって……。
ただの、嫉妬なんだ。
そんな事は解っている。
黒崎は、寝ていた。
寝息が聞こえる程。
口から溜息が、漏れる。
気付かれたく無かった。僕の存在に。僕がここにいる事に。
当然、黒崎と喋りたくも無かったから、気付かれないように、自分の席に向かう。
万が一黒崎が僕の立てた物音で目を覚ましてしまったら、黒崎の事だから特に用も無くても、僕に一言は何か話しかけて来るだろう。言葉を交わす義理など無いから返事を返すつもりもないけれど、黒崎が僕に声をかけて来るのも嫌なんだ。もし黒崎が起きていて話しかけてきたとしても、いつも通りであれば、会話にすらならないで終るのだけれど。
黒崎が教室に居ることは解って居たけれど、僕が黒崎に遠慮してやる義理などない。僕と黒崎の接点は、もう、ただのクラスメイトでしかない。クラスメイトというこの繋がりは僕の取捨選択の範囲ではないから、僕がそれに義理立てする必要もない。黒崎と僕はその程度の関係だ。
気付かないで、寝ていればいい。僕が教室から出ていくまで勝手に寝ていればいい。
今の僕の机は窓際の後ろ。僕はなるべく物音を立てずに、本を鞄に入れる。このまま静かに出ていけば、それでいい。
僕は静かに机の中にある本を鞄の中にしまった。
音を立てることも無かった。
帰ろう、と……
その、瞬間。
空気が変わった。
ピリピリと、空気が痛い。
空間が棘を持ち、肌を刺す。
今まで、黒崎の霊圧で溢れるように満たされていた冷たい教室の空気が………。
何だ、これは。
圧迫感で呼吸すら儘ならない程。息が苦しい。苦しい。
背中に、針のある壁があるような圧力。
後ろ………。
ピリピリと……この霊圧は死神のモノとは明らかに異質だ……黒崎の霊圧なのは、確かなのに。
僕は、よく知っている。
この霊圧は、明らかに虚に酷似して………
「忘れもん?」
「……っ」
思わず、息を飲んだ。
僕の背中にかけられた声は、黒崎以外誰もいない教室から聞こえたから、当然黒崎の声だった。
それは、解るのに………振り向けない。
後ろで黒崎が僕の背を見ているのか……ひどく痛い。その部分を意識する。
「忘れもんかって、訊いてんだけど?」
僕の神経をささくれ立たせる筈の、特に意味を持たない軽い笑みを含んだ黒崎の間延びした声は、今の僕にはそう感じなかった。
「……別に、君には関係、ないだろう」
歯の根が合わずカチカチと、音を立てる。
指先が小刻みに震えていた。
怖い、と。
制服のポケットに銀筒が五本。
倒せる、とは思えない。
圧倒的な差は、探らなくても意識させられる。
逃げられるか?
せめて、逃げられるのか?
動け。
足が固まって動かない。
動け、動け動け!
逃げなくては。
「石田雨竜」
「……………」
背筋に、汗が流れたのを感じた。
「なあって」
肩に、手が乗った。
「……っ!」
反射的に、思い切りその手を払いのけた。
鞄がうまく閉まっていなかったのか、床に落ちて中身が散らばった。椅子が倒れて転がる。その音すら聞こえて来ないほど、空気が凍りついていた。大きな音すら空間に拡散せずにただ固まって床に落ちるほどに、凍っていた。
僕は、肩に触れようとしたその手から逃げたかったから、その手に捕まりたくなくて、飛び退いた。
窓側に背を向ける。
「……黒崎…?」
対峙した黒崎は………。
「ああ。俺は、黒崎一護だ」
……誰だ?
黒崎の貌をしていた。
霊圧も黒崎の物なのに……異質な。その霊圧は、黒崎の背後で求心力のある闇が蠢いているように見えた。
黒崎の霊圧で間違いない。それなのに……とても、虚と酷似した……霊圧……強い違和感。
黒崎に間違いないのに……。
ただ……目が……。
人間ではないと……。
それは、白い部分が、闇の色をしていた……から。
→
091020
再:110102