一歩、それは僕に近づいた。
空気が肌に痛いほどに張り詰めていた。
無意識に距離を取ろうと、僕は一歩後ろに下がると、一歩それは僕に近づいた。後退したいわけではなく、空気圧に自然と押されるように僕は後ろにさがる。また一歩後ろに……そうすると、もう一歩近づいてくる……それを二、三度繰り返すと、すぐに背中に、窓ガラスが当たった。
「……あ」
僕は追い詰められた事を知った。これ以上、もう後ろに逃げる事は出来ない。逃げるには、どうすればいい?
僕は、今逃げる事を考えている。戦う事などは、考えることも出来ない。無様にも背を向けて走り出したい気持ちをぎりぎりで抑えている。対峙して……これが敵だと判断しているのに……負けると思っても、僕は今まで逃げた事なんか無かった。逃げる事を考えた事なんて無かった。もし死んでしまったとしても、僕は逃げようと思ったことなんて無かったのに……それなのに、僕は今、必死で逃走するための手段を考えている。
この、男に捕まったら終わりだと、そう本能が告げている。
「石田雨竜」
それは僕の名を呼んだ。それは僕の名前を知っていた……僕を、知っていた。
「なあ、お前、石田雨竜だろ?」
黒崎だ。声も顔も黒崎だ。
それなのに……。
笑い方は黒崎ではない。
一方の口の端をつり上げるようにして。酷薄な笑みを映えさせている。黒崎はこんな笑い方をしない。黒崎は、裏の無い笑い方しかしない。笑顔に裏の意味など持たせる笑い方など出来ない奴だという事ぐらい、僕でも解っている。
「お前は……誰だ?」
確認するまでもない。黒崎だ。黒崎の霊圧をしている。それは間違いない。顔も、姿も、黒崎……それなのに。
「黒崎一護だって。クラスメイトの名前も忘れちまった?」
違う……黒崎じゃ、ない。
黒崎であるはずがない。人でもない。暗い、瞳が……僕を見ていた。
もう一歩、それは僕に向かって足を進めた。
後ろは……。
窓から逃げれば……ここは三階だ。下は植え込みがある………大丈夫。このくらいならば……
「なあ。お前が石田雨竜だろ?」
「……クラスメイトの名前も忘れたのか?」
「俺、名前覚えんの嫌いなんだ」
それは可笑しそうに目を細めた。
会話を楽しんでいるんじゃない。僕が、震えて居ることを、それは解っている。僕の声が震えているのを感じて、それは余計に面白そうに笑っている。悔しいと、そう思っても震える指先に力が入らずに手を握る事も出来ない。悔しいと、そう思うことも、出来ない。
ただ、僕は怯えている。
「なあ……」
それがまた、一歩近づいた。
もう、手を伸ばせば、捕まる距離。
早く、逃げないと……圧力が……それが放つ霊圧が、僕を押し潰す、近づくたびに、苦しくなる。逃げないと。
内臓が潰れるような圧迫感に、息が……。
「っ……」
呼吸が、できない。
吸い込む事が出来ない。
肺が潰れてしまったような。
圧迫されて……僕が、
潰れてしまう。
圧倒的な、力の差。
に、僕は。
「……ぐっ」
膝が、折れた。
窓を伝って、ずるずると、床に座り込む。
苦しい。
息が出来ない。
意識が混濁してくる。世界が黒く塗られていく。
頭が破裂しそうだ。
胸を掻きむしるように押さえるけれど、なんの役にも立たない。
全身の血液が行き場を無くして、身体中で暴れているかのような。
苦しくて。
苦しい。
このまま、僕は………。
……助けて、と。
助けて。
苦しくて、死んでしまう。
僕は……それに、哀願したかった。
助けて。
そう……手を、伸ばしたけれど、それまで辿り着かない。
ただ、宙を引っ掻いただけで、床に落ちた。
視界がひどく狭い。
揺れる視界の中でそれは、僕を見下ろして、笑みを絶やして居なかった。
「悪ィ。ちょっとキツかったか?」
水の中にいるような、不鮮明さで聞こえた。
ふと、霊圧が緩んだ。
「…か…っ、はっ」
雪崩れ込むように、肺が酸素を取り込む。急激に身体の中に流れ込んできた空気は、水のように凶暴で、うまく身体が取り込んでくれず、むせ返った。
床に転がって、荒い呼吸を繰り返す。肩を床につけて、身体を丸めた。
僕の、顔のすぐそばに、汚れた上履きが……
「……あ」
「汚ねえな。ヨダレ垂れてんぜ」
それが、僕に向かって手を伸ばした。
動けない。
ゆっくりと近づいてくる手を、僕はぼんやりと見ていた。
殺される?
頸を締められて? 頭を打ち付けられて? 心臓を抉られて?
もし、そうだとしても僕は、何も出来ない。
逃げる事すら出来ない。抵抗すら出来ない。今この状態では、呼吸するのがやっとだ。結局逃げ出す事も出来なかった。僕は、怯えている事だけしか出来なかった。
伸びてきた手は……僕の唇に触れた。
咳き込んで漏らし、顎に伝う唾液を、その親指で拭うようにして。
「なあ雨竜」
「………」
「仲良くしようぜ」
それは、妙な提案だった。
「仲、良く?」
ようやく、出せるようになった声は掠れていた。それが、何を言いたいのか、僕には理解できなかった。
殺すんじゃないのか? 僕を今殺そうとしたんじゃないのか?
僕の脇の下に腕を差し込まれて、無理矢理抱き起こされた。
「オトモダチになろうっつってんの」
笑いながら、それは僕に顔を寄せてくる。
「……あ」
僕がだらしなく垂らしていた唾液の筋を、それは舐めた。舌先で、僕の唇をやんわりと刺激した。
「……黒、崎」
黒崎でないことだけは解った。黒崎じゃない。違う。でも、霊圧そのものは、黒崎に酷似している……似ている、のではない。そのままだ。
「一護って呼べよ。オトモダチだろう?」
「………お前、は……」
誰?
その問いかけは声にもならなかったが、感じ取ったのか、口の端だけを吊り上げるようにそれは笑った。黒く、闇の色をした瞳は、こんなに近くにいる僕すらも映らなかった。
それが、何を求めていたのか、僕には解らない。
ただ、抵抗する実力すら僕には無いことだけは解っていた。今僕ができる事は何も無い。
もし、僕が滅却師の能力を失って居なかったとしても、それでも……
僕は、彼の前にこうして無様に這い蹲ることになったのだろう。
……圧倒的だった。
存在感が低迷した僕の意識の中では、全てを占めた。
恐怖すら感じなかった。
このまま殺されて、どんなに苦しくても、痛かったとしても、僕には抵抗すらできない。
彼の前に、全てが折られた、それほどに、それは圧倒的だった。
「一護って呼べって」
薄く笑いながら言った言葉は、僕にとってはただの命令だった。どんなに優しい声音で乞われたとしても、背く事などはきっと僕には許されていないのだろう。
「……一、護」
名前で呼ぶと、彼は少し嬉しそうに目を細めた。
「ん?」
「僕を、殺すのか?」
僕は、今、彼に殺されるのだろうか。
死にたくないからの、疑問ではない。
彼が、僕に何を求めているのか知りたかっただけだ。それを知ったところで何も出来ないけれど。
死ぬのが、怖い、と言うならば、一個の生命としては当然の恐怖だけれど、それ以上に、彼が何を求めていたのか、そしてそれが何故僕だったのか、気になっただけだ。
「ばーか」
彼は、僕の耳を甘噛みしながら、声を耳の奥に吹き込んだ。
「仲良くしようって言っただろう?」
そう、言いながら、彼は僕の唇に噛みついてきた。
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