雨はまだ降らない 後







 黒崎が食べ終わった食器を片付けて、間違えてた所を解説していた。
「ここは単純な計算ミスだけど、この問題は何でこの公式にしたんだ?」
「いや、なんとなく」
「だからこれはA=Dだろ? つまり……」

 説明をしながら僕は窓の外に耳を澄ます……遠くで、ゴロゴロと空が鳴る音が聞こえた。
 そう言えば、夜は一部で雨が降るって朝のニュースで聞いた。この辺の地域の降水確率はかなり高かったはずだ。

「あ、そっか」
「じゃあ、このページ。やってみて」
「おう」

 九時四十分。

 十時になると、黒崎の帰る時間。

 もう少し、時間がある。もう少し、勉強ができる。勉強がしたいわけではないけれど、黒崎に勉強を教えるのは、あと二十分くらい。
 ……もう少し、一緒に居られる。

 僕は本の続きを読むふりをして、問題を解いている鉛筆を握る黒崎の手を見つめる。

 大きな武骨な手。
 僕の手より、日に焼けた色をして、少し大きい。比べたことはないけど、僕より大きく見える。

「あ、これ解けそう。ついでにこのページの問題全部やっていい?」
「うん」

 十時になったら、いつも黒崎が帰る時間だ。
 あんなに食べてしまったけれど、家にはご飯があるはずなのに、大丈夫かな。

 雷の音が、遠くの方で聞こえる。

 黒崎は集中力があるから、問題に集中してて、雷の音に気付いていないのだろう。遠くで鳴っている雷の音が、黒崎の耳には届きませんように。
 せっかくだからもっと集中して、時間にも気付かないでいてくれないだろうか。そうすれば、もう少し一緒にいることができるのに。
 雨が降りそうだから、降る前に帰るって思わないほどに集中しててくれるといいのに。

 早く雨雲が来てくれないかな。

 できれば十時前までに。

 黒崎が帰る時間になったら、土砂降りですように。
 そうすれば、黒崎はもう少し、雨が止むまで帰らない。
 きっと傘なんかもってない。
 雨が降って、傘貸してって言われたら貸すけど、そうしたら雨足が弱まるまで待ってればって言おう。
 もっと近くに雨雲が来て、もっと激しく雷が鳴ってたら、危ないからまだうちに居ろって言えるのに。

 早く、降ってくれないかな。早く雨雲が僕達の上に来てくれないだろうか……十時になってしまう。

 雨が降るまで、黒崎が十時になるって気付かないで。
 問題数、足りなかったかな、そろそろ全部解き終わってしまうのに……。


 雨はまだ降らない。
 余計な時には無遠慮に降るくせに、なんで必要な時には降らないんだろう。早く、土砂降りになれ。

 調子よく数字をノートに書いていた黒崎の手が止まった。
 さっきと同じ問題だから、すぐに解るはずだけど。


 問題文に無駄なアンダーラインを引いたり、前のページに戻ったり……さっきの解説じゃ解らなかったかな。

 雷は近づいて来ているけど……まだ僕たちの頭上には来ていない。


 九時五十五分。

 雨はまだ降らない。

 もう少し。


「なあ石田」
「何?」

 さっきまで、見ていた黒崎の手が、僕の手を握った。

「黒崎?」
「あ、いや、あの……図々しいかもしんねえけど」

 僕は、僕の手を握る黒崎の手を見てから、黒崎の顔を見た。

 黒崎の顔は……黒崎のくせに、黒崎のいつもの顔なのに、不機嫌そうで怖い顔をしているのに……耳まで真っ赤に染まっていた。



「あのさ、雨、降りそうだから、今日泊まっていい?」

 その顔につられてしまったようで、僕は耳まで熱くなった。





「……いいよ」






20120518
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