安寧の強襲  






 僕は起きた。
 ああ、朝だなと頭の隅の方で思う。
 世界はほんのりと、たくさんの水に黒のインクを溶かしたような色をして、でももうカーテンの隙間から、覗く色は限りなく白だ
 朝が来てしまったらしい。

 普段なら忌々しい事実なのに、どうしたんだろう……不思議な、気分だ。嫌じゃない。不快さがない。寧ろ快活なほどに軽くて、潔いほどの柔らかさが気持ちが良いと、朝に感じる。

 ああ、覚醒しているからだ。目が覚めている。
 頭が動く。自分が考えようとしている事を自由に考えることができる程度には、覚醒している……。

 夢を……見ていない。だからだ。目蓋を閉じても赤くない。

 毎日僕が繰り返し僕の夢の中で殺していた祖父を、僕は、今日は殺さずに済んでいた……。

 眠りは深淵で安寧な黒をしていたように思う。


 いつもは、毎日のようにあの時の夢を僕は繰り返し、夢の中で祖父を毎日殺し、ぼんやりと夢だと……でも、現実だと理解し、動けないままに朝が来る。
 頭は朝だと自覚していても、思うように動かない寝汗で冷たくなった身体を叱咤しつつ、熱いシャワーを浴びることで、どうにか覚醒する。

 ここ最近は、それが、いつもだったのに……


 しばらくは、大丈夫だったのに……あいつに、会ったからだ。そのくらいは、解る。

 父に、会った。だからだろう。
 僕が負けて、病院なんかに運ばれてしまったため、あいつに執刀された。
 身体は後遺症もなく、傷跡すら残らないほどに完治をしていても、その事に悔しさは覚えたけれど気にしたつもりはないけれど……それでも心は勝手に震えていたのだろう。

 僕が、弱いから負けた。僕が滅却師としての能力が低いから負けた。だから、僕は滅却師じゃない。

 あいつの目は、わざわざ口にしなくてもそう言っていた。

 僕が弱いから、僕が滅却師として名乗れるほどの能力がないから、祖父は死んだのだと……。

 解っているのに。
 解りたくもなくて、嫌で、心の中に押し込めて……。

 だから僕は、毎晩祖父の死を繰り返し見て、僕が無力だという罪悪は、夢で繰り返し祖父を殺していた。

 でも、


 今日は……。

 久しぶりに訪れた眠りは、とても心地好い目覚めを僕にもたらした。
 身体も暖かくて、寝汗もかいていない。そうするような夢など見なかった。これならシャワーを浴びないでも動くことができそうだ。


 よかった。

 ああ、そうだ、それに、今日は休日じゃないか。
 よかった。暖かい場所を動かないでいい。ここに居ても良い、僕はまだこの温度を手放さずに居られる。もう少しでいい、暖かいだけの何もない眠りが欲しい。

 眠るのは、夢を見るから嫌いだ。
 でも夢を見ないなら、暖かい布団の中は好き。布団を頭まで被り、狭い世界に自分を閉じ込めて温もりにくるまれるのは好き。暖かいから、好き。

 今日は休みだし、今日の天気が悪いわけでないなら、まだ薄暗い。きっと早い時間だ。

 だから、もう少しだけ……このまま、ここに……



 そう、思って、寝心地の良い体勢を探そうと身体を少しだけ動かして、



 暖かくて大きな背中に額を擦り付けて、その大きな背中の温もりを味わうために回した腕に力をこめて……。







 僕は、完全に、覚醒した。


「……っ!」

 今まで、どうやら僕は、どうにも寝ていたようだ。

 暖かいと感じた布団の温度は、僕が自力で自家発電したものでなかった……事が、解った……けど!

「な、なななななっん、で」

 ちょっと、待て。

 何で、ここに僕以外の人間が居るんだっ?
 ここは、僕の部屋だ。僕のベッドだ。僕の布団で、これは誰だ!

 いや、この頭で解る。
 黒崎だ。
 こんな能天気な色をしていたら、嫌でも解る。解りたくなくても解る!

 何で……いや、確かに、昨日は黒崎が来た。

 そうだ、黒崎が来たんだ。

 黒崎のバイトが終わった後に『一昨日の数学教えろm(__)m』ってメールが来ていたらしいが、ちょうど風呂に入っていたから、そのメールを見るのが遅れてしまった。
 それに気付かなかったとしても、玄関のチャイムが鳴った時に、ようやく黒崎の霊圧を把握したのは、僕の落ち度だ。

「もっと早く連絡を寄越せ」

 先日の雨の日に部屋に干したからだろう、持ってきた着替えが生乾きの臭いがして、幸いにも一人暮らしだ、部屋で呑気に着替えている最中に、黒崎が来た。

「悪いって。バイトが早く終わったからさ。出てくるときにメールしたんだけど」

 黒崎は、僕の状態には気が付いていないようだった。
 その点では、黒崎が黒崎でよかったと思わざるをえない。こいつに僕の状態など悟られてたまるかと思う感情は、本当に黒崎が黒崎でよかったと思う。黒崎なんかが気付くはずなんかないんだ。

 最近、夢見が悪く寝付きが悪いせいで、慢性的に集中力が低下している。散漫な僕の意識は、黒崎の馬鹿みたいな霊圧すら、家の前に来てようやく気づいたほどだ。
 ひどい、状態だった。それを自覚している。
 滅却師は、自らの霊圧で戦うわけではない。霊子を自らの力に還元する能力だ。黒崎のように勝手に時分から霊圧を大放出しているのではなく、滅却師は自分の集中力で周囲の霊子を具現化する能力だ。だから、集中力を欠いたこんな状態の僕では、弧雀を維持し続けていることすら消耗が激しい。
 酷い有様だと、自分でも自覚がある。

 どうにかしないとと、思っていても、理由まで解っているからこそ、どうにもならなかった。

 黒崎は、当たり前のように上がり込んで、コンビニの袋からペットボトルの炭酸飲料を飲みながら、教科書を広げた。
 僕は、来ても良いとも言っていない。上がってもいいとも言ってない。まして、勉強を教えてやるとも言ってないのに……。上がり込んでしまったからには、仕方がない。僕も髪の毛をタオルで拭きながら、黒崎のノートを覗き込んだ。

「で?」
「だから、数学」
「何で?」
 何で君に教える必要があるんだ。前からの約束だったらまだしも、突然、こんな時間に押し掛けてきて、非常識にも程があるだろう?

「石田、ここ、解んねえの? 問3」
「誰に言っているんだ? 高校の教科書レベル程度で僕が解らない問題があるはずがないだろう?」
「んじゃ問3は」
「ここは……」

 黒崎が僕の説明を、ようやくその能天気な頭で理解した時に、僕が何で説明をする羽目になったかで頭を抱えかけたが、それでも黒崎がノートの上の数式に導き出した解答が正解しているのを見て、僕は少しだけ嬉しくなってしまった。

 黒崎は問題を解きながら、近くにあったビニール袋を引き寄せる。コンビニで買ってきたパンを食べようとしていた。焼きそばパンとか、色々入っていたけど……。
「お腹空いたの?」
「ん? まあな。夕飯まだ食ってねえし」
 もう、遅いのに……お腹、減ってるなら……
「僕の残りでいいなら、あるけど食べる? 冷蔵庫片付けたかったから、少し作りすぎてしまったんだけれど……煮物、だけど……」
 黒崎に食べてもらいたいとか、そういう事を思ったわけではなく、本当に少し多く作りすぎただけだ……味は悪くはないと思うけれど。
「なんの煮物?」
 一人分だし、冷蔵庫の食材を片付けるつもりで作ったものだから、煮物の名前なんてない。
「鶏肉と白菜の煮物。要らないなら……」
「さんきゅー! 食う!」
「……そう」
 僕は……今、なんでちょっと安心したんだろう。別に、要らないって言われたって、自分で食べればいいだけなのに……。ただ、本当に作りすぎてしまっただけなんだ。少し汁気を多く煮含めてしまったので、お弁当には向かないし、だから、そういうつもりでしかない……はずなんだけれど。
「じゃ、これやるよ」
 黒崎は僕にコンビニの袋ごとくれたのは、どう喜んでいいのかは解らないけれど……
「………ありがとう」
 素直に受け取っておこうと思う。中には調理パンが四つ……賞味期限は、明日だ。明日の昼ご飯が浮いたことに感謝しよう。昼ごはんは三つでいいから、一つは朝ごはんになる。


「問3は正解だ。じゃあ、ご飯温めてくるから、次はこれとこれ、解いてみて。応用だけど、同じ公式を使えば良いだけだから」
「おう」

 うん。

 何やってんだろう。僕は。

 冷蔵庫に入れていた煮物をレンジで温めながら、僕は自問自答を繰り返す。何をやっているんだろう、僕は。
 黒崎が押しかけてきたからって、邪魔だから帰れって言えばよかったのに……本当に最近体調が思わしくないんだ。寝られるとも思わないけれど、でも早く布団に入りたいと……少しでも回復しないといけないのに。
 問3を教えてと言われた。
 僕はそれは教えた。それ以上は要求されていない。だから、そこで終わりだって、もう遅いから帰ってくれって、そう言えばよかったのに……。

 もっと、黒崎に勉強を教えようとしているのは何でだろう。
 その上、ご飯まで……早く、帰ってくれって、そう思っているはずなのに……眠い。眠いからだろうか、よく、解らない。考えがまとまらない。
 温めたご飯を脇に置いて、黒崎がノートに数式を書きながら、僕はそれを目で追う。ああ、そうか、黒崎はそこを理解してないんだ……でも、一度全部解いてから教えた方がいいのかな、それとも今言った方がいいのかな、とかぼんやりと思う。

 最近、こうやって黒崎は時々僕の家に来るようになった。今回も携帯には確かにメールが入っていたけれど、こんなふうに、時々来て、だいたい勉強教えてくれとか、この前は雨が降ってきて僕の家が近かったって。あと僕が僕が晩御飯を食べていた時に襲来して一緒に食べてから、それから食材を持ってきて作ってくれって言われたこともある。明太子のパスタは絶賛された。たらこを甘く煮含めたものも美味しいって言ってくれた。煮物が好物のようだけど、炒め物も好きなようだし……結局何が好きなのかはわからない。けど、僕が黒崎の好物を把握している必要なんかどこにもないのに。

 黒崎の視線は真剣に教科書に注がれているから、僕は久しぶりにこの目付きの悪い黒崎の愛想のない顔をゆっくり観察する。
 見るからに、いわゆる不良みたいな、怖い顔つき。本当は、不良どころじゃなく、死神だ。優しい必要なんかない。
 顔つきは整っているけれど、目つきが悪い分損をしているなって、思う。本当は優しいのに。優しいからだろうか、
 不思議なことがある。
 こんなに凶悪そうな顔をしているのに、馬鹿みたいに垂れ流し放題の霊圧は、温度なんか無いはずなのに、不思議なんだ。

 暖かいって、思う。
 死神の霊絡は赤いけれど、可視化せずにただ感じるだけならば、日溜まりのような、そんな匂いがする……不思議な、霊圧。

「できた」
「そう。見せて?」
 本当に、黒崎は変な奴だと再確認している。

「じゃあ、採点してるから……食べ終わったら間違えてたところ、教えるよ」
「さんきゅ」
 黒崎は一度ご飯に向かって合掌してから、僕の作った料理を食べ始めたから、僕も黒崎が今解いた問題を採点する……やっぱり、ここが解っていないんだって、思いながら……

「石田」
「何?」
「煮物すげえ美味い」
「そう」
「俺あとあれ好き。大根の煮物。あ、でもほうれん草の炒めた奴も美味かったな」
「……そう」
「今度豚肉買ってくるからさ、生姜焼き作ってくれよ」
「いいけど……」
 普通に作っただけだけど、美味しいって言われるのは、悪くないって思う。ご飯を飲み物のような勢いで食べていて、わざわざ言わなくてもそれが美味しいって思ってくれてるのは解るし。
 今度、作れって、そう言う意味だろうか。つまり、また来たいって言ってるのだろうか……何で、だろう。
「あとコンの足がちょっとほつれちまったから、直せる?」
「見てみないことには解らないけど、ほつれたぐらいだったら大丈夫だと思う」
「じゃ、今度持ってくんな」

 また、来るって……黒崎がそう言った。

 おかしな奴だから、どうにも僕の調子が狂う。
 僕の家、別に面白いことなんてないのに。
 家でだってご飯は食べられるだろうし、勉強だって、確かに僕の方がずっと頭はいいけれど、黒崎だって悪くはない。参考書だけだって十分理解できるはずなのに、わざわざ僕の家に来る。

 変な奴。怖い顔をしてるくせに、ご飯を食べてる顔は、ちょっと幸せそうに緩んでいる……知らない人が見たら、やっぱり怖い顔をしていると思うけれど……変な奴。

 黒崎が変な奴だから、僕の調子が狂ってしまうんだ。
 だって、有り得ない。

 意識が緩やかに明滅するなんて……ありえない。

「あのさ、明日休みだし、今日、妹の友達が泊まりに来てるみたいだから、ちょっと家じゃ勉強できそうもないんだ」

 人がいるのに。黒崎は、他人なのに……。
 誰かがいる場所で、寝れるはずなんか無いのに。戦いに負けて、死を覚悟して意識がなくなったと言う場合以外で、僕が僕を手放そうとしているなんて……なんで。

「そう、御愁傷様」

 黒崎の霊圧は、ある意味、凶器だ。
 優しくて、強くて、暖かいから、強制的に僕の無自覚へと介入してくる。ちゃんと僕の周囲に張り巡らせていた警戒の糸を踏みつけて僕の中に強盗のように押し入ってきて、僕に脅しをかける。

 安心しろって。

 そう、僕に、脅迫する。

「もうちょっと勉強してっていい? テスト近いし、英語もちょっと解んねえとこあってさ」

 だから……。

「………」

「石田?」

 僕は、今採点したところで、黒崎が公式の理解できてないところを、教えてあげなきゃって、思うのに……。


「ちょ、石田。寝てんのかよ」
「……」
 うるさい。だったら、その霊圧をどうにかしろ。

「石田? マジで寝てんの?」
「……」
 うるさい。寝てない。眠くて返事もできないだけだ。

 ずっと、寝られなかったのに……今日だって、眠れないまま朝になるのかもしれないって。
 眠りたいのに、寝ればあの夢が僕を襲ってしまうから……寝るのが怖いから、寝たくないけれど少しでも寝なきゃって……


 僕の頭はかくりとテーブルに落ちた。もう、動けない。


「ったく……最近、ずっと顔色悪かったじゃねえか」
「……」
 黒崎に、気がつかれているとは意外だった。ここのところ虚も出ていないし、僕が能力を使うこともなかった、日常では違和感が無い程度には過ごせていたはずなのに……。

「俺がチャイム鳴らすまで気付かねえし」
「………」
 そんな事まで黒崎なんかに気付かれるほど、僕の調子が悪かったのだろうか。

「たく、こんな所で寝たら、ホントに風邪ひくぞ」
「……」
 僕の体調が良くないって知ってたなら、遠慮くらいしろよ。


「ほら、石田。ベッド行けよ」
「……」
 駄目だ、身体が、動かない。意識の遠いところで黒崎が言ってる言葉は間違いじゃないと認識できる程度だ。

 眠い。すごく、眠い……眠くて。


「仕方ねえな」


 黒崎が、僕の身体を抱き上げたのは、なんとなく覚えている。












 そこから、僕の記憶は完全に無い。

 そして、今……。




 黒崎が、寝ている。

 僕の、ベッドで、僕の隣で!



 ……って!



「君は! 何で帰らなかったんだ!」
「……あぁ?」

 僕が身体を全力で揺さぶると黒崎が、最高に不機嫌そうな寝起きを僕に見せてくれた。

「…………」
 悔しいけど一瞬、この僕でもたじろいで、謝りかけた……けど、僕は悪くない! 悪いはずがない!

「……石田?」
「……」
 黒崎は、寝てんだか起きてんだか解らない状態で、目蓋はほとんど閉じられていたけれど、伸ばされた手は、確実に僕に向かってきていて……。

 壁と黒崎の隙間に挟まれるようにして寝ていた僕に当然だけれど逃げ場なんかなくて、だから、呆気なく捕まる。

 黒崎の腕に僕は捕捉され、そのまま連行されて、黒崎の胸に顔を埋めるようにして拘束された。

「な……っ」

 なんだ、この、体勢は……。

「……石田、寒くねえ?」

 そういいながら、僕の頭まで布団に覆われてしまい、僕から朝が遮断された。

「……大丈夫か?」
「……黒崎?」

 何がだ! 大丈夫かって、君の方だろう? 何を考えているんだ、いくら半分寝ているからといっても、その頭は大丈夫か?

「石田、夜中にすげえ、うなされてたけど……」

「あ……そう、なのか?」



「悪い、俺、離しちゃったんだな」

「……」




「ずっと、朝まで抱き締めてやるつもりだったのに」




「………」


「…………」



 ………………寝た、らしい。どうやら。

 僕の頭の上から安定した寝息が聞こえる。僕の顔の皮膚が感じる黒崎の鼓動も落ち着いていて……僕とは、違って……。

 どうやら、この体勢のまま、こんな状態のまま、黒崎は眠ってしまったらしい!

 苦しいって! 寝ていて加減ができてないのか、布団の中のただでさえ薄い酸素を取り込みたいのに、馬鹿力な腕が僕の肺を圧迫する。

 苦しくて、……それでも、暖かい。


 悔しいって、思った。
 黒崎は他人だ、接点なんてクラスが同じ程度だ。他には何もない。だって、僕じゃない人間なのに、黒崎は……他人の前で、寝るだなんて、そんな事はできないはずなのに。


 暖かくて……目覚めた時も、暖かかったからだろうか、覚醒に抵抗がなかった。夢ではなく現実だと知る事に戸惑わなかった。




 何でだろう……。




 黒崎は寝ているはずなのに、黒崎のゆっくりとした優しい鼓動と同じリズムで僕の背を叩く。寝ているくせに。




「安心しろ」





 そんな脅迫……。



 抵抗したはずなのに……落ちてくる目蓋の優しい眠りに、僕は呆気なく屈してしまったんだ。












20130419:6700
初出130410:4200
「朝すっきり目が覚めたのは隣で寝てたから」ネタ、一雨Ver.でした。