甘い、匂いに耐えきれず僕は思わず、口元に手を置いた。
くらくらと、目眩が酷い。甘すぎて、苦しい。
渇きすぎて……そこには、とても美味しそうな匂いがある……手を伸ばす事を抑える気力だけで、僕は精一杯で、とても虚に集中できない。攻撃が僕のそばをかすめた。
「石田、変わる。俺が出る」
「………」
それでも、手出し無用という意味合い込めて、黒崎を睨み付けた。
この虚は僕の敵だ。このくらいで、僕は負けるつもりはない。
君は引っ込んでいればいい、さっさと身体を連れて帰ってくれ。そうすれば良いだけだ。君が近くに居るから辛いんだよ。少し手間取ってしまったけれど、僕はこんな低級な虚なんかに負けるはずがない。
君が来なければ、黒崎さえ近くに居なければ、僕が負けるはずなんてないんだ。
「石田。お前、顔色悪いぞ」
「生まれつきだ」
きっと月明かりが青白いせいだ。夜の街灯も肌色を浅く見せるんだ。だから、だ。きっとそれだけ。甘い匂いが僕の意識を酩酊させているだけで、僕は何も変わらない。
それに僕が顔色悪いって言われても、もそも君なんて既に霊体じゃないか。君が言う事じゃない。
「違うだろ? お前、今日一日具合悪そうだったじゃねえか」
「………」
今日は、確かに苦しかった。
ずっと下を向いて、結局席から一度も立たなかった。下校まで、なんとか僕の気力は持ちこたえてくれたけれど……明日は、満月。
きっと、今日より辛い。
「いいから、退いてろ。石田は下がって俺の身体見てろ」
「要求が多い」
いちいち黒崎の指図なんて受けるつもりはなかったけれど、それでも実際その方がいいのは解っている。僕が滅却するよりも黒崎が斬魄刀で虚を帰した方がいい。僕は殺すことしかできないから、黒崎が来たんだ。魂葬ができればそっちの方がいい。そのくらいは僕だってわかっている。
ただ、黒崎の言った言葉に従いたくなかった。それだけだ。
われた通りに、交替して僕は後退。
確かに……実際、キツい。
さっきまでは大丈夫だったのに……さっきまでは戦えたんだ。満月が近いから、ちょっといつもより喉が乾いているような気がしただけで、黒崎さえ来なければ、僕は戦えた。
黒崎が来てから、おかしくなった。足元がふらつく……世界が、歪んでいる。
黒崎の身体から立ち上る匂いが……僕の神経を鈍化させている。
……黒崎の、せいだ。
だから……よろけたふりをしながら後ろの黒崎の死体を足で蹴飛ばした。
「てめ、大事に扱えよ」
「君はちゃんと前見てろよ。攻撃を受けても僕は助けないから」
僕が八つ当たりする所なんかいちいち見てなくていいのに。
黒崎が虚に斬りかかる。のを僕は、黒崎の身体を背後にして見ていた。盾にされていた整も、黒崎が来て動揺したことで、うまく逃がせた。もう、何の問題もない。殺してもいいなら、僕でもいいくらいだ。でも、黒崎がいるんだから、黒崎に任せてしまえばいい。実際は虚の退治なんて死神の仕事だ。
黒崎は問題無いだろう。この程度の虚に負けることなんかないはずだ。力の差は歴然だ。僕が手を貸してやる必要もない。
黒崎は、虚が逃げ出さないように間を詰めていた。
距離を詰めて、一撃で仕留める気だろう。
何も、問題はないはずだ。もう、僕も興味を持てない。
黒崎の身体を保護してやる必要もないくらい……。
……甘い、匂い。がする。
足元に転がる、黒崎の身体から。
何だろう、この逆らいがたい匂い。
この感覚。
僕の全部が支配されるような気がしてしまう。
我慢、できないくらい、強くて……くらくらする。
黒崎は大丈夫だ。 何かなければ、すぐに魂葬まで終わる。僕が手助けする必要も余地も義理もない。
ほら……黒崎が斬魄刀を強く握り、大き振り上げて……一閃。
虚が、黒崎の刀に半分になって消失。
ちゃんと確認した。虚は消えた。
もう、大丈夫だよな……いいよね。
見てなくていい。
そもそも、黒崎が先に着いていれば、僕は来なくても良かったんだ。
もう、滅却師としての僕の義務は無い。もともと、死神の仕事だ。死神が有能なら僕がでしゃばる必要なんてないんだ。もう、僕は何もする必要がない。
だから、少しくらいなら、確かめていいよね……。
確かめる、だけだ。
本当にこの匂いが黒崎からなのか。黒崎の匂いだって、本能的に知っているけど、確かめる、だけ。
膝をついて黒崎の身体に触る。
まだ暖かい。黒崎の魂が抜けたばかりの、温かい身体。
だけど脈動もない。脱け殻。これは、ただの黒崎の死体だ。
それでも立ち上る、甘い甘い香りがする。焼きたての砂糖菓子よりも、甘い……なんて表現すればいいのだろう。もっと濃くて。別に僕は甘党じゃないのに。甘くて……頭の芯を痺れさせるような、そんな甘い匂い。
黒崎の身体に触る。
やっぱり匂いは黒崎からだ。そんなことは気付いていたけれど、教室には僕と黒崎を除いても四十人近い他の生徒もいるんだ。黒崎の匂いだって思っていたけれど……やっぱり、そうだった。
何で……こんなに、黒崎は甘い匂いをしているのだろう……。
満月が、近いせいだ。
本能的に、そう思う。
満月だと、何で、黒崎は甘い匂いを漂わせるのだろうか。
昼間、教室で感じた。
今日、ずっと在った。先月も気付いていた。
とても、甘い匂い。
香水なんかじゃない。そのくらいは解る。
香りにはとりわけ敏感な方じゃないと思うのに、それでもこの匂いには、僕は逆らえない。
黒崎の身体を抱きかかえる。
ぐったりとして重い。それでも、魂が抜けたばかりで、まだ暖かい。
黒崎の匂いか、やっぱり。
やっぱり、だなんて、何の言い訳だろう、僕は知っていた、この香りが黒崎のものだって。
肌の覗く首筋から立ち上るように。
満月のになると、黒崎の匂いが強くなるんじゃなくて、僕の嗅覚が変わるんだって、理解していた。
黒崎が満月になると強い匂いを発するのではなくて、いつも黒崎はこの香りをしていて、満月になると僕はそれを感知するようになるんだ。
知っていた。
知りたくなかったけど。
……なんて、匂いだろう。
逆らえない。もっと匂いを感じたくて。
顔を寄せる……この匂いを、もっと、確かめたい。世界に拡散させず、空気により中和しないで、ただ僕の中に入れてしまいたい。
そんな……甘い、甘い香り。
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20111006
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