「よお」
声をかけられたのは、僕があくびを噛み殺すことも出来ずに、口を大きく開きかけた時だった。左手は鞄を持っていたし、右手はちょうど下駄箱を開きかけた時で両手がふさがっていたために、口を隠すこともしていなかったから、少し驚いた。
昨晩は、あれから帰ってシャワーを浴びてすぐに布団に入ったものの、なかなか寝付けず、ようやく寝たのはカーテンが空の明るさを伝えられるような時間で……。
もともと朝があまり得意ではないから、一時間半ほど用意に時間がかかるのだが、さすがに今日は起きれず。
慌てたり急ぐのが嫌いな僕は、いつもは余裕をもって登校しているが、今日はギリギリだ。少し走ったくらいだ。
おかげで、朝一で、下駄箱で鉢合わせしてしまった。
僕の睡眠不足の元凶と。
黒崎の事を思い出すだけで、心臓が早くなる。まあ、きっとこれも一過性のものだろう。
さすがに昨日、あんな事があったばかりだ。仕方が無い。
「……お早う」
なるべく黒崎を見ないように下を向いて、挨拶をした。
気まずい……。
何だか、本当に気まずい。
黒崎が昨晩の事を持ち出さないでくれ、と何処かにいるかもしれない神様に、心から祈った。
このまま黒崎が、昨晩の事を言い出さないなら、僕は逃げる。さっさと教室に行かなくては、今日は日直なんだ。黒崎なんかに構ってる必然性も必要性も無い。それに、学校以外では昨晩のように会ったりする事もあるけど、実際は、不良のレッテル貼られてるような黒崎と、優等生という地位を築き上げている僕とじゃ、接点も無いし、話も合わない。だから下駄箱で会ったって、別に話す事なんかない。
黒崎みたいに馬鹿みたいな強さの霊圧垂れ流していれば、オレンジの頭も手伝って、目立つんだ。一般の、霊力を持たない人だって、黒崎の霊圧の前には、存在感として感じることもあるだろうし。
僕は、霊圧を限界まで抑えて生きてるんだ。目立たないようにしているんだ。
君と話してたら、目立つだろう?
だから、嫌なんだ。
だから、僕は先に行こう。
もう話はおしまいだ。朝の挨拶もした。礼儀は十分だ。
頼むから、昨晩の事は持ち出さないでくれ! 僕だってそれなりに気にはしているんだ。でも、二度と思い出したくないから、謝られたくもない。忘れさせて欲しいんだ。
「石田……その、昨日」
それでも、……僕の祈りは届かなかった。
黒崎は、どうやら昨日の話を持ち出そうとしている。さて、どんな対応をしたものか。
当然黒崎の反応にかかって来るわけだが……。
「悪かった」
謝られた。
謝られる心当たりは大いにある。
ちゃんと謝ってきたら、笑って許してやろうと思っていた。別に僕自身それほど心が狭い男だとは思っていない。
僕達は戦いの中に身を置くんだ。交通事故よりもはるかに死亡確率が高い世界にいるんだ。
時々はトチ狂っても仕方が無い。僕だって、ギリギリで戦って帰ってきた日は、意識が高ぶって眠れないことも良くある。
黒崎は、僕の傷を見て、少し錯乱気味になっただけだ。自分でも、あまり見たくない傷口だったし。
僕の予想通りだ。
一晩寝れば、黒崎も落ち着きを取り戻して、昨日の言った台詞を取り消したいと言うに決まっていると信じていたが、どうやらその通りだったようだ。
「いや、謝ってくれたならいいよ」
「……本当に悪かった」
「いいよ。気にしてない」
って程でもないけど、それなりのショックはあったけど。心臓が一瞬止まったかと思うぐらいにはびっくりしたけど。
一生に一度しかないファーストキスを奪われてしまったけれど。大して価値を置いていないとはいえ、黒崎にあげるような物でもなかったから、それなりになんだか悔しいけれど……まあ接触事故だと思うしかない。犬に噛まれたと思うしかない。
気にしてないとは言っても、僕の中ではそれなりに、大恐慌だったのだけれど……
それでも僕の心臓のためにも、二度とこの話題には触れて欲しくない。
これで、無かった事にできるなら、それ以上はなにも望まない。
「でも……許してくれるか?」
黒崎が、それでもまだこの話題に食い下がっているのが、気に食わない。さっさと忘れたいんだよ。もうこの話題は終わりにしよう。
「気にしてないって言っただろう? そんなケツの穴の狭い男じゃないつもりだけど」
って、まあ、僕の言い方も言い方だったと思うけど。
いきなり、ぼんって、音が聞こえるぐらいに……黒崎の顔が赤くなった。
ゆでダコのモノマネ?
「……黒崎?」
僕は、今何をまずい事を言った? 確かに多少僕らしくもない、俗的な表現をしてしまったのだけれど……。
「あー…、いや、帰ってから、なかなか寝付けなくて、やり方をネットで調べたりしたんだけど……」
って、妙な前置きをしてから黒崎が耳打ちした内容に……僕は黒崎とは逆に、真っ青になった……。
……知らない。
僕は、何も知らないっ! 何も聞いてない!
男同士のセックスで、何処を使うかだなんて、知らないっ!
「でも、いきなりキスなんかしちまって、本当に悪かった」
しかも謝ってたの、そっち?
「今度は、ちゃんと言ってからするから」
今度もあるのかっ!?
いや、なんか、何に突っ込んでいいのかすら、僕には…………わからずに、立ち尽くした。
日直だったのに。
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090528 |