雨はまだ降らない 前







「なあ、石田。ここは?」
「これは、三ページ前に出てた公式使うんだ」
「三ページまえ……ってこれ?」
「そう。じゃ、この問題、ちょっと応用だけど、やってみて」
「……ん」

 黒崎は時々僕の部屋に来て、勉強をして帰る。
 学校じゃ相変わらず挨拶する程度の仲だけど、時々、テストが近かったりすると僕に勉強を教わりに僕の家に来る。

 黒崎のバイトが早く終わった日、思い出したように、電話がかかってくる。

 親の面倒にして厄介な方針で僕はバイトも出来ず、時々出現する虚を浦原さんの要請で片付けに行ったり、浦原さんのお店の在庫の整理を手伝ったりする程度しか学校外では用事はない。
 生活費として毎月親から渡されるお金は、参考書代だとかなんだとかで、豪遊しない限りは毎月多少余る程度にはある。豪遊したくても、僕にはそんなにお金のかかる趣味はない。
 夜は部屋で借りてきた本を読んだり、部活の作品の続きをする程度だから、この時間に、今から言ってもいいかって黒崎からの電話に断る理由なんかない。それに、僕がやりたいことをやっていて、黒崎は時々思い出したように質問をして、特に邪魔にもならないから、断ったこともない。

 だいたいいつも、八時頃に来て、十時頃に帰る。

 ただ、いつも唐突すぎるんだ。

 前もって解ってたら、ちゃんとご飯だって用意できたのに。

「お腹、空いてない? 残り物だけど温めようか」
「んー…、バイト先でパン食ったから大丈夫
「そう? ならいいけど」
 ……残念。
 そろそろテストもあるし、今日は金曜日だ。金曜日は黒崎がバイトがあることが多くて、だから電話がかかってくる確率が高い。だから、金曜日は万が一のために、いつもより多めにオカズを作る。

 まだ、食べてもらったことはないけど。
 どうせ土曜日、朝からご飯を作るのが面倒だから、明日の朝ごはんになるから、多く作ってもいいんだけど。

 せっかく、今日の大根の煮物は美味しくできたのに。

「麦茶、おかわりいる?」
 黒崎に出した麦茶が空になってる。さっきから、三杯目だ。喉乾いてるのかな。

「もらう」
 教科書に目を向けたまま、僕の方に空のグラスをずいって押し出したから、冷蔵庫の中で冷えている麦茶を取りに行こうと立ち上がった時、

 黒崎のお腹が、大きな音を立てた。

「……」
「…………」

 聞かなかったふりをしてあげるのが優しさなんだろうけど……。
 黒崎は驚いたように自分のお腹を見てから、ちょっと苦笑しながら僕を見た。
 僕も同じような表情を返した。
 今の音、聞こえないふりはちょっと難しい。

 この時間にバイトが終わって、パンだけじゃ足りないのは、当然だ。僕だってきっとそのくらいじゃ、お腹がすいてしまう。

「少し多めに作っちゃったから、夕飯の残り物、温めてくるよ」
「でも、悪いって」
 悪くないよ。
 今日は黒崎が来るかもしれないって思って、君に食べてもらいたくて作ったんだ……そんなことは言えないけれど、でも本当は君のために作ったんだよ。
 ご飯も、炊きたて。

「帰ったら夕飯が作ってあるの?」
 だったら、家に帰ったら食べなきゃならないから、お腹を空かせておかなきゃならないのかもしれない。

「んー、まあ、そんなとこ」
「そっか」
 だったら、残念だけど、仕方ない。
 せっかく上手にできたのに。

「でも、お腹空いてるだろ? その問題が終わったら、少し休憩しよう。温めてくるよ」
 無理矢理だとは思った。僕が作ったご飯食べてもらいたいから、厚かましいかとも思ったけど。
 黒崎は家に帰って、家でご飯を食べる。
 図々しいかもしれないけど。

 せっかく上手にできたんだ。
 一口くらい食べてくれてもいいよね。

「あ、じゃあコンビニでなんか買ってくる。近いし」
 ……もしかして、僕の作ったご飯が心配なんだろうか。けっこう料理は得意な方なのに。

 僕の作った料理よりコンビニの方がいいとか……少しプライドが傷つく。

「……君は勉強してろ」
 黒崎の返事を聞かないで立ち上がって、冷蔵庫に入れておいた煮物をレンジで温める。
 炊きたてのご飯をよそって戻ると、黒崎がちょうど答えを書き終わった所だった。

 反対側に座った僕の方に教科書とノートを僕の方に引き寄せて、黒崎の前に、僕が作った力作の煮物を置いてやった。
 横に、揃えて箸を置く。

 これで、もう食べないとか無理だろ? テレビもついていないんだし、ノートも教科書も逆側だ。

 本当に美味くできたんだ。一口でもいいから、食べればいいのに。

「じゃあ、僕は採点しちゃうから。食べたいだけ食べて、後は明日の朝ごはんにするから、残してくれればいいから」
「あ……じゃ、イタダキマス」
「どうぞ」

 黒崎のノートを見て、採点してるふりをしながら、少し黒崎の様子を伺う。
 どうだろう。僕はうまく出来たって思うけど。
 味付けはどうかな。黒崎はもっと濃い味付けが好きだったりとか、苦手なものが入ってたりとかしないだろうか。僕は黒崎がいつもどんな料理を食べていてどんなものが好物なのか何も知らない。何も知らないけれど、でも、本当に美味しく出来たんだ。

 黒崎が箸を握って、ゆっくり大根を口に運ぶ様子を、つい、見守ってしまった。

「…………」
「あ、あの……どう?」
 一応、自信作、なんだけど。

「……」

 黒崎が口を動かしながら、煮物をじっと見つめてる。

「美味しくない? もしかして味付け薄いかな、苦手なもの入っていたりする?」

「あ、いや……なんか」

 どうしよう、口に合わなかったかな。僕は黒崎の表情をつい見守ってしまう。自分では美味くできたつもりだけれど、今まで誰かに自分が作ったものを食べてもらったことなんてないから、僕の作った料理がどのくらいのレベルなのかは全くわかっていない。
 美味しく出来たつもりだったけれど、自分では美味しいって思ったけれど、黒崎の口に合わなかったりしたら……。

「あ、あの、ごめん。美味しくないなら、食べなくてもいいよ。フリカケならあるし。フリカケ、持ってこようか? 梅干しの方がいい? 昆布も納豆もあるよ?」

「あ、いや……なんか、石田が作った飯を食ってんだって思って……」

「……そうだけど」

 確かに、僕が作ったけど……。

「黒崎……美味しくない?」
「……いや、美味い」
「本当?」

「すげえ美味い! なあ、これ全部食っちゃってもいい?」

 あ……よかった。

 黒崎が顔を上げて笑った。作り物の笑顔じゃなくて、いつも深く刻まれてる眉間の谷もなくて……笑ったら、なんか……僕まで嬉しくなってしまった。


「いいよ」
 君のために作ったんだ。

「あ……」
「……黒崎?」
「いや、笑った、よな、今」
「え? そう?」
 黒崎の笑顔につられてしまって、僕は同じ顔になっていたかもしれない。自分で自分の笑顔をわざわざ確認したことがないけれど、あまり変な顔をしていなければいいと思った。
 黒崎は箸を持ったまま、僕を見ていて……どうしたんだろうか。僕はそれほど変な顔をしていたのだろうか……あまり、黒崎に変な顔を見せたくないけれど。

「黒崎?」
「あ、いや……じゃ、食う」
「どうぞ」
 黒崎は、ちゃんと噛んで食べてるのか心配になるほど、ご飯は飲み物じゃないって言いたくなるほどの勢いで、ご飯を平らげ始めた。

 この食べ方なら、美味しくなかったけど気を使ったってわけじゃなさそうで……良かった。ちゃんと美味しいって思ってくれたんだ。

 良かった。

 黒崎が食べてるの見てるのが、楽しかった。

 けど……お茶碗じゃなくて、ご飯はどんぶりに入れるべきだったかもしれない。




20131016