いぬ 5







「あの、クソ帽子め」

 黒崎がぶつぶつと……怒っている。
 スーパーによって帰って、とりあえず夕ご飯までは時間がある。
 出した麦茶を一気に飲み干して、中の氷をガリガリと噛み砕いていた。

「違うだろ? 僕のせいだろ?」
「何でだよ」
「僕が持ってきたから……」
 僕が余計な事をしてしまったから……。
「いや、石田、ありがと。俺のためにって思ってくれたことが嬉しかったって」

 黒崎は、僕に微笑んでくれた。隣に座っていた僕の肩を抱き寄せるから、僕はそのまま黒崎のに体重を預ける……けど。

 さっきから、尻尾が……激しく床を打ちつけている。どうやら落ち着いていない模様。まだイライラしてるな……。こんな時に、僕はどうしていいのか良くわからない。


「石田……」

 黒崎が、僕の頬に手をかけて引き寄せる。ああ、キスされるんだろうなと思った。

 いつもはそのまま流されることが多い。キスをしたら黒崎は止まらないし、僕だって夢中になってしまえばそのまま流されてしまって、時間を忘れてしまう……とすると、ご飯が遅くなる。
 僕は何とかして黒崎の機嫌を戻したかった。とすれば、おいしいご飯を作ってあげるのが一番良いかなって思ったんだ。
 黒崎がこんなに機嫌が悪いのは、僕のせいだとは思うけれど、知っていて興味本位で止めようとしなかった浦原さんも勿論悪いと思う。黒崎は全部浦原さんのせいだって事にしているようだから、その怒りの矛先が僕に向かっていないことを喜ぶべきなのだろうか、やはり。

 美味しいご飯を作ろう。
 なにしろ浦原さんから滅多に食べる事が出来ない牛肉を貰ったんだ。それで怒りも相殺されるんじゃないかなって。思うのは浅はかだろうか。

「石田……」
 僕の事を抱きしめている腕はいつも通りの力強さなのに……黒崎はひどく機嫌が悪い。
 でもそれにしても、黒崎の機嫌が悪い。たしかに僕に耳と尻尾が僕以外の人にだけ見えている状態だったら裸の王様と同じ事かもしれない。

 黒崎の唇が触れそうになったから、僕はそれを手で止めた。

「黒崎、まだ夕方じゃないか。こんな時間からだったら、夕飯作らないよ」
「大丈夫、キスだけだって」
 僕の腰を引き寄せてなおも顔を近づけてくる黒崎の顔を必死で押し退ける。
 このまま流されてしまっては、せっかく貰った牛肉が……。
 帰って来てから、ご飯にするお風呂にするそれとも僕にするかと言う質問は、相手が黒崎に限っては使用できない。順番は大事だ。
 黒崎とのセックスはもう馴れたけど、それでも疲れるのは仕方がない。黒崎が今までの霊圧と同じように体力も馬鹿みたいにあるから。僕も標準よりもだいぶ身体能力も体力もあるとは思うけど、黒崎とは比べられたくない。

 その黒崎のセックスに付き合うと、料理に腕を振るう気力まではなくなってしまう程度に疲労してしまうからだ。

「そう言ってそれで終わったためしはないだろ」
 僕もいい加減勉強してきた。キスだけで終わるはずがないんだ。
 この時間から始めると、だいたい終わるのは陽が沈んで暗くなったころになるだろう。そのまま僕は眠くなってしまって三十分くらい眠ってしまう。それからお風呂に入って……とか考えると、やはりつい近くのファミレスなんかにご厄介になることも多い。無駄な出費は避けたい。そうなると、疲れてしまった場合、お茶漬けでいいかとなってしまう事もある。僕だって久しぶりに牛肉を食べたい。

 それに……。

「な、石田」

 黒崎は、こんなに近い距離で真っ直ぐに僕を見て、すごく真剣な顔で僕を見るから、だから、僕は今まで断るなんて事を思い出せなくなってしまっていた。今まで頻繁に、黒崎にこうやって見つめられると、キスだけならって、そう思って流されて……結局止まらなくなってしまい、夕飯を作れなくなってしまっていた。


 が……今は、尻尾がぶんぶんと千切れそうな勢いで振れている! 犬を飼った事は無いけれど、これが嬉しい時の表現だってことぐらい僕だって知っている。どう見てもこれは、はしゃいでいるとしか言いようがないくらいの尻尾だ。
 怒ってたんじゃなかったのか、黒崎は!

 そんなになっているのに、何でキスだけで終わるだなんて信用できるんだ!


「駄目だって。それに、今日は台所の掃除をするって決めていたんだ」
「……そうだっけ?」
「そうだよ、言っただろ?」
「聞いてない」
「聞いてなかったんじゃないか?」
「だから、聞いてない」
「それは君のせいだろ? 僕にも予定があるんだ。君の都合ばかり押し付けないでくれ」

 言ってしまってから、今の言い方は少し冷たかったかもしれないと反省する。
 次は気をつけようって思って、謝ったことはなかったけれど……気をつけているつもりでも僕の性格上、どうにもならない部分がある。後で後悔することばかりだ。謝らなくてもいつもすぐに許してくれるから、きっとそれもいけないんだ。

 黒崎は、少し膨れた顔をした。僕が冷たい言い方をするとよくこの顔をする。

 僕の言動に怒ってもいいはずなのに。怒らないで我慢してくれてるのかなって、思ってた。それでも、機嫌は少しくらい悪くなるかもしれないけれど、僕に怒って言い返したりしない。
 こんなこと程度で喧嘩をするのは馬鹿らしいって思っているのだろうって、僕はそう思っていたんだ。だから僕は黒崎のその優しさにずっと甘えていて……


 けど……。


 耳が、伏せられている。

 尻尾も、さっきまでせわしなく動いていたのに、力無く、床に落ちている………


 のは、もしかして……。



「……あの、黒崎」
「何?」
「いや……」
 なんて、言ったらいいんだろう。
 僕は怒ったつもりはないけど……叱られてしょげている犬ってこんな感じじゃないのかな……いや、犬を飼ったことはないから、良くはわからないけど……。

 もしかして、今黒崎、落ち込んでたりするのかな?

 僕はそっと黒崎の耳に触れる。当たり前だけれど触れるわけじゃなくて、素通りして黒崎の頭に触ってしまう。意外と、柔らかな髪の毛は僕の指に絡んだ。

「石田?」
「……」
 耳が、擽ったそうにぷるりと揺れて……尻尾はまたせわしなく動き始める。
 僕は黒崎の頭をそのまま撫でてみる。

「何? 石田?」
 黒崎は驚いて僕を見た。それからちょっと困ったように笑いながら……でも、尻尾は全力で揺れていて……どうしよう、これ可愛い。

「黒崎、ごめんね。今日は台所の掃除しちゃいたいから、ちょっと待っててくれよ」
 両手で頭を撫でてるだけじゃ我慢が出来なくなってしまい、僕は黒崎を抱きしめた。
「ん? ああ……石田、どうした?」
 困惑した顔をしながらも、黒崎は嬉しそうだ……尻尾が。

「じゃ、後で。約束だぞ」
 黒崎は軽く微笑むと、僕の手を取ってちゅと軽く音を立ててキスをした。
 ………いつもなら、黒崎はなんでこうやってって……思う。こんなにカッコよく見えてしまうのは僕が黒崎に惚れた欲目が気合を入れて発揮されているせいだとは解っているけれど、何でこんなカッコいい事をするんだ。僕にこれ以上惚れられてどうするつもりなんだろうって、思っていた。

 僕が離れると黒崎の尻尾はすぐに大人しくなってしまい、耳が寝てしまう………ごめんね。でも僕は今日は台所の掃除をしたいんだ。

「なあ、もしかしてまだ、耳ついてんの俺?」
「あ……いや、うん」
 確かにもう見えないよって嘘をついてしまえば、黒崎の機嫌も少しは回復したのかもしれないけれど、それの方がいいのかもしれないけれど……。
 僕の視線は不自然に黒崎の頭の上に向けられてしまっていたことに気が付いたのだろう。

 こんなに可愛らしい物がついてるのに、そっちに目を向けないで居られるはずがない!
 さっきも、もうほとんど見えないって言ってみたけど、さっきよりも薄くなってきているけれど、僕の視線は黒崎の目じゃなくて頭の上につい向けられてしまった。
 尻尾もふさふさだし。背中でふわふわと揺れている。
 黒崎が解らないならいいじゃないか。僕は耳と尻尾の着いた黒崎をずっと見ていたいし………けど、とりあえず台所の掃除をして、終わったら夕飯を作り始めればそれでちょうどいい頃だろう。


 黒崎が休みの日に良く僕のうちにくるようになったから、黒崎の私物も増えているし、ここにくる前に雑誌を買ってきているようだ。一緒に居られるのは嬉しいけれど、僕にもやりたい事があるから、こんな時は自由にのんびりしてくれているといいなって思う。

 けど………。

 台所から、黒崎の背中を見る。いつもは何考えているんだろうって思っていた。
 一度訊いてみたいって思いながら聞いた事がなかった。
 上手に訊けなくて、やる事無いんだったら帰ればいいのにって言ったら機嫌を悪くされたことがあるから、それ以来言わないようにしている。本当に帰ってしまったら寂しいのは僕の方なんだし。

 黒崎は雑誌を読んでいるみたいだけれど、尻尾は床を掃除でもしているようにずっと揺れている。

 耳は、こっちに向けられている。さっきからずっと。



 仕方がない。気合を入れての掃除はまた今度にしよう。食器棚も一度全部出してから拭きたかったけれど、見た目は綺麗になったし。
「あれ? いい匂い」
 スープを作ってしまった。サラダも作って冷蔵庫に入れた。肉は下味を付けて焼くだけにした。

「夕まだ早くねえ?」
「ああ、温めればいいだけにしておこうかと思って」
 あと焼くぐらいなら、多少疲れていてもできるはずだ。

「で、台所の掃除も、夕飯の準備も終わったけど」
 黒崎は、どうする? そう、言ったら。黒崎の耳がピンって立ち上がって、突然勢いよく振られる。

 近付いたら、腕を掴まれて突然ベッドに押し付けられた。
「っ、何だよ。黒崎」
「悪い、痛かった?」
 痛いわけじゃない。驚いただけで。
 唇と頬と目蓋に降るキスは黒崎の怖い顔からは信じられないほど優しくて、僕の心臓はいつも爆発してしまいそうだったけれど。


 僕は、黒崎のことをどうやら少し誤解していたようだ。

「石田? 何か機嫌良い?」
「ああ。僕が思っている以上に君は僕の事が好きだって解ったからね」

 黒崎は何で僕なんかが好きなんだろうって、ずっとそう思っていた。
 今でも勿論それは不思議に思う部分だけれど……でも、僕と付き合っていて、黒崎は満足しているのかって不安だったから、そんな事を考えてしまっていたようだ。

 僕が思っているよりもずっと、黒崎は僕の事が好きらしい。

 だって、黒崎の尻尾は全力で揺れている……すごく可愛い。可愛くて、抱きしめたくなってしまうほど。


「何だよそれ」
「だから、機嫌がいいんだ」

 黒崎からのキスを受け入れながら、僕は笑顔がこぼれてしまう。



 やっぱり浦原さんにお願いして、もう少し貰おうかなとか、思っていることは秘密だ。





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