いぬ 3







「………変化ねえな」

「そう、時間かかるのかな」

 土曜日。黒崎も急なバイトは入らなかった。僕もいつも通り休み。

 昼過ぎに黒崎が来てご飯を食べ終わった後、浦原さんから貰った薬を黒崎に飲んで貰った。
 僕から見れば、少しだけ、黒崎に霊力が戻ったような気がするけれど……もともと馬鹿みたいな霊圧だった黒崎が、この程度で元に戻るはずがなかったんだ。

 全くなくなってしまった黒崎の霊力は、少し霊感がある人程度の霊圧は戻っているような気もしたけれど……でもほんの少しだ。怨念を残した霊に近付くと悪寒がする程度のものかもしれない。

「窓の外から見える電信柱の陰に、トレンチコートを着たおじさんの霊が居るんだけど、見える?」

 黒崎と一緒に窓の外を見てみる。
 少しでも見えると良いなって思ったんだけど……。

 黒崎は、頭を振った。

「なんか居そうな気配はするけど……てか、いつからそんな奴居るんだよ! 変質者じゃねえだろうな?」
「僕がその程度の違いわからないとでも思っているんじゃないだろうな」
「いや、だけど、黒いトレンチコート着て電信柱の影とか怪しさ全開じゃねえか! 整かもしんねえけど変質者じゃねえのか?」
 いや、まあ、そうだけれど……でもあの人は死んでいる人だ。黒崎に見えないのだから……。

 そうか。見えないのか。

「……ごめん」
 黒崎に、喜んでもらいたいって、思ったんだ。

「おい、何謝ってんだって。そりゃ、俺だって死神の力が戻ったらって考えないわけじゃねえけど、でも仕方ねえよ」
 結局、ぬか喜びさせただけの僕が、少し情けなかった。

「石田は俺のためにって思ってくれたんだろ」
 黒崎は、僕に笑顔をくれた……本当に、溜め息を付きたくなってしまう。なんで黒崎はこうかっこ良いんだろうか! 思わず跳ね上がった心拍数を気付かれないように深呼吸することで抑える。

「やっぱり、戻らないのか」
「残念だけどな。しゃーねえ」
 黒崎の霊力は、戻らないらしい。元々の器に対して、微弱すぎたのだろう。もし今の薬が三十本くらいあれば少しは違ったかもしれないけれど、あそこにあったのはこれだけだし……。

「そんな顔すんなよ、石田」
 黒崎は、優しく僕に笑った。

 僕だけに、こうやって優しい顔を見せてくれる。それがこんなに嬉しいのに、君は気付いているのか?

「黒崎……」
「そんな顔すんなよ。ありがとな」
 黒崎が僕の背を引き寄せたから、僕はそのまま黒崎の胸に顔を埋めた。

 黒崎は、どうしてこんなに僕の扱いを心得てるんだろう……あんまり人の意見なんて気にしないような奴だと思ってたのに……僕の心の変化を全部見抜いてるんじゃないだろうかって思うことがよくある。

 こうして、黒崎に触れていると、本当に落ち着くんだ。嬉しいって思って、気持ちが舞い上がるような気分がする。

 ずっと、こうしていたい。って、思ってしまうような……

「んじゃ、夕飯の買い物行くか? 買い出し行くって言ってただろ?」
「ああ、うん」
 もう少し、こうしていたかったけど……。

 もう、そんな時間か。

「俺が荷物持ちしてやっから、夕飯のメニューは俺が考えてもいい?」
「でも昨日浦原さんから牛肉貰っちゃった。500gぐらいあるんだけど」
「お、じゃあステーキとか」
「いいよ」
「すき焼きとかもできる?」
「できるけど、今の時期、鍋は熱くないか?」
「だったらビーフシチューもいいよな」
「いいね。じっくり煮込んで……」
「って、もしかして台所からしばらく離れらんなくなるとか……」
「そうなるかな」
「じゃ、ステーキで」
 黒崎のメニューの選択理由はよくわからなかったけれど、どっちでもいい。さすがに冷凍していたとしても僕一人では食べきれない。それに冷凍なんかしてしまったら、硬くなってしまう。もったいない。できる限り美味しいうちに食べたほうがいい。
 ステーキか。
 魚が好きだけれど、牛肉が嫌いなわけではない。むしろ好きだ。僕だって黒崎と比べたら少ないかもしれないけれど少食のつもりはない。牛肉は高いから最近ではずっと手が出なかっただけだ。
 だとすれば付け合わせは何がいいだろうか。ソースは醤油味で和風にしようか。大根おろしと一緒に。ステーキなんて食べるのは何年ぶりだろう。いや、三月半ば頃に、父と仕送りの件で話し合いをしなければならなかった時に行ったレストランで出た気がするけど……お店の味は良かったと思うけれど、話し合いだったはずなのに無言で、とてもまずい食事だったのを思い出したりしていたんだけど……。


「ほら、石田! 早く行こうぜ」
 楽しそうに笑う黒崎の笑顔を見て、自然と顔がほころんだ。
 その、視界の端で、ぱたぱたと動く気配がした。

「ちょっと待って。財布」

 玄関に行く黒崎の背中を見ると、ぱたぱたと……。

 一瞬、何の目の錯覚かと思った。
 疲れているのだろうか。
 昨日遅くまで細かい刺繍をしてしまった。そのせいだろうか。

 それとも、僕の願望か? もし願望だとしても、僕にそんなものがあったのかと自分でも驚くけれど。




「あのさ……黒崎? それ、何? って、訊いてもいい?」
「へ? 何が? それって、どれだ?」

「それ。わざと?」
「だから何が?」

「鏡、見てみろよ」

 玄関の靴箱の上に小さいけど鏡がついているから、そこに黒崎が行くようにお願いした。

 わざとで、そういう趣味なら別に、いいけど。僕も黒崎がそれで良いっていうならいいけど、いいけど、というよりも、どちらかと言えば僕もあまり大きな声では言えないけれど、そう言うの、好きだし……悪くないと、思う。可愛いよね。

 でも動いてたと思うんだけど……。


「ん?」
 黒崎が鏡をのぞき込む。
 僕がずっと一緒にいたのに、いつの間にそんな物をつけたんだ? 黒崎から目を離したほどに目を離したつもりはないんだけど……。

「わかんねえけど、何が?」

 黒崎は、鏡の前で首をかしげる。

 何がって、もしかして……黒崎は、見えていない、の、か?




「……頭と尻尾、どうしたんだ?」

「尻尾って……」



 ………目をこすってみたけれど、確かに黒崎のお尻から、ふさふさした尻尾が生えている。絶対に、尻尾以外の何者でもないふさふさのしっぽ!
 何度か瞬きしてみたり、他の場所を見てから黒崎を見直してみたりしたけれど、それでもやっぱり黒崎のお尻から、ふさふさしたオレンジ色の尻尾が、揺れてる。

 そして、黒崎の頭から、髪の毛と同じ色の、耳が……。



「耳と尻尾……みたいな気がするんだけど」

 気の、せいにしては、リアリティがありすぎる。

 黒崎は怪訝な顔をしながら、自分のお尻を触った。普通に触っている。黒崎の手はデニムの手触りなんだろう。


「触って、いいかい?」

「……いや、駄目だって言っても、何言ってんのかもわかんねえし」


 僕も触ってみる……質感は、確かに少しおぼつかない。黒崎を覆う微弱な霊圧と同じ程度の頼りなさだけど……。

 けど……確かに、耳と尻尾が……。


「わかんねえぞ?」

 さっきまで元気に振られていた尻尾は大人しくなり、耳も少し伏せられている。

 動いて居るよな……。

「黒崎は何でもないのか?」
「別になんも……」

 悪い薬じゃないみたいだ。浦原さんも毒じゃないって言ってた。もし、何か身体に悪影響が出るような劇薬だったら、浦原さんも僕が大金積んだところで渡してはくれなかっただろうし……

 きっと、大丈夫。


「じゃあ、別に大丈夫だよ」
「……あれか? 犬のパッケージだったから、今更副作用か? 霊圧を強くする薬だったんだろ?」
「でも、大丈夫だよ」
「でも、あのオッサンが作ったやつだろ?」

「でも、大丈夫だよ。可愛いし」

「……それ、大丈夫な理由じゃねえ」

 大丈夫……きっと。
 浦原さんが何か言おうとしてたのはこのことだったのか。でも、ただ、耳と尻尾が生える可能性があるって、言おうと思ったとか。でも大したことじゃないから、って……。

 毒じゃないって言ってたから、大丈夫だと思う……きっと、たぶん……もしかしたら。


「大丈夫だと思うから、浦原さんち、行こう」

 黒崎は、当然頷いた。

 耳は伏せられていて、尻尾は力なく少し揺れていた……どうしよう、可愛い。





20131002