困惑 02
「桂っ! 今日こそ縛に付いてもらうぞ!」 「幕府の狗が。今日もよく吠える」 相変わらず、土方は職務に忠実な口上を居丈高に吠える。部下が数人。この程度の手勢で俺を捕らえられると勘違いしているその思い上がりを、今日も叩き潰してやるつもりではあるが、少しだけ、分が悪いのは確かだ。 人数は問題ないが、屋根に逃げるための足場がない。 と、すると血路を開くために、多少なりとも剣を振るわなくてはならないかもしれない。そうすると相手の怪我は覚悟せねばなるまい。余裕がなくなれば殺してしまう可能性もあるが、出来れば避けたい事態だ。万が一殺すくらいならば一度、捕縛され、その後に逃げた方がいい……が、そんな面倒な事態は極力お断りなので、相手を見据えて、出方を伺う。 爆煙は、ひとつだけ。使いどころを誤れば役に立たない。 「ぬかせ、テロリストが! 神妙にしろ」 相変わらず、こういった場合のボキャブラリーは貧困らしい。何度となく聞いた台詞だが、きっとまた聞く羽目になるのだろう。 偉そうに、吠えて……いつもの……いつも通りの土方だ。俺はこの男を知っている。俺はこの男が俺を見る目を知っている。 間違っても柔らかな色をたたえたりしないことを、俺はよく知っているつもりだった。 先日は俺に優しいと勘違いしてしまいそうな微笑みを俺に向けていたというのに……同じ顔が出す表情だと到底思えない、思いたくない……思わなくていい。想う必要がない。あの男は自分が助けた女性に向けた笑顔だ。ここにいる、あの男の敵である俺とは、無関係だ。 そうだ。これは、ただの敵だ。 俺の志の道に転がる障害物だ。俺が進むためには邪魔なんだ。俺の行く手を阻んでいるんだ、排除対象でしかない。当たり前だ。 「うアァッ!」 掛け声と同時に一人目が動いたのを掛け声で知る。殺気の向きを確認し、俺は身体を少し逸らしてよける。俺が避けたせいで勢いが殺せないのか、自ら壁に突っ込んで行った。 二人目は俺に斬りかかってきたので、刀で攻撃をいなし、後頭部を柄で殴り沈める。 三人目も動いたので、攻撃を避けながら、足払いをかけ、倒れた鳩尾に踵を落とした。 続けざまに四人、五人と続くが、混戦になればこっちのものだった。この程度の奴らに、俺が遅れを取るはずがない。 俺を誰れだと思っている? 幕吏共の数が半数近くに減り、少しずつ疲弊の色が見えてきていた……頃合、だな。 何人か峰打ちで沈めた所で、俺は不意をついて、飛んだ。地面を蹴り跳躍する。 飛び上がり、隊士の肩を足場として借りる。隊士の男の肩に足をかけて 「っ!」 屋根の上に上がるための足場がなかっただけだ。無ければ作ればいい。そのための隙を狙っていただけだ。 「ではな」 そのまま、肩を踏み台として蹴上がり、そのまま飛ぶ。 家の軒に手が届いた。捕まり、勢いをつけて、屋根の上に着地した。 が、 その時に袖をひっかけた。 引っ張られたためか、懐にしまっていたものが、ぽろりと落ちた。 「あ……」 落ちたのは、匂袋……だ。 土方から、貰った。 高価なものではないが、その仄かな香りはとても気に入ったんだ。 女ではないのだし、匂袋など持ち歩く趣味は無いが、香りは気に入った。手のひらの中にそれを入れて、口元に手を置いて呼吸をすると、体中に柔らかな空気が入ってくる。 香は、少し照れたようなはにかんだ笑みが広がるようなふんわりとした香りは、吸い込むと穏やかな気分にさせてくれ、とてもくすぐったくなる、そんな匂いが、俺はとても気に入っていた……。 それだけだ。きっと、それだけの理由だ。 香りを吸い込むと、これを俺に渡した時の土方の笑顔が脳裏に浮かぶという効果も付随してはいたが……でも、本当に、これが気に入っていたから、それだけなんだ。 持ち歩くべきではなかった……さっさと、捨てるべきだったんだ。 捨てられないのであれば、しまっておけば良かったのに……。 落ちた匂い袋は、地に転がる。 俺は、咄嗟に、落ちた匂袋を追い、再び地面へ降りる。 見つかってしまう前に、それを回収しなくてはならない。誰にも見られないように、早く俺はそれを拾って、誰の目にもつかない場所に捨ててしまわなければ。 今はただ、これを、土方に見つからなければ、それで、それだけでいい! 正しい判断だったとは、思えない。 俺はそのまま逃げ切ればよかった。 もし、この匂い袋が土方に見つかったとしても、その事について糾弾できるほど状況が見えていない男ではないはずだ。匂い袋が見つかって、土方が俺を知ったとしても、そこまで馬鹿でも賢くもないはずだ。何も、言うことはできないはずだ。 見られて土方が俺を把握したとしても、それは捨てるべき過去だ、俺も、土方も。無かった事として処理できるはずだ。 だが、俺は、再び地に降りて……。 そうだ……また逃げればいい。この程度の奴等、倒せない相手ではない。 落ちた匂袋を、先に拾うことは出来た。 匂い袋を落としてから、拾うまでの時間は僅かだった。大丈夫だ。 拾い、駆け出した。 → 20130507 |