【memory】 |
06 外が明るい。障子は光を溜め込み拡散する柔らかさで朝を伝えた。それでもまだ暗い。陽は昇ってはいないだろう。鳥の鳴き声も聞こえた。何時だろうか。 ふうと息を吐いて見た天井には染みがある。馴染んだ模様だ。 これを見るのはこれが最後になるだろう。 これを……最後にしなくては。 外に出していたせいで指先が冷えてしまっていた。温まりたくて探して布団の中にあるぬくもりを探す。布団の中にもぐりこむと、全てがまどろみに包まれるような気がする。幸福な温度。この温度は、心の内にまで緩やかに伝道する。 「小太郎、起きたか?」 声がした。寄せた胸から頬を放し上を見ると、黒い瞳が俺を見ていた。 「起きてたのか?」 「いや?」 「起こしたのか」 十四郎は柔らかく微笑んだ。その微笑が俺だけに向けられているのが優越感でもあり、同時に胸が抉られるように痛んだ。この、微笑を誰にも譲りたくないなどと……、それはただの俺のエゴだ。 額に口付けられる。柔らかい感触に、それだけで身体中が溶かされてしまうような気がした。何も出来ずに、ただその優しさに包まれて居たくなる。それが、痛い。真綿の中で溺れ死ぬとしても、俺はここに居たいと思う。 駄目だ。 それでは、駄目なんだ。 駄目になる。俺も……十四郎も……。 「十四郎。喉が乾いた」 「……今、持ってきてやる」 頬から耳の後ろへ、俺の髪を梳いて、掴んだ髪の一房に口付けられた。神経など通っていないのに、不思議だ。髪の一房ですら、十四郎に触られるのは心地良い。爪の先でもほんの僅かな部分でも触れていたい。 十四郎は布団から出ようとしたのを、引き止めたくなった。俺から離れて行くなと我儘を言いたくなった。布団から出ていく十四郎の足首に触れた。気が付いた十四郎は俺の頭を柔らかく撫でて、台所へ向かう。 ………馬鹿らしい。 台所から、グラスを出している音がする。冷蔵庫に買い置きの茶があったはずだ。味はあまり好きではないが、今はこの乾いた喉を湿らせたい。 部屋を見回した。外はもう明るくなってきているので、部屋が見渡せる。 馴染んだ部屋だ。 隣の部屋は、使っていない。何もない部屋。物置と呼ぶほど物も置かれていない。掃除機と、客用の布団が一組。ろくに空気を入れ替えもしない。そろそろ一度掃除しなければ。 馴染んだ部屋。この二年で、だいぶ馴染んだ。 十四郎は基本的には屯所で寝泊りしているから、あまりこの部屋には帰ってこない。今まで借りているだけで、殆ど使われなかった部屋だ。 俺が居るから。俺と、会うために……この二年は頻繁にここに帰ってくるようになった。それ以外に殆ど必要のない部屋。また俺が居なくなればこの部屋は、誰が帰ってくるわけでもなく、ただ在るだけになるのだろう。 間取りは悪いが居心地がいいから、俺はこの部屋が好きだった。 十四郎が煙草の灰を落として作った畳の焦げ目も愛しく思える程度には、俺はこの部屋に馴染みすぎた。 今は何時だろう……人の目が無いうちでないと、出て行かれない。見つかってはまずい。誰にも知られてはいけない。 だから時間が、ない。 もう、俺達には時間がない。 無言で差し出されたグラスを受け取る。大きくないグラスに注がれた冷たい液体を一気に喉に流し込むと、胃の方まで冷えた温度が流れていくのが解った。 簡単な事だ。 一言で終る。 俺達の関係はその言葉と表裏一体の関係だった。どちらかが先に言い出すのか、ただ互いに待っていただけのようにも思える。 その言葉を言う為の仲だった。それは、知っていた。俺も十四郎も解っている。 別れよう…… たった、それだけの言葉。それだけなのに……。 初めの一文字を口に出す事すら、苦しくて、嗚咽に変わりそうになる。胸が潰されてしまう。痛くて苦しい。喋る為に吸い込む空気すら、針のように俺の心臓を刺す。 「小太郎? まだ飲むか?」 「いや、ありがとう」 グラスを渡すと、それを布団から遠い床の上に置いた。台所へは持って行かないらしい。 十四郎は布団の中に身を滑り込ませると、俺の腕を引っ張った。それに、任せる。布団を被るとすぐに十四郎が腕を回してきた。首の下にある腕と背に回された腕に潰されるほどの力を入れられて、身体中が十四郎にくっつく。 これが、好きだった。こうやって、抱きしめられて、十四郎の温もりを全身に受ける事が何よりも好きだった。 護られるような立場でもない。常に先導する身分だ。俺は、常に誰よりも前に居て、信じた先に歩みを進めていた。こんな……誰かに……十四郎が俺を護るように、とても大事にするから……。 十四郎と居る時は、俺は、ただ俺として在る事が出来た。このぬくもりに全てを預けられた。 「もう少し寝てろ。まだ時間、大丈夫だろ?」 「いやだ」 「我儘言うなって、最近寝てねえだろ? 少しでも寝ておけ」 優しい、十四郎。俺の髪を指で弄りながら微笑んでいるのだろう。そうされていることだけで、こんなにも胸が詰まるくらいに嬉しい。 額を、胸にこすりつける。十四郎の匂い。煙草の混じった苦味の在る体臭が、心地良い。 「なあ……もう一度抱いてくれ」 「……小太郎」 もう、会わない方がいい。 もう、これ以上一緒に居ない方がいい。 甘くなる。俺も。 相手が、誰だか解っているのに、刀を向けるのが辛くなる。 「十四郎、解っているだろう?」 「…………」 二度と、会えないわけではない。今生の別れではない。生きているんだ。死ぬわけでもない。 それにきっと、またすぐに会う。 この気持ちが間違いだったとは思わない。十四郎の優しさに陥落した俺が、間違っていたなどとは思わない。俺に惹かれたという十四郎の心も俺は信じている。 ただ、それ以上に、俺達には捨てられないものがあるから。 「勘付かれたら、まずい。俺もお前も」 「……小太郎」 もう、辛い。 ともに在る心が、辛い。平衡を保てなくなりそうになる。お前が居ないと、駄目になってしまいそうな自分が、何よりも嫌だ。 十四郎を好きだと、素直に思う。攘夷志士としてではなく、俺が一つの個として、ただ、俺が十四郎を愛しいと思う。立場も身分もすべき事も現在の世情も全て無視して、俺はただ十四郎が愛しい。 俺達と、俺達以外の全てが二律背反しているんだ。 心のままに生きることなど出来ない。俺は俺を捨てることなどできない。 好きだと、この気持ちはきっといつか風化する。 もし出来なかったら蓋をしてしまおう。きっとそのくらいできる。十四郎が死んでしまうわけではない。戦乱を生き抜いて、幾多の死と巡りあった。その時の絶望が降りかかるわけではない。 生きている。それだけでいい。 「抱いてくれ」 お前の熱を覚えるから。 俺の髪を梳く指の癖も、抱きしめる腕の強さも、滲む汗の味も、全て忘れない。 お前の形が俺に刻まれるように…… 「小太郎……」 だから…… 「お願いだ。最後にしよう」 この気持ちを、忘れられたらいいのに。 「……で、せっかく俺が別れてやったのに、何故連れてくるんだ!」 「はあ? あのまま放置しとけってのか? 感謝される所であって、非難される覚えはねえ!」 「だからって! 記憶が無いからって、ちゃんと事実を伝えればいいだろう? 付き合ってないだろう、もう」 「こっちは納得してねえんだよ!」 「にしたって、そろそろまずそうな感じではないか。こっちだって、こうも頻繁にここに来てるんだ、そろそろまずいんだ」 本当にそろそろまずいんだって! 銀時には知らないうちに勘付かれてたし。そっちにも感の良さそうなクソガキが居るだろうが! バズーカ標準装備の奴。 「だからっても、こっち納得してねえ! てめえが一方的に言っただけだろ?」 「違うだろ、せっかく俺が言い出してやったのではないか」 「何だよ、その上から目線は。てめえはいつもいつも!」 「素直に従え。そもそも付き合う事だって俺の言うことを聞くって条件だっただろうが!」 「だから、付き合ってるんだったら、我儘なてめえの我儘くらい聞いてやるって意味だろうが」 あ、ワガママ二回言われた……。地味にムッと来る。 朝、なんだか見事に思い出しました。 起きたら、全部思い出していた。 色々と記憶すっ飛ばしました。 見事に十四郎の事だけ忘れてた。 ……なんだこの気まずさは。 最近、ちょっとやっぱり十四郎は真選組だし何だかまずいかなーって、思って凹んだりして、別れを突き付けてみたが。 このまま忘れたら楽だろうなーって、思ってみたりしたが。 見事に忘れられた自分に拍手を送りたい。俺、すごいかもしれない。 「俺は、別れる気ねえからな」 「……いや、だが」 「別れねえって言ってんだ。だいたいの我が侭は聞いてやってんだ。お前らの邪魔になるような過激派攘夷浪士捕まえたり、天人の情報流したり」 「それはそっちも得してるだろうが。こっちだって、邪魔だとは言え仲間の情報を流しているだろうが」 「だから別れる理由なんかねえだろ」 「……だが」 まずいだろう、どう考えたって。真選組と攘夷志士だぞ? いや、付き合う時からまずいってのは百も承知で付き合ったわけだが。 「っせえな。てめえが攘夷志士だろうと惚れてるもんは仕方ねえだろうが。俺はお前が好きだ。お前は?」 「……いや、だが」 「忘れたら、何度でも思い出させてやるから。安心して俺のもんでいろ」 「……だが、十四郎」 「色々ごちゃごちゃ考えんな。俺を見ろ。で、お前はどう思ってんだ?」 溜息しか、出てこない。 あの言葉を言うのに、どれだけ心臓が痛かったか、この男にはわかっているのだろうか。 まずいのは、解っている。俺も俺の道を捨てる気などない。十四郎も、真選組以外の生き方を選べるほど器用ではない。真選組を引いたら、煙草とマヨネーズぐらいしか残らないはずだ。 今後も、色々と大変そうだ。 「……十四郎」 「あ?」 腕を、十四郎の首に絡める。 頬を合わせると、少し髭が伸びているのか痛かったが、それでも擦り付けるようにして、俺と十四郎の皮膚を合わせた。 「俺はお前が好きだ」 了 20101128 |