patron 01 |
男は、じっと扉を見据えていた。
高級料亭として名高いの二階の一室。
供の者は外に控えさせてある。遠くの部屋から笑い声が聞こえてきて、それに少し気分を害する。それは待たされていることが助長しているのだろう。相手を待たせることはあっても、待たされる事などはない。
男はこの江戸でも一、二を争うほどに忙しい。時間など取れない。この機会を逃せば次などはない。
相手もそれを承知のはずだろう。
男は、この江戸で知らぬ者などいない、ある企業をまとめ上げていた。一代で財を築き上げた先代の跡目を引き継ぎ、江戸で一二を争う財を成した。
時間などは、なかった。自分に費やせるほどの時間などなかった。
それでも、男には思想があった。
攘夷。
男には、強い志があった。
男はこの世界を愛していた。
平和に見える世界に暮らしている人間は、天人によって支配を受けていることに気付かない烏合の衆だと、男は常々思っていた。
攘夷、それは彼の志した世界であった。
桂小太郎。
その名を知らぬわけではなかったから。
金ならばある。
だが、金しかない。
桂を支持したいと、男の方から申し出をしたのだ。
男は攘夷の思想にひかれていた。
桂小太郎は、江戸で知らぬ人間などはいなかった。男は桂の思想に惹かれていた。
男は大人数の雇用を抱え、今更全てを放り出してその思想に身を投じることなどは出来なかった。
だが、金ならばある。
援助を申し出た。
攘夷を志す党はいくつもあり、金のためにその思想を熱く語る輩も幾多いた。だが、その全てに共感できなかった。
聞き及ぶところ、男の思想は桂の思想に傾向していると、男はそう思っていた。
桂を支持し、援助を申し出る人間は、横の繋がりを見ても幾人かいたが、それでも気に入らなければ桂がその話を蹴っているようで。それなりに金を稼げる人間は思想を持つことができると言う信念が男にはあった。男と同じような人間は、攘夷の思想に駆られ、だがそれを実行することが出来ずに信念を持つ志士を援助することで、世界を正しい状態に戻そうとしている。
思想を推し進める上で、主権と食い違う現在の状況ではテロ行為にしかならない彼らの活動は、いくら金があっても困らないのだろうに、桂は気に入らない人間からの援助は断り続けているようだ。
男は、そんな所も気に入っていた。自分ならば、桂に相応しいと。
そして、本日、桂と初めて対面する。
勿論、攘夷志士が金策に労じていることは知っていた。いくつもの党が党首自ら頭を下げてきた。男は全てを拒否した。話を聞いても、彼とのずれを見出したからだ。
桂の思想に男は惚れていた、何度か文のやり取りもあった。少し神経質そうな流麗な字体だった。書は人となりを現す。信頼できると感じてはいたが、援助をするには実際に会って対話をしてからでなければ。
それからでも遅くはない。
どんな男なのだろう、桂は。
男は考える。
手配書の似顔絵を見る限りでは、大した優男に描かれていた。
そのような馬鹿な事があるはずがない、と思う。
捜査の手を撹乱させるために流したデマだと思っている。きっとあの手配書に描かれた似顔絵とは似ても似つかないような男なのだろうと。
頑強で思慮深い男なのだろう。
天人の来襲を受けた時に、あの戦乱の渦中を中心にて生き抜いた男だ。
剛腕でなければ生き延びることすらできなかった戦いを中心で先導し続けた男だ。
髪は長いのかもしれないが。手配書はまるで女のような容貌で描かれていたから。
どのような人間なのか、想い描く。
男は早く先代を喪い、若くしてこの世界をのしあがってきた。まだこの世界では齢四十など、若輩者との烙印を押されるが、それ以上に金を稼ぐ能力があればそれが力となる。
年はあまり関係としていない。
桂は、噂には、まだ三十にも満たない男だと。
礼儀すら弁えない不躾で粗野な若者であるならば、この話はなかったこととしようと思う。
それにしても、遅い。
時間を守らないのは、礼儀に反する。
もしかすると桂という人物を買い被っているのかもしれないと、男は思った。
時間に対しての考慮をしないような不躾な人物であるようならば、この話はなかったことにしようと男は思った。あと数分の間に来なければ、男は席を立つ決意をする。
少しのざわめきと足音が聞こえた。
その時、襖が、動いた。
桂が来るまでは誰も通してはならないと共の者にきつく言い置いていた。
桂か?
襖が開く。
屈強な男が襖を開けた。
見たことのない男だった。護衛の為に連れてきた供の者の中にはこのような人物はいなかった。上背のある逞しい、顎の太い侍のようだった。見た目からして、威圧感を感じる。外見の圧迫感だけで、世の中を渡ることができるような侍だった。
その侍が桂なのかと思ったが、侍は男がいる部屋の中を確認し男に一瞥を投げると、深々と廊下に向かい頭を垂れた。それで良かったと思う。この侍は屈強な体躯をしているが、そのぶん頭に知恵は回っていないように見えたから。男は人を見る目は自負していた。この男の中身はたかが知れていると、そう判断した。外見はやはり中身をも表すものだ。
その先に桂がいるのだろう。だいぶ待たされたが、お互いに忙しい身分だ。許容範囲内だろう。
そしてその侍の向かいから現れたのは……。
美しい女だった。
色々な女を経験してきてはいたが、それでも見とれてしまうような美貌を誇る女がいた。
女は、侍に軽く視線を投げ、侍は女に軽く耳打ちをして、また深々と一礼をした。女は僅かに笑みを浮かべ、部屋の中に入ってきた。
桂以外は通すなと言い置いてあったはずなのに。
これはどうしたことだろう。
何があったのかはわからないが、女を使いに寄越すなどと。
女などを呼んだわけではない。もしこの密会が世間に知れれば男の地位すら危ういのだ。女ごときがこの場を汚して良いものではない。
そう思って女を追い払おうと思ったが。
だが、もしかすると桂は何らかの事情があり、使いとして女を寄越したのではないだろうか。
先ほどの侍は、深く女に一礼した。対応からすれば、この女は桂が党首を務める攘夷党の中での中枢にあり、使いとして女が代わりにやってきた。そう、思っても良いのではないだろうか。
男は、女と言う生き物を愛していた。
好色として知られていた。
もしかすると、桂が何らかの事情でこちらに来ることが出来ず、もしくはこちらに来るとこの会談が公に知れるような危うい状態で、代わりに桂がこの女を差し出したのだろうか。
男は、女と言う生き物を愛していた。
とりわけ、芯の強そうな髪の美しい女を好んだ。
桂は男の身辺を調査し、好みに合う女を差し出したのではないだろうか。
男の方も桂を洗った過去がある。天人来襲の折の活躍譚以外ほとんどなにも出てきはしなかったが。
差し出すのであれば、それ相応の上等のものでなければ納得はしない。
相応の身分の女を送ったのだろう。
女の姿を見る。
その美貌による圧力を発していた。
眼光は射抜くように鋭く、白く決めの細かい肌。
黒く豊かな髪を右肩に柔らかに流し、肌の白さを際立たせる。
赤い唇は、男を見て笑みの形を作った。
女にしては、背が高かったが、華奢な肢体は艶めいていた。
桂に会うことはないかもしれない。今後気が向けば時間を作るかもしれないが、漸く空いた時間だ。このような犯罪者に区分される相手にわざわざ時間をとったのだ。そして来なかった。
だが、桂の事は認めよう。このような上等な贈り物だ。今後あちらから援助を申し出、此方の要求を飲むようであれば……。
損ねた機嫌をもとに戻すつもりはなかったが、この女を送った事は認めようと男は思った。
「まったく、桂先生はいい趣味をしておいでだ」
このような美貌の女を送ってくれるのだ。
目の前の女を頭の中で裸にさせ、男は笑みを漏らした。
「申し訳ない」
ずいぶんと低い声域を持った女だと思った。
だが、低い声をした女などいくらでもいる。
この女を喘がせれば、どのような声を出すのだろうか。今の声は低いが、きっと艶を含んだ息をその唇から吐き出すのだろう。
「申し訳ない、着替える時間がなかったのだ」
女は少し困ったように苦笑した。着物は派手なものではなかったが、それなりの光沢を持ち、深い紫は女によく似合っていた。
「そのままでもお綺麗ですよ」
身形を気にするなどと、確かに女としては仕方がないことかもしれない。
髪を結い上げてもいないし、確かに正装ではない。
「このような場にこのような出で立ちで、非礼をお詫び致したい」
「かまいませんよ」
身形は気にならなかった。どうせ裸にしてしまうのだ。重要なのは中味だ。これだけの美しさならば、着物など関係はない。
気になったのはその口調だ。
女として、堅苦しすぎる。まるで男のような、しかも上に立つ者の口調だ。それに、年上である男に対して、ずいぶんと慇懃無礼ではないか?
だが、と男は考える。
気の強い女を屈服させるのが好きだった。
気の強い女が身体を明け渡した姿が、男の征服欲を満たし、それが快感になることを知っていた。
「真選組みと出会した」
真選組の単語にどきりとする。もしこの密会が真選組にかぎつかれたら……。そうなれば、一貫の終わりだ。何もかも失うことになる。
男は財をなす傍らで、非合法な事にも手を染めてきていた。警察にはなるべく関わりになりたくはない。
まあ、大丈夫だろう。ここにいるのは女だ。それ相応の地位もある。
攘夷とは無関係だと、もしこの女が攘夷志士として手配を受けていたとしても、関係はないと言い張る自信がある。
いや、桂の事だろうか。真選組に見つかり、仕方なく来れなくなってしまい、この女を桂は寄越したのか?
だとしたら、仕方がないことだ。見つかるわけにはいかない、捕まるわけにはいかない、お互いに。
手を差し出した。
対面していてもつまらない。
ここにいるのは男と女だ。
女は、一度首を傾いでからその手を取った。首を傾いだ時にさらりと髪が流れる。色までが薫ってきそうなその動作に、逸る気持ちを抑える。
手は、女にしてはしっかりとしていた。掌は固かった。女性だとしても攘夷志士として剣を握ることもあるのかもしれない。男は昔剣術を習った過去があったから、掌の豆が剣を握る時にできるものなのは理解していた。
「名は?」
これから抱く女の名前くらいは聞いておいてもいいかもしれない。
「? 桂だ」
「桂田?」
党首とずいぶんと似た名前だ。
それにこの場合は名字ではなく、下の名を名乗るものではないだろうか。
「桂、だ」
聞き違いかと思ったが。
桂、と女は名乗らなかったか? それほどありふれた名ではない。
もしかすると……。
「桂先生は結婚していらしたのか」
もしかすると、自分の妻を差し出したのではないだろうか。
ここに来れないことを詫びる意味で、大切な者を献上したのではないだろうか。
もしかすると、桂はこの会合をかなり大切に感じていて……。自分の妻を?
「いや、結婚などしておらんが」
違う、らしい。
男が思っている以上に桂と言う名前は氾濫しているのか?
まあ、なんにせよ。
この女は極上だ。
握った手を引き寄せる。
女の身体がバランスを崩し、男の胸にしなだれかかる。
細い身体だった。男としては、もう少し肉付きのあるふくよかな身体が好みだったが、この美貌だ。これ以上の贅沢は望まない。
腕の中に閉じ込める。
「貴様、何をする気だ……」
「桂先生のご期待には添いますよ」
「こんなことを期待したつもりはないのだが」
「ああ、貴女ではなく、貴女の党首である桂先生のことですよ」
「言っている意味がさっぱりわからん」
「貴女を気持ちよくして差し上げますよ」
「……ちょっと待て」
男は、腕の中の女の身体が強張るのを感じた。
もしかすると、桂はこの女に何も知らせず、ここに送り出したのかもしれない。やり取りをした文から、潔癖そうな意思を感じた。女にそれを伝えることはしなかったのかもしれない。
だとしても。
この状態を理解できない女は、もしかすると頭が悪いのか? 頭が悪かろうと、女は女の役割を果たせばいいだけだ。
無理矢理抱いてしまえば、理解するだろう。
女の前袷から、手を滑り込ませる。
「何の真似だ……」
滑り込ませて……
「ずいぶんと、痩せているな」
「何だ貴様は、勝手に人の懐に手を突っ込んで、不躾な!」
「もう少し胸が大きい方が私の好みだと、桂先生に伝えておいてくれませんか?」
「貴様の好みなど知るか!」
この口調が、どうにも気に入らない。
女の癖に、どうにも礼節をわきまえない。
女であればただ黙って男に従っていればいいのだ。
それなのに……。
もう、うるさい口を塞いでしまおうと 女の顎を掴み、口付けようと………。
「何をする、変態がっ!」
男は、右頬に衝撃を感じ、襖まで飛ばされた。男の意識があったのはそこまでで……。
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090402
序章ってかんじで。
Web画面での明朝体嫌いなんですが、わざとです。
改行入れてないのもわざとです。