■
何となく通り掛かった中庭で……僕はプラチナブロンドが樹の蔭にあるのを見た。
ロンもハーマイオニーも図書室にいて、僕はクィディッチの練習があったからその帰りに近道をしようと思い中庭を通った。
昼は暖かな陽気だったけれど、日が陰ると急に冷え込んで来たので昼間の喧騒は嘘のように中庭には誰もいなかった。
(何だろう……)
それが誰であるのか、僕は分かっていた。
こんな見事なブロンドはこの広いホグワーツにも一人しかいなかったから、彼はどこにいてもすぐに目に付いた。僕は珍しくもない髪の色だから、周囲に溶け込んでいると思うのに、彼は僕を目敏く見つけて、わざと近付いてたいていは馬鹿にした態度で、時々は何か嫌なことを言って去って行く。
今日……喧嘩したばかりだったから。
見たくもなかったんだけど。
(何をやっているんだろう)
ふと、疑問を覚えた。
彼が最近一人でいる所を見た事がない。いつも誰かしらが隣りにいたから、なんだかひどく不思議な事のような気がした。
もう、肌寒くて。暗くなっているのに。
彼が中庭にいる時は、たいてい周囲に何人かを侍らせてベンチで本を読んでいたり、樹の上で本を読んでいたり、一人ですることなのに、マルフォイはいつも何人かの輪の中にいたから。周囲と話をしていることもあったが、話をしていると言うよりも周りが彼の話を聞いているという感じで、気軽に話している感じではなかったが、それでも彼は中心にいた。回りも、彼から離れなかったし、彼も邪魔そうにはしていなかった。
(何だろう)
とても不思議な気分だった。
一人でいることもだが。
いつもなら見つけたら顔をしかめて見つかる前に立ち去るし、見つかってしまっても立ち去りたいと思っているのに。
まさか、僕の方から近付くなんて。
彼は樹の蔭に膝を抱えて座り込んでいて、何をしているのか分からなかった。
細身の身体。睨み合うと僅かだけれど僕よりも視線が下に来る。
ローブにくるまるようにして、樹の蔭に隠れて。
(馬鹿だな)
ちゃんとフードまでかぶらないと、彼の明るい銀髪はよく目立つのに。
寝ているのだろうかと思った。
静かだから。
風邪をひいてしまうから。 起こしてあげる義理なんかは無いのに。
彼に近付いて行く僕の足が枯れ枝を踏んだのか、ぱきりと乾いた音がした。
まずいと、思った。
マルフォイが、弾けたように顔を上げて、僕を見た。
まずい、と、思った。
近付いてはいけなかった。彼のためにも、僕のためにも見ないふりをして僕は通り過ぎなくてはならなかったんだ。
「………ポッター」
僕の名前を呼んだ彼の綺麗な顔はぐしゃぐしゃに涙で濡れていて、アイスグレーの淡い色の瞳は赤くなっていたなんて……そんなこと、僕は知らずにいた方がよかったんだ。
僕を呼んだ声は、震えていた。
「マルフォイ?」
どうしたのと聞くのも野暮な気がして。僕は彼をじっと見た。
何て訊いたらいいのか分からなかった。訊く必要なんか無いんだけど。でも。
このまま立ち去ることなんかはもっとできないから。
(僕はどうすればいいんだろう)
薄暗くても、彼の白い顔、その表情はしっかりと見て取れた。
大きな瞳から大粒の涙が落ちた。
頬を伝って、滴となっておちる。ぽたりと音が聞こえたような気がしたんだ。
可哀想になったのかもしれない。
我が儘放題の彼にだって悩みごとぐらいあるんだろうし。
僕なんかが、マルフォイの涙を見てしまった罪悪感と同情とで………。
僕は近付いて、マルフォイと視線が合う位置まで、膝を着いて、彼に手を伸ばした。
髪に触れると、びくりとマルフォイの身体が強張った。
大丈夫。
なにもしないから。
そう言う代わりに、僕は彼の髪を撫でた。
猫の毛に触れるような滑らかな手触り。想像通り。
(何だろう)
何で彼は逃げないんだろう。それがとても不思議だった。
マルフォイが僕なんかに涙を見られたら、顔を赤くして逃げて行くと思ったのに。
僕に撫でられる度にその双眸から涙を零した。
(なんでだろう)
こんなやつ、嫌いなのに。泣いているなら、ざまあみろと思うくらいだと思っていたのに、僕は……。
どうすればいいのかわからずに……彼の髪の手触りが心地よくて……。
「……マルフォイ」
なんでだろう。
「ポッター、僕は……」
そう、彼の口が僕の名前を呼んだ。
嗚咽でほとんど聞き取れなかったのだけれど。僕を拒否するでも無く、僕の名前を呼んだから……。
(どうしていいのかわかんないよ)
僕は、知らずうちに、彼の身体を抱き締めていた。
彼の肩を引き寄せて、腕の中に閉じ込めた。
まずいと、思った。
さすがにこんなことをしたら逃げられてしまう。
逃げられて、困らないのに。マルフォイとここで、こんなことをしている方が間違ったことだと言う事を僕はよくわかっている。
細い肩。
華奢な肢体。想像以上に。
僕とほとんど変わらないと思っていたのだけれど。
僕なんかよりもずっと細くて、その身体は折れてしまいそうで……。
なんでだろう。
「ポッター……」
嗚咽混じりにマルフォイの高い声が僕の名前を呼ぶから。僕はより彼の身体を抱き締める腕に力を込めた。
しゃくり上げる度に、彼の小さな身体が僕の腕の中で震えた。
泣かないで。泣かないで。
なんでだろう。
(何で、僕は……)
「ポッター……ポッター、僕は……」
マルフォイの涙混じりの声。
それを聞く度に僕の身体が熱くなるのはなんで何故なのだろう。
僕の背中にマルフォイの細い腕が知らないうちに回されていてたのが、ローブごしにわかった。それを感じて、僕の身体が熱くなって……。
大丈夫。
僕がここにいてあげるから。
泣かないで。
そう、言ってあげたい気持ちになってしまうのは……。
「僕は………」
マルフォイの髪に僕の鼻先を埋めると、彼がいつもつけているコロンが鼻孔をくすぐった。いい香り。少しだけ、甘みがあって、彼によく似合った。僕はマルフォイを本当に嫌いだけれど、この香りは好きだった。顔を近づけて睨みあうと、この香りが漂ってくる。
泣かないでよ。
君を優しくしてあげたくなってしまうよ。
きっと、僕達にはそんな関係は似合わないのに。僕達はライバルなんだから。お互い倦厭しあっているんだ。こんなのおかしい。それはわかっているのに……この腕の中にいる存在を、僕は離す事ができない。
「……僕は……っ」
声を上げて泣きじゃくるマルフォイを僕はまだ見たことがなかった。泣いている姿なら見たことがあったけれど……それはたいてい彼の悪ふざけの一環で、涙は出していて、それでも下を向いて笑っていることを知っているから……。僕はマルフォイが本当に泣いているのを初めて見た。きっと今までだって誰も見たことかないのではないだろうか。
マルフォイが、何かを僕に伝えてくれようとしている。
そんなに泣いてちゃ、わかんないよ。嗚咽で、声にならない。
僕はそんな彼の背中を抱え込むように抱きしめた。僕の背中に回された手が、僕のローブを掴んでいる。僕に、しがみつく彼を僕は知らない。
何かを僕に伝えようとしているマルフォイの身体を、僕は彼の呼吸が落ち着くまで、ずっと抱きしめていた。
これは、誰なんだろう。
◆ ◆
昨日のことは、夢だったのではないだろうか。
ふと、そんな気がした。
腕の中で震える彼のぬくもりが、まだ残っているのに……あんなことがあるはずがないから。あるはずが、ないんだ。ずっと、仲が悪かった。自他共に認める犬猿の仲のレッテルを、どうやっても外せるはずがない。
もし、現実だったとしてもきっとマルフォイだって忘れたいに違いない。ずっとライバルだった僕に泣き顔を見られるなんて、きっとマルフォイにとっては屈辱だったに違いない。本当に嫌なことがあったのだろう。誰でも良いから縋り付いて泣いてしまいたくなるほど。それがたまたま僕だっただけなのだろう。
(きっと、夢だったんだ)
僕はそう思い込もうとした。
昨日の夕食は僕は遅い時間に行った。彼は居なかった。マルフォイは食が細いようで、時々食事に来ないことがあったから、気にすることもなかった。ただ、今日の朝食の時に彼の顔を盗み見ると、少しだけ目蓋を腫らせていた。昨日あんなに泣いたから……その目が、昨日が夢でなかった証拠のような気がしたけれど。ただ、朝食の時にあったハーマイオニーも同じように目を腫らせていた。どうやらほぼ徹夜で課題を仕上げたらしい。マルフォイも顔と学力だけは良いので、そういうこともあるのだろう。昨日のことは、夢だったのかもしれない。
ただ、あの時に……彼が泣きやんだ時に、僕はハンカチを渡した。
普段はあまり持ち歩かないのだけれど、時々気が向いた時だけポケットに入れる。そのまま何日も入っていることがあるけれど。
昨日は、久しぶりに持っていて……。
まだ、使ってないから。そう言ってハンカチをマルフォイに渡した時に、彼はようやく笑ってくれた。
僕が見たことのないような、綺麗な笑顔だった。
僕のハンカチを握り締めて、それでもおかしそうに目を細めて。
まだ、目は涙で濡れていたけれど……それでも彼は、僕の目を見て笑ってくれた。
今まで、僕は彼の顔立ちを気にしたことはなかったけれど、勿論整った顔立ちをしていることは知っていたけれど、僕はあまり気にしたことがなかった。まるで、作り物のように整った造作だと、昨日初めて思った。
朝食の時に一瞬だけ目が合ったけれど、僕達はすぐに視線を逸らした。
昨日のことは、なかったんだ。
きっと、マルフォイだってそう思っている。
夢だったんだ。
ただ、僕のハンカチが一枚なくなった。それだけ。
◆ ◆
相変わらず彼は僕を目の敵にした。
合同授業が終わって僕がロンとハーマイオニーとくだらない会話をしていた。他にも似三人グリフィンドールの生徒が集まって、クィディッチのことについてだったと思う。試合が近いから。いつも通りなのだけど。
ただ、僕はあの時のことが時々思い出されて、少しだけ溶け込むことができなかった。
マルフォイの身体が細かったこととか、彼が僕の背中に回した腕とか、僕のローブを握り締めていたこととか……そんな。
ただの、夢だ。覚えていなくてもいい。あっちだって、きっと忘れたいと思っている。
(……ほら)
僕達の会話は中断せざるを得なくなった。
マルフォイと、その一行。僕達が名づけた。その呼び名は本当にその通りで、彼が先頭に立ちローブを靡かせて背筋を伸ばして大股で歩き、その後ろに放射線状に広がるようにスリザリンの生徒がついて歩く。彼が立ち止まるとその両脇に立ちはだかる様に体格の大きなクラッブとゴイルが立つ。打ち合わせしているのだろうかと思えるような整った陣形を作るから、僕達はいつもそう呼ぶ。
いつも通りの光景。そして僕達の前で止まるのもいつも通りだ。
「くだらないお喋りで点数が貰えるのであれば、グリフィンドールに適う寮はないだろうな」
凛と澄んだアルト。
彼はいつも通り僕の顔を見ると何かを言う。その口から出てくるのは決して良い意味を持つものではなく、必ず大なり小なりの嫌味を含んだものであるのだが。口の端だけ持ち上げる、いつも通りの表情。あまり高くはない背で、それでも背筋を伸ばして、上から見上げるようにして喋る高圧的な態度もいつもと同じだった。
いつも通り。ただ、いつもと違うことは僕が彼の顔を認識たことぐらいだろう、大きな違いはない。
よく見れば、大きな瞳を縁取るようにしてある睫毛は長く、筋の通った鼻梁と、紅い唇。肌が、陶器のように真っ白だった。思わず見惚れてしまうような作り物のように整った造作で、あまり良く見たことはないけど、そういえばいつも彼はこの顔をしていた。けれども、これはマルフォイなのだ。
あの時の、マルフォイはきっと僕の夢の中にいたのだろう。現実のマルフォイは僕に手を触れることもないだろう。
「捻じ曲がった根性で点数が稼げるなら、スリザリンがいつも一番だろうね」
僕もマルフォイに言い返す言葉の中に、刺を入れないことはできない。言われたら言い返す、睨まれたら睨み返す、殴られたら殴り返す、僕達の中での鉄則に近い。時々呆れて無視することもあるけど。
彼はしばらく僕に冷めた視線を送っていたので、僕その視線を受け流すようにして教科書をまとめる。
ふんと鼻を鳴らすと、僕に冷たい一瞥を投げて、そして後ろに何人も従えて教室を出て行く。
いつも通り。
いつもと変わらない。
夢だったんだ。
忘れなくては。
抱きしめた時の彼の身体の細さとか、回された腕の強さとか、僕にくれた笑顔とか……。
(忘れるんだ)
◆ ◆
昼間クィディッチの練習があって、寮に戻るのが面倒だったので教科書とかをロッカーに置いたまま練習が終わり、そして課題が出ている授業の教科書を忘れてしまったので……。
僕が練習場の脇にあるロッカールームに行くと、夕食も終わり、就寝時間も近いというのに、明かりが点いていた。
どこかのチームが内密に打ち合わせでもしているのかと思ったけれど。机が置いてある場所は窓から覗けばすぐわかる場所で、そこには人影はなかった。誰かが明かりを消していなかっただけかとも思ったのだが。
中に入ると、誰かがいる気配がした。
別に、僕が悪いことをしているわけではないが、何者かが学園に侵入したのかと身構えてしまう。ただ、不穏な気配はしなかったから杖を構えることはなかったが。
僕のロッカーがある方を覗き込むと、細身の身体があった。
(………あれは)
僕のロッカーの前で。明るい銀髪と、細身の身体は後姿でも誰であるかすぐにわかる。
「何やってるの、マルフォイ?」
僕が声をかけると、彼はびくりと身を竦ませた。
何をやっているのだろうか。
彼がこんな所に一人でいることも不思議だった。いつも誰かと一緒にいるのに。こんな夜、マルフォイのことだから僕のように忘れ物をすることもないだろうが、もし忘れ物とかであれば、彼自身でなくとも誰か別のスリザリンの生徒に行かせるだろう。彼のためならば喜んで使いに出されるスリザリン生は多くいるようだから。
それに、そこは僕のロッカーの前で、スリザリンの選手が使っているロッカーはもっと奥にある。
「……ポッター」
ゆっくりと、彼は振り返った。
僕のロッカーに何をしようとしているのだろう。昼間の仕返しだろうか、いつもと同じだったのに。
「何?」
俯いていて、その表情は良くわからなかったけれど……彼は俯くことをしない。どんな時でも正面から視線を投げるか、もしくは少し上から……。下を向くことなんてないのだから。
(……これは?)
誰なのだろう。
いつもと、気配が違うような気がした。もっと、彼はいつも自信に溢れた視線を投げる。
「これを……」
いつもは語尾が途切れることはない。回転の早い頭で二の句が告げないほどに早口で僕に対して、時々僕達に対しての嫌味をまくし立てる。舌の周りは早いようなのに。
声も凛として、よく通る声で喋るのに、今は少し震えているようで。
「ああ……返しに来てくれたの?」
彼は両手で僕のハンカチを持って……。しっかりとアイロンまでかかっていたところが、マルフォイらしい所だったけれど。いつもと、明らかに違った。返してくれるものではないと思っていたし……あの時の出来事はなかったことにしたかったんじゃないの?
あの日のことが、忘れられたと言えばそれは嘘になる。けれど、あの日以降の君の態度は別に普段通りだった。あの時のことは君がなかったことにしたかったのではないだろうかと思って、僕は言い出せなかった。ハンカチが惜しいとか、そんなことはまったくないけれど。でもあれからいつも通りに彼が僕に対して冷たい言葉を投げるから……僕も言い返す、そんな日が続いた。勿論何もない日もあるけれど、いつも通りに目が合えば臨戦態勢に入る。
彼が律儀に返しに来た、その辺りが、マルフォイらしいとは思うが……。
とっくに捨てられたものだと思っていたから。
「ありがとう」
僕は、俯きがちに僕に弱い眼差しを送る彼を安心させるように微笑んで見せた。
……また、あの時と同じ彼がいる。これは、誰だろう。僕が知らないマルフォイだ。
僕の笑顔に対して、不安げな表情をしていた彼が、安心したように僕に微笑を返した。………この前と同じ。いつも彼がする笑顔とはまるで色が違う。こんな顔もできるのかと思うくらい、毒気の抜けた顔だ。シニカルに口の端だけを持ち上げるいつもと笑顔とはまるで違う。本当に、喜びを表す時のもので……。
手を伸ばして、ハンカチを受け取ろうと思ったけれど……
これがまた夢になるのだろうかと、不安になる。
(綺麗だ……)
僕は彼のこの笑顔を知っている。
この前も彼はこの笑顔を僕にくれた。見惚れてしまうような綺麗な顔。実際見惚れてしまっている。こんな整った顔立ちをしているなんて、僕はずっと気が付かないでいた。知る必要もなかったし、知りたくもなかった。
これは僕の知っているマルフォイではない、彼のはずがない。あいつはこんなふうには決して笑わない。
僕は、彼が手に持つ僕が依然彼に預けたハンカチではなく、その肌理の細かい白い頬に手を伸ばした。
そっと、触れる。
冷たい、と思ったのに。無機質な、印象があるから。笑うとこんなに温かい笑顔ができるのに。
彼の肌は僕の手に確かに体温を感じさせてくれた。
マルフォイが、僕の手に頬を擦り付けるようにして、嬉しそうに笑うから……。
(僕は、どうしたんだろう)
僕が、おかしい。
嫌いなはずなのに。ライバルで、ずっと嫌いだった。犬猿の仲で、それは周知の事実で、誰よりも僕達が一番それを認識していたというのに。
あの時、マルフォイが僕の前で泣くから……僕の腕の中で泣いたから。
……あの時の、抱きしめた時の彼の華奢な身体とか……思い出して……。
僕は、その身体を引き寄せる。肩を掴んで、少し僕が力を入れただけで、軽く僕の胸に倒れこんできた。
僕は彼の耳のあたりに顔を埋めた。柔らかい髪の毛が、僕の顔を擽る。あの時触れた髪も、今のように柔らかかったから、僕は確かめたくて彼の髪に回した腕を伸ばした。さらさらと、滑らかに絹糸のように流れる。
(良い匂い)
ふわりと、香る。
ただ、いつもと違う。いつもは……この前も、もっと清涼感のある香りだと思ったのだが。香水とかには疎いから良くわからないが、でもいつもの香りは覚えていた。男が香水をつけるなんて、軟弱なイメージもあったが、マルフォイに関してだけは違った。存在を引き立てるから。今日の香りは、いつもよりも甘くて……。
「良い匂い」
「………シャワー、浴びたから」
「ああ、シャンプーの匂いかな?」
彼は僕の首筋に顔を埋めた。
温かい、息がかかる。そこから熱が全身に広がるような錯覚。
僕は彼の髪の手触りを楽しんで、さらさらと手から零れる髪の色が綺麗で、指に絡ませたりして遊ぶ。
彼は僕の腕の中で、小さくて……僕の首筋に顔を押し付ける。
何だろう、優しくしてあげたい。
包んであげたくて。
ふと……、今マルフォイがどんな顔をしているのか気になったから、彼の頭をそっと上に向かせる。
長い睫毛に縁取られた、アイスグレーの瞳が僕を見た。瞳は少し濡れていた。頬はうっすらと朱が差していて。
綺麗な、顔が、僕を見て微笑んでいた。唇が柔らかい弧を描いて、少し覗いた歯が白かった。
僕は、吸い寄せられるようにその唇にキスを落とす。
触れるだけ。
柔らかくて……。
(……熱い)
熱くて、その熱は全身をめぐる。思考を破壊させるような。焦がすような……それ以上に熔ける。
キスをしたまま、僕は彼の細い身体を抱きしめた、強く。もしかしたら苦しいかもしれないけど、でも我慢ができそうにないんだ。
熱が、身体中に広がる……。不思議な感覚で、だけどそれを楽しむ余裕もない。
僕達は、何度も角度を変えて、啄ばむようなキスを繰り返した。
大事にしてあげたくて……。
優しくしてあげたくて。
でも、僕の腕の中に収まる、これは、誰?
◆ ◆
僕とロンとハーマイオニー、いつもの面子で夕食後この前出された課題について話していた。
いつも通り。授業を受けて、クィディッチの練習をして、課題をして、遊んで、寝る。
日常は何も変わっていない。あの時、キスしたこともまるでなかったかのように。なかったんだ。
僕はしばらく彼の顔を見れないでいた。数日はマルフォイからも何もなかった。時々侮蔑を込めたような視線を投げられることはあったけれど、それ以外何もなかった。僕から何かを言いたくもなかったから。また、あれは夢だったこととして僕の中にしまいこんだ。
提出も近いので、僕達が頭を寄せ合うようにして一つの本を見ていた。ハーマイオニーが一番先に終わらせて助けてもらうことがだいたいなのだけれど、彼女も優しい方ではないから教えてくれることはあまりないので、自力で何とかしなくてはいけない。レベル的には僕とロンはほとんど同じぐらいの学力なので、彼女より僕達のほうが心なしか本に顔を近づけている。
くすくすと、頭上で笑い声が聞こえた。
輪唱するように、広がる。嫌な気配だ。
顔を上げると、彼と視線がぶつかったので、僕は顔をしかめた。僕がハーマイオニーとロンの前に座り、二人の後ろのスリザリンのテーブルから食事が終わったのか、立ち上がって僕達を見下ろしていた。
(鬱陶しい)
僕は、溜息を漏らした。
僕の顔を見て、マルフォイとその取り巻きたちが笑っていた。ロンもハーマイオニーもわざと気付きたくなかった様子で、ようやく顔を上げた。二人とも顔が苦虫を潰したようになっている。きっと僕も同じ表情をしているに違いない。
「ポッター、英雄ってのは顔に傷を作らないとなれないのか?」
見下した視線で、よく通る声で、馬鹿にした態度で、いつも通りに……。
マルフォイの周りでは爆笑が起こっている。
「最近おとなしかったのに」
ロンが舌打ちをしながら、僕達にしか聞こえないような小さな声で呟いた。最近彼に対して大人しかったのは僕の方もなのだけれど。それは二人とも気付いていない。今までよくマルフォイの愚痴をもらしていたが、ここ最近は彼の名前を出さないようにしていたから。
別に、大したことじゃない。
今日のクィディッチの練習中に、集中力を途切らせてしまい、地上すれすれの所を飛んでいたのだがそのまま顔を地面に擦りつけてしまった。手当ては終わっているが、まだ傷が残っていて擦りむいた顔には大きな絆創膏が貼られてある。格好のいいことでは決してないけれど……。マダム・ポンフリーの軟膏は本当に良く効くからもうほとんど完治していて痛みもない。数日後には痕も消えるだろう。
ただ、傷を作った時は実際本当に痛かったのだから、腹が立つことには変わりがない。
苛立ちを込めて、僕は彼を睨みつけた。
最近、見ないようにしていたけど……。
意地の悪そうな顔つき。それでも、整っている。
紅い色をした唇が、その端だけ持ち上げられて、シニカルな笑みを作っていた。あの、柔らかさは感じられない。今はあの熱さを感じられない。
彼の唇に、僕はキスをした。
何度も……。頭の芯が、熱くなってくるけれど……。
マルフォイは自信に溢れた表情で正面から僕を見据えていた……あの時の彼ではない。
僕がキスしたのは、今目の前にいるマルフォイではない。これは僕のライバルだ。
「この前の練習試合で、スリザリンは大負けしていなかったかしら?」
頭にきたらしいハーマイオニーがテーブルを叩いて立ち上がった。その音が大広間中に響いて、この空間の視線が収束された。
事実この前行われた非公式の練習試合では、グリフィンドールの圧勝だった。シーカーの中ではそのスピードからマルフォイが一番手強いのだけれど、箒に関してこのホグワーツで僕以上操れる奴はいないと自負している。
マルフォイの周りにいるスリザリンが、ハーマイオニーに猛攻をかける。彼女を口で言い負かせることができる人間はこの世にそれほど多くない。
また、周囲に喧騒が戻る。いつもと同じだと判断されたのだろう。僕達の周りで起こることと、いつも通り日常の会話を楽しむ者と、いつも通りに騒がしい空間に戻る。
ただ、僕達は膠着状態だった。周りの騒音も気にならない。耳に入ってこない。視界にも入らない。魅入られたように僕は彼を見つめる。
視線を合わせたまま、僕達は逸らせずにいた。
マルフォイの冷たい色の鋭利な視線を僕は受け、そして同じだけの温度で返す。
彼の、唇を見ないようにした。彼の瞳の色だけを観察した。
忘れる所だった。
戦うことはあっても、僕達はキスするような仲ではないんだからね。
僕達は、ライバルなんだ。ありがとう、思い出したよ。
僕は、彼を強く睨み返した。
◆ ◆
僕達はその日、図書室で課題に取り組んでいた。
提出期限はまだ先だが、読まなければならない文献がいくつもあるからそれを探すだけでも骨が折れる。
勉強するための机がある所は見通しが利くが、それ以外の場所は慣れていても方向感覚を狂わせる。場所によっては迷路のように棚が立ち並ぶ。
僕が探している本があるところも、そういった場所にある。手分けして探しているのだけれど、思った以上に難航している。
本棚を縫うようにして探している。
ふと、銀の髪が、目に入る。
(……マルフォイ?)
あれから僕達はいつもと同じように、嫌味を応酬しあう毎日に戻る。相変わらず彼は僕と僕の親友達に対して、決して嬉しくないことを言ってきたし、それに対して僕は同じだけの質量を返す。彼は僕を睨みつけ、僕はそれを流した。今までどおりの日常が戻ってきた。
一瞬でも、忘れそうになってしまった。
僕達は……君の手を払った瞬間から、僕達はライバルなんだ。君がそう決めたから、僕もそれに便乗する。その関係が安定している。
マルフォイは僕を嫌悪を込めた視線を投げ、それに対してどこか安堵を覚えた。
彼を、忘れることはいまだにできなかったのだけれど。
あの、唇の柔らかさを僕はまだ覚えているのだけれど……。忘れなくてはいけないことだから。
僕は、彼を嫌悪するように、彼が僕に対して言う嫌味を倍にして返却できるように彼の粗ばかりを探している。
綺麗な顔立ち。淡い色の瞳と、透き通るような白い肌と、紅い唇。
華奢な肢体、背筋を伸ばして歩く姿とか……口さえ開かなければ、彼に文句をつけるところはない。
口さえ開かなければ、だ。口を開けばまるで機関銃のごとくに悪口雑言が繰り出される。
僕はやはり彼が嫌いなのだと、最近はやっとそう思えるようになって安心していたのだが……。
マルフォイは本棚にへばりつくようにして、上の段に手を伸ばしている。上にある本を取ろうとしていて、それで届かないようだ。誰か他にいれば体格のいい取り巻きに上段の本は取らせるのだろうけれど、あいにく彼は図書室には一人で来ることも多い。ぎゅうぎゅうに詰め込まれているのでその本には手が届いているようだけれど、引き出すことができないでいた。本の上部の角に手をかけられれば取り出せるのだろうけれど、あと少しで届かないようで。
僕は、つい苦笑してしまう。
可愛いなどとは、言えないけれど。
僕は、気付かれないように彼の後ろに回りこんだ。本に手を伸ばすことに夢中になっているようで僕の存在には気付かなかった。彼よりも僕の方が少しだけ手が伸びるから……彼が目的としていた本を引き出した。
僕の親切に嫌味を言われるのであれば、彼の背が低いことを馬鹿にすれば良い。
そう、思ったのだけれど。
マルフォイは、目を大きく見開いて、僕の顔をじっと見ていた。
………マルフォイは、僕に何も言って来なかった。
(……これは?)
これは、どちらの彼なのだろう?
また、あの時のマルフォイなのだろうか。
この前、キスをした……またあの時のマルフォイなのだろうか?
「……、ありがとう」
消え入るような、小さな声。マルフォイは、謝礼など言わない。受ける好意を当然と受け止めているから。それに僕からの好意は、全部それの裏の意味を考えるから……。ありがとうなどと、きっと口が裂けてもいわないはずなのに。
これは……スリザリンの威張り散らすことで君臨しているマルフォイとは違う?
だとしたらこの状況は……マルフォイを僕と本棚で閉じ込めるようなこの体勢は、
(………まずいかもしれない)
彼は目的の本を手にして、それを胸に抱きかかえるようにして、俯いた。
ここからだと彼の顔は見えないけれど、その代わりにすっきりとした陽に焼けたことなどないだろう白い項が見えた。白い、陶器のような肌。明るい色をした髪が、少し覆っている。
綺麗な色で……。
ここに、キスをしたら……ここにその痕を残したらきっと綺麗な赤になるだろうと、そんなことを思って。
「……マルフォイ」
彼の耳に声を入れるように、唇を近づけて彼の名前を呼ぶと、彼の身体が強張る。
大して身長は変わらないのに……少しだけ、拳一つ分くらい僕の方が高いけれど、比べると本当に華奢。きっとウエイトは僕よりもはるかに軽いに違いない。
冷たい色をした瞳が、潤んで、僕を見た……。
ああ……。僕は覚えている。
僕の理性がどこかに飛んで行ってしまいそうだ。
(これは、彼だ)
この前、僕がキスをしたマルフォイだ。
眩暈がしそうだ。
僕は、あの時のキスの感触を忘れられないでいた。柔らかく、濡れていて、熱い……。
後ろから、抱きしめる。
ここは、誰もいないわけではないのに……。
いつ、誰が来るかわからないのに。僕は、もう一度、忘れたくなくて、確かめたくて。
マルフォイの顎を少しだけ持ち上げて、僕の方に向かせて……。
僕達は唇を重ねた。
この、感触。
身体の芯が熱くなるような……。忘れてなかった。柔らかくて、優しくない熱を持ち僕を溶かす。
僕は噛み付くように彼の唇を食べる。
前よりも、もっと荒々しく。
僕は彼の唇を求めた。
止まらない。止められない。止める気すら起こらない。
(何で?)
何で、抵抗しないの?
ここはみんないるんだ。
「……っん」
息苦しそうに、彼が息継ぎのためわずかに唇を離し、開く。その隙間から僕は舌を捻じ込んだ。
僕は、もう押さえが効かないよ。
何で嫌がらないの? 君が抵抗しないと、見つかっちゃうよ。
僕達は、こんなことをする間柄じゃないでしょ?
ぐるぐる回るだけの思考回路で僕は彼を責めた。それでも止まらない。
マルフォイの体重が僕にかかった。それは嬉しい重さだったのだけれど。僕に預けてくれた重さ。
キスの合間に漏れる吐息が熱くて、彼の口の中が熱くて、触れ合う頬が熱くて。
身体中に、その熱が充満する。
唇の間から、唾液が溢れる。僕のものか、マルフォイのものかわからないけど。
僕は舌で彼の口の中を蹂躙した。歯列と上顎を舐めて、舌を絡める。
その度にかすかにマルフォイの苦しそうな吐息が漏れる。
もっと……もっと、その声が聞きたいんだ。
止まらないよ。止められないんだ。
(何で、抵抗しないの?)
抱きしめる腕に力を込めた。
何だろう、この執着は。
これは、マルフォイなのに。
記憶が跳んでしまうぐらい長い時間僕達はキスをしていた。それとも、ほんの一瞬だったのかもしれない。
少しだけ、唇を離す。
彼の顔が見たかったから。どんな目で僕を見てくれるのだろうかと、そう思ったから、少しだけ僕達の間に隙間を作った。
開放されたことで、マルフォイが吐息を漏らした。その熱に僕がまた煽られるのを彼は気付いていない。
少し放心状態で、それでもマルフォイの視線はとろりと潤んだ瞳で僕を捕らえていた。
ぞくぞくした。
背筋に熱いものが昇る。
充血していつも以上に紅い唇は濡れていて、うっすらと開いたそこから温かい吐息が漏れる。いつも真白い頬はうっすらと朱色に染まっている。
君も、僕と同じように感じてくれたのだろうか? 気持ちよいと思ってくれたのだろうか。
僕が彼を求めるのと同じ位の強さで、彼が僕を感じてくれていればいいと思う。
(何だろう)
僕達は、見つめ合う。
放せない……。
「ハリー? そっちにあった?」
突然、近い場所から僕の親友の声が聞こえた。
僕は慌てて彼の体を放し、声が聞こえた方向に顔を向けた。
見つかるわけにはいかなかったから。僕達の間に距離を作った。その隙間から突然冷たい風が吹いた気がした。急速に冷える温度。
今までの熱も奪い去るように。
視線をマルフォイにもどすと、彼はいつものように冷たい色をした瞳に戻っていた。さっきまでうっすらと朱かった頬もいつものように青白いくらいの白い肌に戻り……。手の甲で唇を拭っていたから……今のことが現実だった証拠となる。僕も彼に習い自分の唇に付いた唾液を親指で拭った。
「ハリー?」
僕達がいる本棚の影から、ロンが顔を覗かせた。
それと同時に、僕の脇をすり抜けるようにして、ロンにわざとぶつかって、マルフォイが逃げるようにして去っていった。
「ロン、こっちにはなかったよ」
僕は、いつも通りの口調に戻っていただろうか。
マルフォイがぶつかって、体勢を崩したロンが、しばらく目を丸くさせていたが……。
「何かあったの?」
「別に、いつものだよ」
僕はロンの顔も見れなかった。
◆ ◆
いつも通り。
いつもと同じ。
……戻るはずだった。
あれから、僕達は人の目に付かない場所に二人でいると、キスをした。
誰もいない廊下でキスをした。
中庭の樹の影でキスをした。
みんなが出て行った後の教室でキスをした。
僕達は、抱き合って、僕は彼の細い腰に腕を回して、マルフォイは僕の首にしがみつくようにして、何度もキスをした。
僕はこの行為をやめようと思わなかったし、そこに彼がいれば止まらなくなることを自覚していた。
いつも周囲にいたスリザリン生も最近はそれほど周りにいなくなった。
僕も怪しまれない程度に親友達との別行動が多くなった。
授業が終わった後や、廊下ですれ違う時に視線をぶつけたり、嫌味を言い合うのはいつものことだったけれど、最近は僕もそれを楽しんでいる節すらある。
わざとぶつかって行って、彼のローブのポケットに手紙を忍ばせたり、周囲には気付かれないように教室に残るように視線で合図したりするのも面白かった。彼はその意味を持つ僕の視線をを受ける時はつまらなそうな顔をしていたり、馬鹿にしたように笑ったりしていたけれど、二人で会う時は、僕に僕の好きな笑顔を見せてくれた。きっと、誰も知らない笑顔だ。
僕は、初めて彼を僕の知る部屋に連れて行った。
ホグワーツには隠し部屋がいくつもある。使われていない空き教室など、二人きりになれる場所はいくらでも見つかった。
その中でも、もともと応接室にでも使われていたのだろうか、ソファとローテーブルが置かれている部屋があったから、僕はそこに彼を誘った。
部屋に入ると、彼は緊張した面持ちで部屋を見渡していた。
「マルフォイ……おいで」
僕が彼に手を差し伸べると、彼は少し顔を赤らめて僕の手をとり、そして僕の身体にその身を預ける。
体温を交換し合うように、僕達は抱き合った。
マルフォイは僕の隣り……身体が密着する位置に座って、僕に体重を掛けた。
僕は彼の肩に手を回し、そのまま抱き寄せて、いつものようにキスをする。
何回キスをしたのだろう、僕達は。
触れるだけのキスをすると離した時にふと漏らす吐息とか、唇を舐めるとうっすらっその唇を開くことや、舌を絡めた時にどんな風に動くのか、長いキスが終わった時にどんな表情を僕に見せてくれるのか分かっている。
キスはもう数え切れないくらい交わした。
どんなに昼間喧嘩したあとでも、二人になれば僕達は抱き合ってキスをした。
おかしいとか、間違ってるとか、思わなかった。
それどころでは無かった。
君の視線で、僕は熱くなる。
不思議な感覚だった。
二人になると、マルフォイは僕をじっと見た。込められた視線の意味を僕は理解しているつもりだ。それは合図で……。
僕を求めている、僕を欲しがっている合図だった。
だから、僕は誰にも邪魔されない場所にマルフォイを誘った。彼はおとなしくついて来た。
もう意外だとは思わない。
一人でいる時のマルフォイは僕を求めてくれる自信があったから、僕は彼が一人でいる時は無理矢理にでもキスをした。
僕は彼の身体を引き寄せた手で首を僕の方に向け、キスをした。
従順な態度で彼は僕にその身を預けてくれた。いつも悪態を吐く為にしか回らない口が、僕からの口付けを受け入れる。
彼の腰を抱き寄せればマルフォイは僕の首にその細い腕を回した。
何だろう……。
これは誰なんだろう。
|