■
マルフォイに会ったのは、マグルで。
それは本当に偶然の事だった。
魔法界に居ると、僕はどこに行っても英雄で、それ以外の役職はなくて、僕は何をしていても騒がれて、噂好きな魔法使いの中では、特別扱いされて……僕はもう、英雄じゃなくていいって。普通に暮らしたいだけだって。そんなささやかな願いは聞き入れてもらうことすら叶わずに、仕事もせず引きこもっていたけれど、いい加減に嫌気がさして、マグルに逃げたのは、卒業してから一年後。
誰にも言わず、ある日、突然逃亡した。
協力者が独りも居ない状況は厳しかったから親友には言ったけど、親友も僕を取り巻く環境に同情してくれて、連絡先を教える代わりに、口外しないって約束してくれた。
その時から僕は魔法使いの、世界の危機を救った英雄なんかではなくて、マグルの一般な、極めて平均的な目立たない、特に何のとりえもない、ただのサラリーマンになった。
本当にごく普通のどこにでも居るマグルで……彼女も居たり居なかったり。半年前に喧嘩別れしてそのまま独り身を楽しんでいたりするけれど、そろそろ一人が寂しくなってきた頃。
マルフォイに会った。
僕がここにいることはロンとハーマイオニー以外誰も知るはずが無い。親友達が僕を裏切るなんて事はあり得ないから、本当に偶然だった。
偶然、僕とマルフォイはマグルで再会した。
■
休みの日、いつものごとく自炊する気も起きなくて、近くのパン屋に買いに出た時に、女の子が好みそうなお洒落なオープンカフェで、ライトグレーのスーツを着て、優雅に紅茶を飲んでいる、モデルみたいな人を視界の端に見止めた。
細身の身体と、透けるくらいに真っ白な肌と、きらきらと光るような、明るい金髪が印象的だった。
僕の思い出の中にも、一人だけ同じくらい明るい髪を持っている人を知っていたけれど、ここにいるはずも無かった。視界の端にモデルみたいな人が居るって確認して、雑誌に載るような人なのか確認する野次馬根性も起こらなくて、僕はそのまま横目で見て、通り過ぎようとした時。
「Mr.マルフォイ、探しました。こちらにいらしたのですか」
誰か黒いスーツの男が、突然現れて、彼に声をかけた、から。
僕は、聞いたことのある名前に耳を疑った。
………今、マルフォイって………。
僕は、二度見をしてしまった……。
確かに、あの明るい金髪も、少し尖った顎の綺麗な横顔もマルフォイ………だった、けど。
確かに、僕の記憶に彼の顔はあった……けど……!
「悪かった。マグルに興味があったんだ。時間までにはホテルに戻るから、しばらく一人にしてくれないか?」
声は、僕の記憶よりも少し低くなった気がしたけれど。
「ですが……」
「一人にしてくれないか?」
彼は繰り返した。柔らかい声音だったけれど、わざと不機嫌を隠した温度を読みとれない人は居ないだろうと思えるような、そんな言い方だった。
「……では、時間までには必ずお戻り下さい」
そう言い置いて男は、誰にも気付かれることなく、するりと空間に姿を消した……から。
間違いない。
さっきの男だって、黒いスーツとか着てて魔法使いらしくない服装だったけど、今、絶対に魔法を使って姿を消した。
だから、つまり他人の空似どころじゃない。
「…………マルフォイ」
今、マルフォイって言ったよね?
そう、思って……。
僕は声を……かけてしまった。
彼は紅茶を一口含んだ所で僕の顔を見た。
「…………っ!」
僕の顔を見て……目を丸くした。
しばらく、彼の凍るような青い瞳は僕を見ていた。つい、声をかけてしまったけれど……僕は魔法界から逃げたんだ。
関わりを持っちゃ、いけなかったんだ。
それに……僕と、マルフォイだ。本当にマルフォイだった。久しぶりの再開に喜び合うような仲でもなかった……。
つい、声をかけてしまったけれど……
と思うや否や、彼は口に含んだ紅茶を、思い切り吹き出した。
吹き出した紅茶は、僕の顔を目掛けて噴射された。
「っ、何するんだよ!」
「……ポッター!」
「いきなり紅茶かけるなよ!」
「ハリー・ポッターじゃないか!」
「出会い頭に何の嫌がらせだ!」
「突然失踪したと思ったら、お前、マグルなんかにいたのか!」
「謝れよ、マルフォイ!」
「ポッター、久しぶりだなあ」
マルフォイが吹き出した紅茶をびしゃりと浴びてしまった顔を袖口で拭いながら抗議した僕の会話と噛み合って無いことに気付かないのか、マルフォイは立ち上がって僕に握手を求めた。
僕は、袖口で拭いた方の右手を、しばらく考えてから、数秒後に差し出した。
「………久しぶり」
彼はその間を気にせずに、僕の手を取った。僕の手に絡んできた指先は、僕の記憶の通りに冷たくて、細かった。握られた手に僕の心拍数はそれだけで上がりそうだったのに、彼は何も気にせずに僕の手をしっかりと握る。込められたのは、再会の喜びと、かつての同窓生への友情だろうか。
「ああ、十年かな。久しぶりだ」
つまり僕がマルフォイに触れたのが十年振りって事だ。こんなに、久しぶりなのに。
久しぶりに会ったマルフォイは、僕が今だかつて見たことがない満面の笑顔で……。
僕が知らない人のようだ。
「そうだね……」
久しぶり……すぎるよ。
十年なんて……久しぶりすぎて、忘れてたよ、君の事なんか。
変わらず、美人だし。立ち居振る舞いも上品だ。隣の席の女の子達がチラチラ見てるの気付いてないのだろうか。気付いているかもしれないけど、なにも気にしていないのは解った。そんなの昔からだもんね。
昔と違うのは、少し背が伸びた? 髪型も変わった。中性的な容貌だったけど、線は細いけどちゃんと男の人に見えるようになった。
「マルフォイは、何でマグルに?」
「仕事だ。最近、あっちでもマグルの製品が売れるんだ。規制もだいぶ緩和されて、今はマグルに見学に来ている所だ」
「へえ……」
最近の魔法界の事情にまったく関わっていないから、今何が流行ってんのかとか、学生の頃によく行ったお店のマスターはまだ元気にしているだろうかとか、さっぱりわからない。
「ポッターは?」
「僕は……普通だよ」
ぼくはいたって普通。一般的。魔法界に居た頃と違って、何もない。騒がれる事もないし、これと言って秀でたこともない。魔法が使える事は、マグルじゃ履歴書に書けない特技だ。
「そうか」
「じゃあ……」
僕は、それ以上話す事もなくなった。本当に普通なんだ。特記すべき事もないくらい、毎日同じで仕事と家の往復。仕事でできた友達はいるけれど、親友と呼べる程の付き合いにはならない。仕事帰りに少しバーで仕事の愚痴を並べる程度の付き合い。誰が聞いても本当に普通だって思うような生活をしている。
それは、僕が選んだ生活なんだ。僕が今そうしたかった。不満もない代わりに、楽しいとも思わない。とにかく平和という言葉に置き換え可能な何もない日々。
マルフォイと会った。
だけど、僕はあまりにも普通で、望んでてに入れた普通に僕は満足していて、だからマルフォイと関わることで少しでも今の僕の生活を壊されたくなくて、早く話を切り上げて目的地のパン屋に向かおとした。
「ポッター、何処に行くんだ?」
「……パン屋」
「そうか。僕も一緒に行く」
いいけど……。
「普通のパン屋だよ?」
特に雑誌で紹介されたこともない普通のパン屋で、美味しいけど三ツ星と太鼓判を押せるほどでもない普通においしいパン屋。店を切り盛りしている気のいいおばさんが気に入ってるけど、ここの生活を離れたら二度と来ないだろう程度にお気に入りのお店だ。
「マグルを見てみたいんだ。普通のパン屋の方が楽しそうだ」
マルフォイは、本当に箱入りだったから、見るものすべてが珍しいらしくて、何でも無いものを見ては歓声を上げて喜んでいた。こんなに喜ぶなら、ちゃんとマグル学勉強しておけばよかったのに。
そんなマルフォイを横に連れて……僕は、何やってんだろう。
しかも、家から徒歩数分のパン屋に行くためにデニムにネルシャツの僕と、すっきりしたスーツを綺麗に着こなして歩いているだけで人目を引くモデルみたいなマルフォイ……。
その美貌はやっぱり昔から変わらないけど……だからこそ。
ひどく、目立った。
ご近所付き合いに力を入れているわけではないし、仲の良い人も居ないけど、顔見知り程度には知り合いだから、ここでこんな風に目立つのは僕としては本意ではないのだけど。
「じゃあ僕は帰るから。マルフォイもマグル見学楽しんでね」
「ポッター。僕もポッターの家に行ってもいいか?」
純粋に、マグルを楽しもうとしているマルフォイに僕は溜息を吐き出したくなった。
「………いいけど……狭いし、散らかっているよ」
断る理由が、見つからない。
本音は言いたくない。
あまり……二人きりになりたくないんだ。
二人きりになったら、何を口走るか解らない自分が居るんだ。
■
「……本当に狭いし散らかっているな……」
マルフォイは、僕の部屋に入ると呆れた声を出した。確かに本当に散らかってる。昨日着ていたジャケットがソファーの上に投げ出したままだし、布団は起きた時のそのままだ。ワンルームでシンクには使い終わった食器はまだ洗ってない。
確かに誰がどう見ても散らかってるけど、普通は素直な感想を言わないものだと思うけど。
「狭いのは、マグルだから仕方ないとしても、散らかっているのは、お前が片付けないからじゃないのか?」
「……君は本当に昔から嫌味が上手いね」
「嫌味に聞こえたなら、自分が恥入っている証拠だろう? 成長する見込みがあるということだな。僕は本当の事しか言っていないのだから」
マルフォイはさも当然のごとく当然の事を言った。言い方は尊大で、マルフォイが十年振りに再会しても未だにマルフォイだったことをちゃんと理解させてもらえるような台詞をどうも有り難う。反論する気にもならない。
成長の見込みなんて恥と感じるかどうかよりも、ただのやる気の問題で、僕はこの部屋でも残念ながら問題なく暮らせる。
「……何で、僕は君なんかと付き合ってたのか、未だにあの頃の僕が、解らないよ」
見せつけるように大袈裟に溜め息を吐いて見せると、マルフォイは声を上げて笑った。
「それは、お互い様だな」
……お互い様、ね。
笑うマルフォイを見たくなくて、僕は顔を逸らした。君は、本当にそう思っているんだ? 悪びれない態度に、マルフォイの中に嘘は見いだせなかった。
君には僕が今言ったの、嘘だなんて、思いもよらないだろう?
君は、ただの過去の事なんだ。
昔の話として笑いあえるような関係ならば、それならきっとお互いに良いのは解ってるけれど。
「それに、君は昔から我が儘だったし」
無言の空気に耐えられなくなって、僕は思い付いた事を言う。僕だってマルフォイに嫌味を言うのは同じだ。どんな関係になってもこれは僕達のアイデンティティのようなものだから、仕方がない。僕達の会話は、どうやって相手を傷つけるか、たくさん傷つけた方が勝ち。そんな会話を楽しむ相手なんて人生で一人で十分だ。
「仕方ないだろう? そうやって育ってきたのだから。お前だって強情で、いつだって自分の非を認めようとしなかった」
「それはお互い様じゃない?」
「そうだな、お互い様だ」
お互い様だ。僕達はどちらも自分を譲れなかった。一歩だって譲歩出来なかった。
もし、譲歩出来ていたとしても、僕達があの時の関係を維持できていたとは思えないけれど。
「………」
困った。
会話が続かない。どうしようもなくなって、言いたくもない話題を持ち出したというのに。思い出したくもない話。
マルフォイは僕の部屋の様子、天井や本棚を眺めて居たけれど、僕は何の珍しさもない長年暮らした部屋だ。珍しいのはマルフォイの存在だけれど、何を言っていいのかも解らない。自分の部屋なのに、途端に居心地が悪くなってしまったようだ。
何かを言おうと思ったけど……喧嘩、したいわけじゃない。せめて、今日だけなんだから再会した事に喜んでもいいはずだ。同じ寮で、一緒に勉強をした友人にこうやって偶然に再会したら、僕はきっと懐かしさに喜ぶだろう。その態度をとれば良いだけなのに、僕は相手がマルフォイだってだけで、もう十年も経つのに未だにどうしていいのか解らない。
僕がこうやって自分の部屋で酸素を求めたくなるのは、相手がマルフォイだからだろう。
「マルフォイ、紅茶でいい?」
結局、そんな言葉しか見つからない。
「ああ。アッサムはあるか?」
「知らないよ。ただの安売りのティーバッグだ」
マルフォイは、着ていたグレーのジャケットを脱いで、ソファーの背に軽く投げる。
ジャケットを脱いだって事は、すぐに帰る気はないようだ。
僕は適当にソファーの上の荷物をどけて、一人分ぐらいの座るスペースを作ってから、僕はキッチンでお湯を沸かす。
「マグルの写真は本当に動かないんだな」
リビングにいるマルフォイを横目で確認すると、ソファーに座らずに、立ったまま僕の部屋にある雑誌を捲っていた。
別に、散らかっているけど、座るぐらいは……そんなに汚くはないはずなんだけど。
僕達は、付き合っていた。
昔の話だけど。
昔、あの頃、誰よりも僕はマルフォイが好きだった。
マルフォイも僕を好きだと言ってくれて、誰よりも僕が好きだって、そう言ってくれて……。
学生の頃、僕達は付き合っていた。
誰にも秘密だった。
この秘密は親友達にも打ち明けたことはない。
好きだった。
他に何も見えなくなるほど、僕はマルフォイが好きだった。
……結局、別れたけど。
だから、僕はこうしてマグルにいて……マルフォイは今何をやっているんだかわからないけど。十年ぶり。
結局、僕がいくら君を好きでも、君は僕を選んでくれなかった。僕は僕で君に選んでもらえるだけの努力はしなかった。
お互いに納得して、別れたわけじゃない……そんな事があったなら、まだ引きずらなかっただろうし、もしかしたらマグルにも来なかったかもしれない。君をもし手に入れていたのであれば、僕は魔法界を離れることはなかったかもしれない、そう思うくらいには、僕はマルフォイが好きだった。
結局、昔の話だ。
僕が、完全に英雄に祭り上げられた後、マルフォイはもう僕を見なかった。あの頃はもう僕の存在なんてどこにもなくて、僕は英雄って偶像に僕を全部レンタルしてしまっていたのだろう。英雄じゃなくて、ただの僕はマルフォイが好きだった。
マルフォイは闇の陣営だったけど。
あの時、マルフォイには世界中が敵で、僕はあの時何の面白味もない祭り上げられた正義だった。
それでも、僕は彼が好きだった。
君もいないのに、あそこに居たって僕は何も面白くないから……とは、結局ただの言い訳かもしれない。
マルフォイと別れて、卒業して、周囲の環境は劣悪で。だから、逃げた。もし、あの時マルフォイと別れていなければ、違った結果になっていたかもしれないけれど、結局こうやって逃げ出していたかもしれない。
僕は、本当に君が好きだったのに……。
ケトルが甲高い音で鳴り出した。
お湯が、沸騰した。じっと見ていたのに、鳴るまで気が付かなかった。
「ポッター! 何の音だ?」
「お湯が沸いたんだよ」
「マグルではお湯が沸くと、こんなにうるさいのか? それに時間がかかるし」
「仕方ないよ。時間がかかっても沸くんだからいいじゃないか」
ティーバックを入れたマグカップに熱湯を注ぐと、茶色が染み出してくる。マグカップの中をぼんやりと見ていると、すぐ後ろにマルフォイが居た。別に見られて困るようなことをしているわけではないし、ティーバッグにちゃんとした手順も作法もないだろうけど、なにか手元が狂ってしまうような気がする。
「座っててよ。キッチンも汚れているんだ」
「汚いぐらいはここに入った時から諦めている。せっかくのマグルだ。面白いからいろいろ見せてくれ」
「僕は気にするんだよ。あまりいい生活をしてるわけじゃないから恥ずかしいんだよ」
「そうか。掃除をする気になったのならば、いい兆候だな」
「うるさいなあ」
マグカップに入れた紅茶を渡すとマルフォイは優雅な動作で受け取って、一口飲んで、眉間にシワを寄せた。どうせ取り寄せたようなグラムいくらで売っている高級な茶葉を正しい手順で煎れた紅茶しか飲んでいないだろうから、マズイって言いたい事ぐらいはその表情から読みとれたけど、さすがに口に出すことはしなかった。
「砂糖は?」
「入れてくれ。なるべくたくさん。ミルクはあるか?」
「あるよ。ただだいぶ古くて、お腹壊す可能性あるけど」
「………」
マルフォイはいつも紅茶をストレートで飲んでいたから……よっぽど不味かったんだろう。僕は味にはあまりうるさくないけれど、マルフォイは味覚が敏感なのだろう。嫌いなものは、みじん切りやペーストで入っていてもちゃんと残していた。
「あまり長居はできないんでしょ?」
あまり、マルフォイを僕の所に置いておきたくない。
「何故だ?」
「さっき、男の人と話してただろ?」
時間までに戻るとか、偉そうな態度で言っていたよね。それでもそれがしっくりきてしまうような存在感だったのだけれど。
彼は数秒考えてから、ああ、と思い出したように言った。
「別にかまわない。が、心配させると後がうるさいから後で連絡を入れる」
なんかあの男の人、顔も覚えていないけど、少し同情したくなった。きっと我が儘なマルフォイに、胃を痛めたりしているのだろう。別に何も気になって居なさそうなマルフォイはこんな態度が頻繁なのだろうか。
……それに、僕は、構うんだよ。
君にここに居られると、また喧嘩してしまいそうだ。
あの時の事を、詰りたくなってしまう。
こうやって、よく笑って明るく振る舞える君には、もう過去の事なんだろうけど……僕には。
「なあ、ポッター、覚えているか?」
「何を?」
なるたけ、素っ気ない口調で言えたと思う。
でもそれがどんな些細なことでも、僕は覚えている。君との思い出を、一つだって忘れたことなんかない。
いい加減情けないと思うけど、ちゃんと好きだって思える女の子も居たけど、君のことを忘れられなかった僕は、やっぱり情けないと思う。
全部覚えてる。何も忘れていない。
好きだって告白したのは、君からだった。
僕達が付き合い始めたのはまだ、あの戦いも激化していない頃。だから、本当に子供の頃だった。
ある日、マルフォイとぶつかった。
いつも通りわざとぶつかられた事はわかったから、肩を強打されて痛かったけど、いちいち振り返る事も無く、無視して通り過ぎた。
だから、僕のローブのポケットに入れられた手紙の存在に気が付くのが、酷く遅れてしまった。僕がその存在に気が付いたのは、夕食が終わってから。
部屋に戻り、ローブを片付けようとしたら、ポケットから一枚の封筒が落ちた。
差出人はマルフォイ。
接触は昼間のあの時だけだったから、いつ入れられたのか、は疑問に思わなかったけれど、マルフォイだったら、蛙とか蛇とか、そう言った悪意のあるものを入れてくるから……手紙だなんて、それが不思議に思った。
【夜八時、西塔の五階、左から三番目の部屋で待つ】
簡単にそれだけ。何でマルフォイが僕を待っているのか解らなかった。単純に考えても良い事じゃないのは簡単に察しが付いた。二人で今までの決着でもつけようという気なんだろうか。
時計を見たら、もう時間は過ぎていた。要件も書かれていない、味気の無い手紙を僕はそのまま破って棄てた。
大した話じゃないだろう。それよりも、もし行ってしまったら、酷い目を合わされるのがオチだ。きっと何かを仕掛けてくるに決まっている。無視するのが妥当だと思うし、一番正しい答えだと思ったから、当然罪悪感も生まれない。
マルフォイはハーマイオニーほどじゃないにしてもいつも優秀な成績だから、勉強も忙しいはずなのに、よく僕なんかに嫌味を仕掛ける暇もあるよな。そんな事に感心して、宿題を広げたけど……。
しばらくして少しだけ気になって、魔法の地図を広げてみた。
西塔の5階。東から3番目の部屋。
確かに地図はそこにマルフォイが居ると言っている。すっぽかされるとの予想ぐらいは、僕とマルフォイの仲だ。予想ぐらいしてもらっていると思うけれど。手紙に気付いたのだってほんの少し前だし。罪悪感は生まれなかった。
ただ、疑問に思ったことが、他に、誰の足跡も無かった。マルフォイのことだから呼び出しておいて、何か仕掛けて来るんだと思っていたから……一人で? 暗い中、誰も居ない、誰も使わない場所に、そんな勇気が彼にあるのか、と思うと少し見直した。本当に少しだけだけれど。でもきっと用意周到に何かを仕掛けているのかもしれないのは、疑わなかった。
宿題も、提出は明日じゃない。ロンも談話室に行ってしまったし、今暇だったから、というそんな理由。
マルフォイが虚勢を張っていても、マルフォイが一人だと言うことは僕が解っているんだ。喧嘩になったりしたら、勝てるかどうかはわからなけど、マルフォイに負けるつもりもない。
【夜八時 西塔五階 左から三番目の教室】
僕は口の中で繰り返す。
夜八時は過ぎてしまっているけれど、それでも相変わらずその場所でマルフォイは待っていたから。いつまで待つつもりなのだろう。
それが気になった。
もう一時間ぐらいマルフォイは僕を待っている。
マルフォイが僕に待ちぼうけを食らっている姿を見たら、気分がいいかもしれないと思ったんだ。
もし、僕が来たことに気づかれたとしても、話ぐらい聞いてやろうと思ったんだ。
【西塔五階 左から三番目の教室】
そもそも西塔なんて、めったに使わない。時々偏屈な教授が使うけど、使うとしても五階まで行く事なんてないから……そんな場所を指定してきたマルフォイは、やっぱり何か企んでいるのだろうと思った。
暗い。
何か、出てきそうだ。こんな暗い中、マルフォイは一人でいる……って、恐がりなはずの彼に何があるんだろう。
西塔の五階のその部屋は、教室、というよりもむしろ、一つの部屋として使われていたのか。古ぼけたソファーが一つと、ベッドが一つ。壁に掛けられた誰かの肖像画は、斜めになって、眠っていた。扉は、開いていた。
「マルフォイ?」
彼はソファの上にいた。窓から、うっすらと射す月明かりで、窓を向いたソファに明るいプラチナブロンドが見えた。
声をかけると、マルフォイは肩をふるわせてから、マルフォイは振り返って僕を見た。突然声をかけられて驚いたのか、マルフォイの目に少し涙がたまっていたような気がしたけど、暗かったし、僕の目はよくないから気のせいだったかもしれない。
「約束は八時だったはずだが」
横柄な態度だったから、少し声が震えていたと思ったのは、きっと僕の勘違いだろう。
「僕は約束なんてしてないよ」
約束は一方的なものだ。僕はマルフォイに手紙を知らないうちに渡されたけど、読んでいたとしても僕が来るなんてそんな約束はしていないんだ。
「で?」
何の用?
わざわざ僕をこんな所に呼び出すなんて。覗いてみたところ、この部屋に何か仕掛けがされているとは思えない。それとも僕が用心して見たぐらいじゃ解らないほどに巧妙な嫌がらせを考えているのだろうか。
恐がりなはずの彼がこんな場所に一人で僕を呼び出すなんて、きっと渾身の罠が仕掛けられているに違いない。
何だろう。
彼が罠を仕掛けているなら、きっと会話は僕の気を逸らすための手段だろう。どっかから蛇とか降ってきたりするんじゃないだろうか。
「ああ、ポッター。お前の事が好きだと言いたかっただけだ」
「………」
何が、待ちかまえているのか、僕は用心深くマルフォイの周囲を伺う。きっと彼のことだから何かを仕掛けているはずなのに、特に、何かが起こる気配もない。
……何だ? 僕はマルフォイの目的が解らない。
「言いたいことはそれだけだ。帰る」
「え? ちょっと待ってよ」
帰るって? 僕はまだ嫌がらせを何もされていない。嫌味だって言われてない。いや、だからって何も僕は彼を引き止める必要はないんじゃないか?
何もなく終わればそれに越したことはないんだ。
マルフォイが今僕のことを好きだって言ったくらいで………
好き?
「え……?」
「じゃあな」
「……マルフォイっ! ちょっと待ってよ」
僕の前を通り過ぎようとしたマルフォイの腕を掴んでしまった。痩せているとは思っていたけど、細い腕だった。
腕を掴まれたマルフォイは、一瞬だけ身体を強ばらせたけれど、うつむいて、僕を見ようとしなかった。
「……何だ?」
「今、なんて言った?」
「二度も同じ事を言えるか」
「だって、今僕は、好きだって聞こえたんだけど?」
「そう言ったつもりだが」
「………」
僕は。
開いた口が塞がらなかった。
冗談でも、度を逸した冗談だと思った。僕達の仲でその感情だけはあり得ないと……。
「冗談、でしょ?」
「………お前がそう思いたいのであれば、それでいい」
マルフォイの声は、ほとんど消え入りそうに、震えていた。
僕はそれでもその時まだ、彼を信じることが出来なかった。何か、僕をはめるための罠だって思って、警戒を解くことが出来なかった。
出来るはずが無かった。
だって僕はハリー・ポッターで、彼はマルフォイだったから。
呆気にとられた僕は、マルフォイの腕を掴む手の力が抜けた。その時の僕に引き止めてまで彼と話をする気もなかったし、何を話していいのかだなんてわからなかった。
放さなければ良かっただなんて思ったのは、それからしばらく経ってからだ。
それ以来、マルフォイは僕を見なくなった。
見ないどころの騒ぎではなく、僕に対する嫌がらせや嫌味、やっかみにも見える侮蔑もなくなった。親友達もあからさまな彼の態度の変化に、警戒の色を隠せないようだったけど。
静かになって良かったって、思ったのは、本当に数日だった。
いつもなら、目を合わせたら睨まれて、近寄ってきて嫌味を言われるからこっちも身構えるのに、目が合ったら逸らされる。
通りすがりに肩を思い切りぶつけられることもなくなった。向こうからやってきても顔を伏せて素通りか、踵を返して……。
それは、本当は僕が望んでいた世界じゃないのか? 何もないし嫌味も言われないし、あんな嫌な奴と関わりのない日常は僕が欲しかった世界だったはずなのに。
マルフォイは、もう僕を見ない。僕は、それを望んでいたはずなのに……僕は彼が僕の知らない友人と話しているのを見るだけで、とても身体の内側、胃とか肺とか、内臓が黒くなるような、そんな嫌な気分がしたんだ。
彼は、もう僕を見ない。
喜ばしい事じゃないか。
親友達だけじゃなくて、ホグワーツの生徒も僕達の違和感に気付き始めている。勿論静かでいいって意味だと思うけど。
静かでいいんだ。何もない方がいいんだ。言われて気分が悪くなるような言葉ばかり投げられ、それが好意の裏返しだったなんて今更言われたって、取り返しなんてつかない。
僕は君を嫌いなのに代わりはない。
マルフォイのは、僕を見ない。
つまりそれは、あの時の、彼の言葉が本当だったってそう言う意味じゃないのか?
ようやく、彼の言葉が僕の心に伝わったときは、こんな風にほとんど手遅れだった。
このままだったら、僕達は本当にこれで終わってしまう。
それでいいはずなのに、そうすればきっと僕達は互いに煩わしい思いを抱く事もなく終れた。
僕は、それが嫌だった。
もう一度、僕を見て欲しかった。
「マルフォイ!」
僕は、彼が一人でいるのを見つけた。都合のいいことに、人気のない廊下だった。
こんな都合のいい場面を見つけるために、ここ一週間ぐらい僕は必死で彼を見張っていたのだから、当然だ。
なかなか一人にならないマルフォイの親衛隊のように周りに常にいるデカブツを餌でおびき寄せてようやくのチャンスだ。
彼は僕の姿を見ると、あからさまに眉根を寄せた。
仮にも、僕を好きだと言った人のする表情じゃないと思う。
それとも言ってしまったことで、もう終わりだなんて思っているのか?
「マルフォイ、待ってよ!」
終わらせてやるつもりなんてないから。僕達は仲が悪いんだ。マルフォイの思い通りになんて動いてやらない。
「僕に何の用だ、英雄殿」
あからさまに顔をしかめなくても良いと思う。けど、それがマルフォイだ。
「この前のこと、もう一度話したいんだけど……」
そう言うと、マルフォイは僕に解るように大袈裟に溜め息を吐いた。もちろん、今僕達が話題に出来る事なんてこれくらいしかない。マルフォイが僕を避けていたのも、この為だ。
「何をだ?」
「何をって……君が、僕を……」
「好きだと言ったことか? 冗談だと思わなかったのか?」
馬鹿にしたような目つきに、素直に信じてしまった自分がとても情けないものに思えた。マルフォイが僕を好きだと言った言葉が、やっぱりただの冗談で、僕を攪乱させるための嘘だったと、それが真実でも何の不思議もない。
もう、マルフォイは僕に対して悪意の在る執着に飽きて、最後の嫌がらせとしてその手段を選んだと言われたら、それが真実なような気もした。
「……やっぱり、冗談だったんだ?」
「………」
マルフォイは、何も答えなかった。
僕はその時なんて言って欲しいのか、本当は解ってたんだ。嘘でも。
もう一度、好きだって言って欲しかった。
嫌われてても、僕は君に僕を見ていて欲しかった。
嘘でも、君は僕から離れないで欲しかった。
僕の、気持ちは、どうやら決まってしまった。
「君が……僕に好きだって言った」
冗談だったとしても、僕は君に離れて欲しくないって、そう思った。君がどう思っていても、君の真意が他にあっても、僕は君に僕の事を見ていて欲しいって思った。
「ああ。言ったな」
「僕はどうすればいい?」
「自分で考えろ」
他人に強要されるような事ではない。好きだとか嫌いだとか、感情は自分でもどうにも出来ない。他人が示した道を歩くなんてまっぴらだけど。
「答えは? 僕からの答えは必要ないの?」
言いたいことだけ言って、僕の反論は聞く気もないらしい。
「知ってるから、要らない。僕は言いたいことを言っただけだ」
考えなくても、その感情が僕達だってだけで、答えなんてもともと出てる事はマルフォイでも知っていたらしい。
裏側にある感情が何であっても、僕達は甘い感情で繋がっている関係じゃない。
でも、今の台詞は僕への気持ちが嘘じゃないって、冗談じゃないって、そういう意味だよね?
確信なんて、持てるはずなかった。
君が僕を好きだなんて、転地が逆さになってもあり得るはずがないと思っていたから。可愛い女の子が好きなつもりだったけど、女の子だからとか、男だからとか、そうじゃなくて……。
君は、ずっと僕を見ていた。そこに含有されている感情が何であっても、君はずっと僕を見てくれていた。
裏切られることが、怖いんだ。嫌われる事じゃなくて、裏切られるのが嫌だ。無くすことはもっと嫌い。嫌われていても、君はずっと僕を見てくれるだなんて、僕はそんな甘い期待をしていた。僕が僕だから、それだけで僕はそんな都合のいい事を求めていたらしい。
「僕が……僕も君を好きだって言ったら?」
「何の冗談だ?」
妥当な、反応を有り難う。即答だったね、君。
「冗談じゃないよ。ただの勘違いかもしれないけど」
「だったら、勘違いだろう。僕もこの感情は何かの間違いだとしか思えない。よく考えろ。そしてよく見ろ。僕は、ドラコ・マルフォイだ」
マルフォイは……マルフォイだった。
陶器みたいに血が通ってるのか疑いたくなるような白い肌とか、光に溶けてしまいそうな淡い色の白金の髪も、世界が透明に見えているのではないかと疑いたくなるような透き通る青い瞳も、整った顔立ちで人を見下したような態度も、ぴんと伸びた背筋も、ちゃんとマルフォイだった。
だから、間違いだと言う彼の意見はきっととても正しいのだろうけれど。
「僕も、ハリー・ポッターだ」
僕は僕で、君は君だ。だからこその関係だ。
「結論だな。では僕はもう行く。忙しい」
「結論だね。付き合おうか、僕達」
そんな驚いたマルフォイの表情は、今までに見たことがないと思った。
マルフォイは、ただ言いたかっただけらしい。僕の気持ちなんて何にも考えずに、ただ自分勝手に言いたいことだけ言って……それはいつも通りじゃないか。
「仮説を立てた段階で導き出せるような結論を捻じ曲げて理想を交えて答えを書くから、頭が悪いんだ」
「でも、昨日の実験で、マンドラゴラの根っこに馬の蹄とコウモリの目玉を混ぜると爆発すると思ったでしょ? 綺麗な藍色の煙が出るなんて頭のいい君でも知らなかった」
「お前は花火師にでもなるつもりか? 爆発しなかったから良かったものの」
「だからさ、僕達が恋人になったらどうなると思う?」
「どう考えてもろくな結末にはならないだろうな」
「それは実験も観察もして出した結果じゃないだろ?」
「試してみなくても解るだろ?」
「みなきゃ、解らないよ。微妙な配合によっては、いい結果が出るかもしれない」
「時間の無駄だと思うがな」
「結論じゃなくて、結果なんて僕だって保証できないけど、楽しそうな実験だと思わないかい?」
僕も、いい加減頭が悪いと思うけど。
僕は僕の結論が出た。
マルフォイを、僕のものにしたかった。離れていくなんて結論を出されるわけには行かない。
マルフォイは、大きな溜め息を吐いた。
僕は、それを了承と受け取った。
うまく行くはずないって、僕だってそう思ってた。マルフォイなんて僕よりもそう思ってたに違いない。
だけど、僕達は他の何も見えなくなるくらい、夢中になった。誰にも言えるはずのない関係だったから、表面上は今まで通り。でも僕達は誰にも言わないけど、二人きりで何度も会った。
「最近またうるさいよな、アイツ」
ロンが向こうから歩いてくるマルフォイを見て顔をしかめた。
「ほら、一時静かだっただろ?」
「そうだね。虫歯でも痛かったんじゃない?」
僕達を睨みながら近寄ってくるマルフォイ。馬鹿にして見下した表情で、ふんと鼻を鳴らして僕のそばを通り過ぎた。
ぶつかってくるマルフォイにぶつかる振りをして、その手にこっそりと手紙を握らせた。
【夜八時 西塔五階 左から三番目の教室】
いつもの場所。それが、僕達の秘密の二人だけの場所だった。
最初は、授業であったこととか、友達とかの話をした。二人きりでいると不思議と素直になれて、僕達は普通の友人みたいに笑うことができた。
そのうちに手を繋いだ。初めて繋いだ手は、細くて冷たかった。僕の手はきっと緊張で汗で湿っていたと思う。
キスをするまでには少し時間がかかったけど、身体を重ねたのはすぐだった。
マルフォイと居る事で、とても僕は満たされた気分になった。
一番、僕を認めていたのは結局君だった。英雄の仮面ごと、一番君は僕を強く見ていてくれた。
僕は、おかしくなるぐらいに毎日毎晩マルフォイのことばかり考えて、マルフォイは二人きりになると僕に無邪気な笑顔で甘えてくれた。
その頃の僕達は、とても幸せだと思った。僕だけじゃなくて、マルフォイもそう感じてくれていることが、僕は何よりも幸せだった。僕が居る事で、マルフォイが笑ってくれている事は、絶対に手放したくないと思う幸福だったけど。
無駄なお喋りをするだけでも、ただ手を繋いでいるだけでも君の存在が嬉しかった。キスをしてその距離で瞳を覗いたり、身体ごと全部で君と繋がって、君を僕の全部で感じることが、本当に満たされた。
マルフォイが、ホグワーツから居なくなった。その瞬間まで、僕達は確実に恋人だった。
すべてが終わった時、僕は人格を除外された形ばっかりの英雄で、マルフォイは闇に荷担した犯罪者だった。
僕は再び彼を呼び出した。
もう、終わったから。これで僕達の邪魔をするものはなくなるって、そう思った。色々と障害は多いだろうし、課題も山積みだけど、僕はずっと君に僕を見ていてもらいたかったんだ。君に僕を認めてもらいたかったんだ。
「会いに来たよ、ドラコ」
ようやく会えた時は、彼は犯罪者で、僕は英雄だった。
色々な人に追いかけられて、皆に常に見張られていて、誰もが僕のことを知りたがる、そんな状況の中で僕の精神は、限界まで磨耗していた。
皆に見られているけれど、君は僕を見てくれていない世界。
早く君に会わないと、君に会って君の笑顔を見ないと、君が僕を見てくれないと、そう思った。
誰にも見つからないように、よやく彼の居場所を突き止めて、見つけて、ようやくマルフォイに会えた時に、僕はすぐに君を抱きしめようと思った。
もう、終わったんだから。
一番の傷害は、もう去ったんだから。
これからを考えないといけないって。
「何の用だ? 英雄殿」
マルフォイは冷たい顔で、僕を見た。
彼は僕を名前で呼ぼうともしなかった。僕の顔を見ていて、視線も合っていたのに、マルフォイは僕を見なかった。
何を言っても僕が君を好きだと言っても、彼は鼻で笑った。
「実験は楽しかったが、結果は予想通りだったな」
全てが終わって卒業した頃には、常に英雄の肩書きがつきまとった。英雄じゃなくて、僕を見てくれる人が欲しかったのに、誰もかもが僕を僕以上の英雄にしたがった。
僕はただの僕になりたかった。
英雄だなんてハリボテは僕じゃないのに、世界は僕を英雄以外に扱おうとしなかった。
英雄だなんて、結局の結果論で、僕が負けていて別の誰かが世界を救ったりしたら、僕は過去にいた負け犬だったんだろう。別に誰だって良かったんじゃないか。
僕をただの僕として扱ってくれたのは親友だけ。だから、親友って言うんだ。
何度かマルフォイと話す機会は見つけたけどマルフォイは僕を見なかった。見てくれなかった。僕をまっすぐに見据えているのに、僕を見ない彼の視線に、僕は怖くなって結局何も言えなくなった。
僕は正義で英雄で、彼は闇に属した犯罪者で……それでも、僕の立場は彼よりも強くはなれなかった。正しいとか正しくないだなんて、多数派か少数派かという分類で結局は他人の視線なんかに僕の気持ちは変えさせたくなかった。
君が好きで、君が一番大事で、君が何よりも一番怖かった。
嫌われるのも、君に傷つけられるのも、怖かった。
あんな事忘れて、やり直そうって、簡単に言えるような事じゃなかったから……僕も、マルフォイも。
それで、僕は逃げたんだ。
もう、全部終わったんだし、僕は僕のやらなきゃいけないこともやったし、みんなの期待にも応えた。
全部、僕はやり終えた。
成し遂げたんだから、誰にも文句なんて言ってもらいたくない。もう、嫌になったんだ。ちゃんと全部やったんだ。もう、僕を邪魔して欲しくなかった。
だから、逃げたんだ。
「何を、覚えてるかって?」
マルフォイが僕の顔をのぞき込んで笑った。
ふと、埋没させていたはずの記憶が、君の存在に喚起されて感情まで伴って、心の浅い部分まで浮かんできてしまった。
こうやって僕に笑いかけるのはどの、マルフォイだろう。
僕は、マルフォイにどうやって接すればいいんだろう。
僕達はもうとっくに別れた。恋人だったことさえ誰にも言えなかったから、誰にも知られることもなく別れた。友達でもなかった。
ホグワーツの同窓生として? その程度の関係で僕はマルフォイと話せばいいのか? 昔の恋人ぐらいの親密さを持ってもいいのだろうか。
それとも、未だに忘れることができない好きな人として、僕はマルフォイに笑いかけてしまってもいいのか?
マルフォイは、僕にどういう関係としてこうやって笑っているんだろう。ホグワーツの同窓生として、顔見知りよりも少し仲が良い、覚えているけど忘れたふりをする関係をマルフォイは築こうとしているのかもしれない。
君が、それを望むなら僕は君に従おうと思うけど。
でも、僕は、君との思い出を、何も忘れてない。
全部覚えてる。
初めて手を繋いだ時の指の細さも、初めてキスをしたときの唇の柔らかさも、身体を重ねた時の高揚感とか、抱き締めた時の温もりとか、僕は全部覚えている。
「ホグワーツでデザートにケーキが出た時に、砂糖と塩が間違えて入っていた事があっただろ?」
そのいたずらっぽい笑顔は、僕の気持ちを知っていて、わざとなのかな。
「……いや」
それは忘れた。そんな事覚えてない。だって、そんなの僕にはどうだって良い。君の作り話じゃないの?
「マルフォイ……あのさ」
もう、帰ってくれないか? そう、言いたくなった。
君と居ると、思い出してしまうから。封印していたあの頃の気持ちになってしまうから。忘れられないから、せめて蓋をしていたのに、わざわざ君がこじ開けなくても良いじゃないか。
君は、ただの知り合いを強制的に作ろうとしているようだけど、こんなに時間が経ったけれど、まだ僕は君ほどに君との関係を整理できてないんだ。
君が、今目の前から居なくなれば、一人で泣けるのに。
「何だ?」
「……心配される前に、ちゃんと連絡しなよ」
言えなかった。言えるはずなんて、ないんだけどさ。
僕は……まだ君が好きなんだ。
結局、どうしたって君が好きだったんだ。
帰らないように、少しでも長く君をそばに置いておきたくて、僕はやっぱり君を諦めきれていないから……君が好きなんだ。
「ポッター」
「何?」
「……すまない」
マルフォイは、少しだけ目を細くして、僕を見た。
ずっと向けて欲しかった視線が、ようやく僕に向けられたと思った。僕の目の色が緑色だって、今ようやく再認識してくれたでしょ?
だから、心を、読まれたのかと思った。僕の気持ちを理解した上で、僕の気持ちを拒否したんだと、そう思った。
その、謝罪だと思った。
「すまないが、僕の仕事を手伝ってくれないか?」
「………は?」
仕事? って、何?
「いや、僕は会社を作って、社長をしているが、最近マグルの製品にも手を出してみたんだが……評判は悪くないが、なかなか難しくて。何しろマグル出身の社員が居ないんだ。マグルをよく知る人物が居れば助かるんだが……」
「……マグルって」
「お前の仕事が空いた時でいい。報酬もそれなりに出そう。忙しいのであれば、断ってくれてかまわない」
マルフォイは、僕の気持ちなんて、どうでも良さそうだった。
僕の気持ちじゃなくて、今の僕の状況に遠慮してくれている紳士的な態度をきっぱりと作ってくれたけれど。
「それって……」
期待、しちゃうよ?
また君と……って期待しちゃうよ?
昔のように、元通りにって、また君との関係を修復できるんじゃないかって、僕は期待してもいいの?
「手伝うって、一体僕は何をすればいいんだ?」
一応、訊いてみる。カッコつけてるだけだけれど。君の頼みを僕が断れるはずなんてないから。
もちろん面倒なことは、できればしたくないけれど。
「マグルがさっぱり解らないから、僕が一人でマグルを違和感なく歩けるようになるまで、ガイドを頼みたい」
面倒な頼みかと思ったけど。
「何だ。そんなことか」
「簡単そうか?」
「それは……さっきの様子見る限りじゃ、難しいかもね」
「そんなに浮いていたか? マグルの一般的な服装を研究したつもりだったのに」
服は、確かにね。一般的な服を着ていたと思う、僕の年齢の成人男性が普通に仕事で着ているようなスーツ。
服じゃなくて、君がね。浮いているというか、別世界の人みたいだった。マグルがとか、魔法使いとかそういう枠組みから外れて、やっぱりどこかの雑誌のモデルとか、どこかの王子様が道を歩いていれば、誰だって目を向けてしまうじゃないか。
こんなに久しぶりに会っても、マルフォイは綺麗なままだったのが嬉しいような、複雑なような。
だって、怖くて聞きたくないけど。
「マルフォイは、結婚したの?」
もう、結婚適齢期は充分迎えている。会社の同僚も同じ年代の奴はほとんど結婚して、もう子供もいる。最近は手紙も減ったけど、親友達も仲良くやってるみたいだし。
マルフォイなんて、会社作って社長だってさ。
さぞかし女の子はほっとかないだろうと思う。ホグワーツにいた頃から、マグルは毛嫌いしていたマルフォイだけど、基本的に女の子には優しかった。
マグルの女生徒はマルフォイを好きな子は居なかったけど、生粋の魔法使いの女の子達は、性格の悪さには目を瞑ってマルフォイを王子様みたいに扱ってた子も居たのは、有名。
だから、とっくに奥さんの一人や二人居そうだって思った。奥さん相手じゃ、ホグワーツにいた頃同じ学年だったとか、ライバルだったとか、昔は恋人だった程度の関係じゃ、やっぱり僕なんかには勝ち目はないような気がする。
「ポッターは、相手がいるようだな」
「何で?」
「このマグカップ、お前と同じだ。独り暮らしなら同じものを二対買わないだろ?」
その謎々が解けたような笑顔は卑怯だと思った。君のその笑顔は、僕に今恋人が居てもそれは気にならないって事だろう?
「居ないよ。別れた」
昔付き合っていた女の子が買ってきたものだ。前の、その前の彼女だったかもしれない。前の子は家に連れてくる前に破局したから。マグカップは僕の趣味じゃないけど、食器に大してこだわりはないし、飲み物が入ればそれ以上は求めないから、使っているだけだ。新しく恋人ができたら捨てるかもしれないけど、その時に一緒に捨てるような思い出がこびりついているほどに、僕は物に感情移入をするタイプでもない。
「どうやら、それも予想通りだな」
「何で?」
マルフォイは立ち上がって僕の本棚の隅で埃を被っていたポラロイドカメラを手に取った。昔の彼女が置いていったものだ。旅行に行く時に買ったのを思い出した。
もう二度と使わないのは解っていたけれど、捨てるのも忘れていた。
「それがなんだか解っているの?」
「触るのは初めてだがな。カメラだろう? ポッターに写真の趣味があったとは聞いていないし、ポッターの性格上、写真に目覚めた時期があったとも思えない。一緒に思い出を残したい相手でも居るのだろうと思ったが、使われなくなってしばらく経つようだ」
マルフォイは探偵にでもなったような得意げな口振りだった。
「……正解だよ。僕に何か文句を付ける場所でも見つかったのかい?」
本当に残念なことに、正解だ。いい着眼点をしているよ。一応、ホグワーツではハーマイオニーに次いで成績が良かった。
カメラは触るのは初めてだって言うのも本当らしく、興味深々で手の中でくるくると回しているから、僕はマルフォイからカメラを受け取って、彼に向けてシャッターを押した。
「好都合だと思ってな」
「え?」
満足そうな笑顔に、またしても期待してしまう僕は、あまり頭が良くないと思う。
「親しい相手が居ては、僕が時々訪ねて来るのは不便だろう? 邪魔をしては悪い」
満足そうなマルフォイの顔が、やっぱり嬉しいとか思う。
「……時々来るんだ」
「そのつもりだが? 勿論、お前が空いた時間でいい。予定のない休日を教えてくれれば、それに可能な限り合わせる」
時々、マルフォイは僕に会いに来てくれるって。
「解った」
僕にとって返事はイエスかノーの二択ではなかった。
断れるはずがないじゃないか。
「そうか。それは助かる!」
マルフォイが喜んでくれるのが僕はあの頃すごく好きだった。僕よりも頭が良くて、僕よりもお金持ちなマルフォイをどうやって喜ばせるか、僕は勉強することよりも頭を使ったと思う。
「ただし、僕の存在は、絶対に秘密だよ?」
それだけは、譲れない。せっかく僕は僕になったんだ。英雄なんて堅苦しくて重くのしかかる面倒な殻は置いてきた。
それがなければ僕は魔法使いのままで居たかった。
マグルは、退屈で、何もない。平凡と幸福は同義語だと信じないと暮らせない。
「ああ。僕とポッターと、二人の秘密だな」
なんて事だ。僕にはそんな安っぽい台詞に動揺するほどに青臭い感性を持ち合わせていただなんて。
「そう、僕達の秘密」
繰り返すと、マルフォイは笑った。馬鹿にしている風でもなく、いたずらっぽく目をきらりと光らせた。
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