斬る。
 ぬるついた手。先ほど斬った敵の体液で、刀が滑る。握り直すためには一度刀を持つ手を緩める必要があるのに、その余裕すらがない猛攻の中、近い場所で白を赤く染めた銀時が、俺と殆ど同じように戦っていた。
 周囲を取り囲む敵の数は変わらない。徐々に敵の間合いが狭くなってきているのは気のせいではないだろう。劣勢という文字を頭から追いやった。
 仲間はどこへ行った? 俺の友は?
 指先が震えそうになる。足元に転がる死体が、ヒトのモノなのか、俺が斬った敵のモノなのか、そんな事を認識している余裕はないが、踏んだら矢鱈とぐにゃりと温かった。総毛立つような嫌悪感が俺を襲った。
 気持ち悪い。泣きたい。命を奪って、死体の転がる戦場で、仲間が死んで、俺だって戦って、戦場の死体と戦士の境界に居て、今はまだ生きているから俺は今はまだ戦力という分類になる。風が強いのに、噎せ返るほどの生臭い血の臭いと、皮膚と言う器から破れて零れていた内蔵を踏んだ時の生理的な嫌悪感とで、辛い。浴びた返り血がべとつく。
 今は他人を思いやり、見たことのある服を着ている死体に追悼を表すことや、殆ど死体に近いのに傷が浅くて死に切れず、それでもあと少しで死ぬだろう苦痛の呻き声に憐憫を向けている余裕など無い。こんな状況で落ちた命に敬意を払える程に聖人君子でもない。そんな自分にすら嫌悪が発生する。
 誰が死んだ?
 もう、誰に会えない?
 考えるのは後でいい。立ち止まる余裕など無い。今、誰が居るのか? 背に銀時が在ればいい。それだけでいい。
「なあ……銀時、俺は熱い風呂に浸かりたい」
 後ろに、馴染んだ気配がした。触れた肩は何よりも安堵を感じた。どんな混戦した戦場であっても俺は銀時の気配を間違えた事は一度も無い。
 敵の陣はじりじりと詰まって来ている。その間合いで徐々に俺達が磨耗してきていると知る。
「ああ、俺も」
「晴れた日に干した白い敷布の布団で寝たい」
 何も、考えるな。
 壊れるから。
 ただ、斬ればいい。
 考えるな。
 だから、お前の存在は何よりも心地が良い。
 一番、自分が存在している認識と同等の存在感が、心地好い。
「俺もだ」
「秋刀魚の塩焼……」
「いいな、それ」
 ずっと、一緒に在った。俺達は同じ場所に居て、同じ部分で感じていた。爪先も汗腺も髪の毛ですら、俺達が浴びた空気は同じだ。俺達は何よりも同じ成分で構成されている。
 ……帰りたい。
 だから、同じ気持ちなんだ。そうだろう?
 訊くまでもない。
俺達は同じなんだ。違う所など無い。
 帰りたい。俺たちの場所。帰る場所。俺達を培った場所、そこに帰結する。あの優しい空間。
 銀時、と高杉と先生と他にも……たくさん、居た。みんな居た。
 あの場所が俺の帰る場所なんだ。本来ならば、俺はそこに居るはずだった。今も。銀時も。皆も。
 それがもう無いのは知っている。もう同じものが無いことなど理解していたが、俺達は帰る場所を取り戻すんだ。
俺のいた場所。いるべき場所。
 せめて類似したもので良い。あの場所を再構築する。握る剣は壊したいわからでなく、取り戻したいからだと……。
 お前も俺も何も考えずに笑えた。俺達は真っ直ぐに信頼し合えただろう。
 だから……お前が抱く感情はただ戦争の重圧の中で、歪んでしまっただけだ。
 銀時が俺に向ける想いを責めようなどとは思わない。特別の存在であるはずの俺に、そんな歪んだ感情を抱くなど、あり得るはずがない。だから、この戦乱の中で、重圧に耐え切れずに拉げて歪んでしまっただけなんだ。
 俺達は同じなんだ。
 だから、違う。
 お前は誰よりも俺に近い友だったし、これからもそうであり続ける。
 あの頃からずっと、銀時は俺以外では誰よりも近いと思った。今でもそれが覆る事象に出会ったことなど無い。
 だから、違うんだ。同じはずなのだから、俺達の心が重ならないなど、それは間違っているはずなんだ。
 あの頃は、たいてい何でも俺の勝ちだった。
 勉強も、足の速さも、早食いの競争でも、川に投げた石の跳ねる数でも、俺の方が勝っていた。あの頃は身長も少し俺の方が高かった。すべて、俺は誰にも負けたことはない。負ける要素がなかった。当然それなりの努力も惜しまなかった。
 銀時は稽古もよくサボり、授業でも寝ていて、も常にやる気の無いふりをして、いつも俺と競い合っていた。剣の腕だけはほぼ互角だったが、それでも、あいこでも俺が負ける事は無かった。剣の腕でも俺の方が少し上だったはずだ。
 今ではどうなのだろう。どちらが強いのだろう。
 手合わせはしない。したとしても、銀時が本気を出さずに負けるから、試合う事もない。
 ただ背にあって安定するから、力量はほぼ同じだろうと思う。力が不均衡ならば、どちらも重荷になるはずだが、俺達の背中は常に安定しているから、きっと同列なのだろう。推測でしかないが。
 一度だけ、銀時に負けた事がある。
 惨敗。だった。
 思い出す。覚えている。忘れられるはずがない。
 まだ、思い出す。時々、夢にも現れる。
 恐怖に何よりも近いと思う。ただ、どこか歪んでいる。考えたくないと思考を振り払う事もできないほど、
 赤く……赤かった。あれは、赤だった。
 銀時の目が赤いだなんて思った。
 負けたのはそれに気を取られたからだ。自分の中ではそう言い訳をしている。負けるはずなかった。何度か防具の上から竹刀で銀時の手を何度か打ち、俺の方が圧倒的に優勢だった。
 それなのに……。
 紅い赤い朱い目が。
 真っ直ぐに俺を見た。
 背筋に何か流れた。電流のような、落雷にでも打たれたかのような、そんな錯覚がした。
 俺は一瞬、動けなかった。息を飲んだ。呼吸が止まった。きっと、心臓すら止めた。
 ……一撃。
 それは一撃だった。
 防ぐことも身を逸らしてかわす事もできなかった。誰よりも俊敏に動けるはずの俺が、動く事もできなかった。
 胸を突かれた俺は、無様に意識を飛ばした。
 皆の見ている前での試合でと、屈辱を覚えたわけではない。
 ただ、銀時のあの瞳が焼き付いた。
 赤い。血の色を映したかのような紅い瞳が俺を見たんだ。
 あの時の事を、俺はまだはっきりと覚えている。状況ではない。あの時の銀時の瞳の色を何よりも鮮明に覚えている。
 起きたら俺は布団に寝かされていて、銀時と高杉が俺の顔を覗いていた。銀時の瞳の色は落ち着いていた。いつもの赤茶を濃くしたような、俺のような黒と違う色素の薄い馴染んだ色合いをしていた。知っている銀時が居た。俺の知る銀時は珍しく泣きそうな顔をしていたけれど。
 泣きたいのはこっちだ。と、憮然と思った。痛みに呼吸もままならず、夜には熱も出た。
 全治半月。肋に皹が入っていたそうだ。
 高杉は目蓋を貼らして泣いていた。まるで自分が負けたかのように憤慨していた。しばらく高杉は銀時とは口を聞かなかった。訊けば、止めに入った高杉も銀時に一撃を受けたらしい。
 あれから、銀時は俺と真剣勝負はしなくなった。俺から誘っても防御に徹し、潔く負けるから、俺も相手をしろとは言わなくなった。
 けれど……もう、一度、あの時の銀時に会いたい。
 子供の銀時の姿をしていたが、まるで銀時ではなかった。
 あの目を見た時に、本能的に悟った。
 敵わないと、及ばないと、そう感覚だけでも理解できた。
 もう一度、会いたい。
 俺も強くなった。昔のように、動けない、など、ない。
 強くなるために俺が持てる努力はすべてしたつもりだ。決して銀時の足手まといにはならない。
 ここで俺が銀時の重荷になると言うならば、俺は自分を切り捨てる。俺の強さを、今は矜持できるから……。
 斬る。
 敵を斬る。
 皮膚から弾けて飛び散る赤黒い……。
 赤い……それが目に入りそうで、視界を潰すわけにはいかず、咄嗟に顔を背けた。
 それが、隙になった。
 視界の端に、刃が反射した光が飛び込んだ。
 それに気付く事は出来たが、反射が遅れた。
 避けられるか?
 地を、蹴るが……直撃は、かわせるかもしれない。心臓を目掛けて迫る刃の先は、やけにゆっくりと動いた。
 ゆっくり、俺に迫る。
あと、少しで俺の肉に埋まるだろう切っ先は……
 間に、合わない。
「ヅラぁっ!」
 銀時が俺の名を叫ぶ。
 覚悟などできていないが、それでも一瞬は終わりを考えた、今。
 きぃん、と鉱物がぶつかった音がしただけで、襲われるだろう激痛は、やってこなかった。
 ただ頬に一筋、熱が走った……が。
 銀時が切り上げた刀により折られた敵の刃の先は、俺の頬を掠めて飛んだ。
「……銀時!」
 俺の前に、背を向けて立つ銀時が……。
 互いに命拾いした事など、一度や二度ではない。俺も何度も銀時を間一髪で救い、銀時も俺をこうやって助けた。何度もある。何度もあった。きっとこれからも同様だろう。
 それなのに……。
 びりびりと空気が震えるように痛い。
 斬られた頬から流れる血の熱さを認識できないくらい、肌に触れる空気の方が痛い。まるで空気が恐怖に硬直しているようだ。
 気配が……。
 俺の前に立つ銀時の背中が……。
 この、気配は知っている。
 俺は覚えている。
 痛いくらい記憶に刺さっている。抜く事も拭う事も出来ず、したいとも思わなかった。
 赤に塗れていても白い銀時の色が、今はただ純粋に真紅をしていると感じた。
銀時は白い色をしているのに、何故かその時とても赤いと思った。
「……銀、時」
 ぞくり、とした。悪寒ではなく、その時込み上げたのは熱だった。皮膚からではなく、内臓から熱が生まれた。熱は全身に波紋する、何度も。
「無事、か?」
 低い、声だった。銀時が今どんな顔をしているのか、銀時なのに、俺は銀時の全てを理解しているはずなのに、解らなかった。
 熱が……身体に広がる。俺は気付かれないようにと思いながら、それでも銀時の背から視線を逸らせなかった。
「ああ。大丈夫、だ……」
 声が震えてはいなかっただろうか。
 同じ、気配がしたんだ。
 子供の頃に見た、赤い瞳をした銀時と、同じだった。同じ空気を、銀時は纏っていた。
 空気だけで、その背だけで、俺は今目の前に立つ男が誰なのか解った。
 再び、会いたい。そう思っていた。忘れたことなどなかった。やはり、覚えていた。俺は忘れてなど居なかった。
 引力だろうか?
 それとも重力?
 毛が逆立つような威圧感と張り詰めた糸が限界まで引っ張られて……。
 ……静寂の、音を聴いた。
 糸が切れる音は、何よりも無声だった。
 壊れる。
 銀時が。殻が、銀時を作っていた外側が壊れてしまう。銀時が。壊れてしまう……などと、そう思った。
 ゆっくりと彼は振り返り、俺を、見た。
 赤い、目をしていた。
 そこに……鬼、がいた。
 鬼だと、俺は本能的に察知した。
 一瞬だけ、銀時が俺を見た。
 あの時の瞳を……赤い。

 走り出す。
 敵陣に切り込む銀時の後を、知らず追いかける。
 刀を握る。全身が熱く奮えた。

 高揚している事だけは、事実だった
 俺は、再び、会うことができた。
銀時の外殻を持つ鬼に再び、会えた。
それは歓喜だろうか。心が全て奪われた。根刮ぎ、彼の存在に全てを奪われら、感じなくなった。
 思考がただ無駄に思えた。余分な重量になるから、棄てた。
 痛みも憎しみも敵も味方も死んでいった仲間への手向けも敵への憎しみも懐郷も形骸化した正義も空も大地も風も音もすべて呑まれ恐怖に近い歓喜として昇華される。
 震えていたかもしれない。絶頂に上り詰める時の、何倍もの高揚感。
 鬼が俺を導く。
 鬼は、先刻まで銀時の形をしていたのに。
 誰よりも何よりも俺が依拠し指針とする銀時が、鬼だった。
 今、そこに銀時の形をした鬼がいる。
 意識すら拐う。
 刀が血液の通う腕の一部になったようだ。
 肉を切り裂く音や骨を砕く感触を感じる事だけができる。
 斬ることに幸福にとても類似した興奮を覚える。それだけになる。
 鬼に、意識が引きずられる。
 俺達は……俺には、鬼が憑いている。
 恐怖などどこにも無い。
今はそんなものを感じない。
俺には鬼が憑いている。
負けるはずが無い。
だから、走れる、まだ俺は何度でも立ち上がれる。
鬼が俺の背に在る。
それはなんと頼もしい事なのだろうか。
 鬼は……鬼だから、人ではないのだから、死ぬはずがないんだ。
 だから……。