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「お帰り。遅かったな」
扉を開くと、桂の笑顔が俺を出迎えた。
玄関開ける音を聞きつけて、どうせ数歩で部屋に入るってのに、ここまでわざわざ帰宅の挨拶を言いに来てくれる桂は華やいだ笑顔を浮かべている。
この笑顔を見て、つい仕事の疲れが吹っ飛ぶ。
反面、別の疲れが両肩にのしかかる。
「……ああ」
未だに、こうやって桂に微笑まれる度になんらかの現実との差異を感じるが、だいぶこの生活にも慣れてきた。まだ、桂の自己申告では自分が誰だか思い出せていないらしい。
「大丈夫か? 顔色が良くない。疲れているんじゃないか?」
帰宅は、深夜だった。
もともと不定期な仕事だ。朝出てって夜帰るわけでもない。屯所じゃ非番で休みでも休まらないから借りた部屋だ。帰っても何をするわけでもなく、ただ寝るだけに借りてる部屋だ。でかい必要も陽当たりがいい必要も無かった。そんな安い、煙草の脂が染み着いた小さな部屋に、帰ると桂が居る。
「先に寝てろって言っただろ?」
俺に合わせてたら生活できねえだろうが。俺のことは構わずに勝手に部屋を使ってろとは言ってあるが。
基本的に桂は、俺がこの部屋に居る時は起きている。俺が寝ている時は隣で寝ていたりもするが、俺が帰って来る時に、寝ていた事なんてない。
「そうは言っても、何もやること無いのに疲れたりするものか。眠れないんだ」
桂は、口を尖らせた。我が侭を言う時にはこんな風に幼い表情をする。
こんな表情をする奴だったのか、と新しい発見に頬が緩むのを抑えきれない。桂の知らない側面を見ることが純粋に嬉しいと感じた。
これは桂だと言い聞かせているのに、無邪気に微笑まれると、その笑みにつられる。桂の笑顔はこっちの心の中まで無断侵入して来る。勝手に俺の中に入ってきて、居座りやがった。部屋の事じゃなくて、心ん中。
自覚は、してるんだが……。
桂の頭に手を乗せると、ようやく唇の形を元に戻した。そして微笑む。つい見入ってしまいそうなほどに綺麗な笑みだ。
……記憶が、ない。
未だに完全に信じたわけじゃねえが、嘘だとも思えなくなった。日常には支障が無い程度には常識を知っているが、自分に関しての全てを忘れてしまったと言う。実際、攘夷の言葉の内容は知っているがそれに反応もしない。江戸に天人が襲来し、現状がある事は知っている。
ただ、自分の事だけが解らないらしい。
「飯食ったか?」
部屋は好きに使っていいと、同じように外に出るなとも言ってある。
「まだだ」
思い出したらどうせ出ていくだろう。ここに居る必要はなくなるだろう。桂はアジトを複数持つ。どこも俺達が知るはずもないが、潜伏先を不定期に変えてくる。出たとしても身を隠す場所くらいはいくらでもあるだろう。
が、記憶がないのであれば、外に出られちゃ困る。こいつの顔を知らない奴なんてこの江戸には居ない。
もし見つかって、また桂が掴まったりしたら、最悪の事態になる。
次は、今度こそ殺されるかもしんねえ。
それに、立場が悪くなんのは、俺の方が深刻かもしれない。
さっき、屯所で桂を見たって話が出た。
さすがにこの状況だ。出るはずはないと信じてはいる。死にかけたんだ。また掴まる可能性だってある。
だが、桂を見つけたという情報が出てきた。しかも末端の隊士が発砲し、逃げられたという。あの逃げ方は桂だったと……。
「桂にまた焦点を合わせましょうか?」
今まで完全に雲隠れしていた桂が再びこの世情で出てきたという事は、何か企んでいるはずだ、とその考えは普段の俺じゃ否定できる余地はないが……。
「やめろよ、無駄だ。今はそんなことやってる暇はねえだろ?」
情けないことに桂は俺達が捕縛を悲願にしているテロリストだが、桂は民心の支持がある。天人の外圧は確かにこの江戸を苦しめているし、襲来した折りの伝説的な桂の活躍は、英雄のように語られる。
連発するテロ。主格が田宮という男。まだ捕らえるまでに至らない。田宮の居所はおろか、過去すらも誰も知らない。もともと桂の部下だったと、俺は聞いたが……あの男は存外に口が堅かったようで、俺しか知らない。
が、今、俺達の目下の標的は田宮だ。
市井には緊張が走る。不安定な情勢だ。早く田宮を捕まえなきゃなんねえ。
「でも、もしかしたら桂かもしれませんぜ。昔の桂と手口が似てる」
「あいつはとっくに穏健派だろ? 今更鞍替えするとも思えねえな」
普通に考えりゃ、俺も同意見だった。だから俺は、桂を探していた。田宮の足取りが何も掴めなかったから、桂の過去を探していた。
そして、その通り、桂に辿り着いた。
「そもそも本当に鞍替えしたんですかぃ? 俺達を欺く手段だったとは?」
そりゃ、俺も考えたが、今までの桂では絶対にやんない事をやっている。
桂は部下を手駒にするような作戦を実行しなかった。桂じゃない。
が、それ以上に桂であるはずがねえ。
「出くわしたの、本当に桂だったのか?」
桂に向けて発砲したという隊士に脅しを込めて聞いてみる。
もし事実だとしても、俺の威圧に少し自信がなくなりゃいいと思った。案の定、真選組に入隊して年浅の隊士は少し黙った。
……出歩くはずがない。
あいつが出歩くわけがねえ。絶対に外に出るなと言ってある。守ってるのかどうかは知らねえが。記憶なくしたって桂だってそこまで馬鹿じゃねえんだ。
死にかけたんだ。
あそこに俺がいかなけりゃ、焼け死んでたんだ。
出歩くはずねえ。
「でも、死んだって噂あったが……本当だったとすりゃ、生きてるって事すね。見間違いだったらどっかで野垂れ死んじまった……」
死んでねえよ。今、うちに居る……。
うちに居て、外に出るはずがない。
桂に似た長髪ってだけだろう。そう、思いたい……きっと、ただの間違いだ。
発砲されたなら、少しぐらいの動揺があって然るべきだと思うが……。何にも解んねえんだ。発砲されたりすりゃ、桂でも少し動揺してんじゃねえのか?
だが、桂は相変わらず涼しげな表情で、背筋を伸ばして座っていた。
この様子から、今日、何かあった感じじゃねえ。
「今日は何をしてた?」
念のために、確認する。
「特に何もしていないが……。そうだ、テレビを見た」
信用するわけじゃないが、少し安心した。部下の言葉も信用できないほど落ちたつもりもねえが……きっとあいつの勘違いなんだろう。
桂が外に出るはずがない。
「へえ、何やってた?」
「連続テレビ小説が面白い。どろどろとした愛憎劇だが。松子の婚約者が実の兄だったと言う設定で、今兄が天人だったことが解り、つまり自分も満月になると大猿になる体質で、毎月満月になると大猿になって兄とビルを壊していたショックで泣き伏して、次回へ続く」
「……それ、本当に面白いのかよ」
何のテレビを見てんだか解らないが、何かしらで時間を潰してくれているようだ。今日は、うちにいた。
外には出るなと言ってある。することが無いのは解るが、また桂が捕まったら今度は殺されるかもしれない。また助けられるか、自信はない。
外に出るはずがない。
「そうだ、布団を干した。今日はお天道様の匂いのする布団だ」
笑顔を絶やさない桂に……俺は、凍りついた。
「お前、外に、出たのか?」
見られたら、まずい。
何しろ桂だ。こいつの顔を知らない奴はこの江戸には居ない。俺の立場で桂を匿って居ることがばれるのも、まずい。俺の保身の為だが……だが、俺が居なくなったら、誰が今のこいつを守ってやれるんだ?
「外に出たと言っても……ベランダだぞ?」
「出た、のか?」
声が、震えそうになる。
俺が出るなって言っておいたのに、てめえは勝手に外に出たのか?
声が低くなったのは自覚があってのことじゃない。
桂の腕を知らずうちに掴む。
ここに居ろって言ったはずだったのに、勝手に出ていこうとした。自分勝手な行動に、腹が沸騰しそうになった。
この部屋から出すわけにはいかない。桂が出ていくのであれば仕方ないと諦める。桂が記憶を取り戻し意志を持つので在れば、自分の身は自分で守れる程度の信頼はある。
が、何も思い出さないでここに居るなら、外に出すわけにいかねえ。危険すぎる。その自覚あんのかよ……自覚持たせたいとは思ったが……どうやって、何を桂に伝えりゃいいんだ?
桂の腕を掴んでいたことに気づいたのは、桂が痛そうに顔をしかめたからだった。俺は強い力で握っていたようだ。強く握れば折れてしまいそうな細い腕を、強く握ってしまっていた。
桂の視線は、俺に何かを訴えるようになっていた。睨み付けていた視線は鋭いものになっていたのだろう。怖がらせてしまっていた……俺がどんなに睨もうと、怒鳴ろうと怯えるような奴ではなかったはずなのに……。ここにいる桂は、俺の顔色を伺うような真似をする。あの桂が、俺を気遣う……。
別に、桂を怖がらせたいわけじゃない。
俺は握っていた腕を、離した。握った痕が赤くなってたら、謝らねえと。落ち着けるために、大きめに息を吸い込む。
桂なんだ……これは桂だ……が、今ここにいる桂は、俺の庇護下にある、俺だけが知ってる桂だ。
「あ、なあ、桂」
ふと、思い出した。
「何だ?」
そう言えば、まだ捨てていなかったはずだ。押入の奥から引っ張りだしてきて、一抱えある風呂敷を渡す。
「これは……?」
桂が疑問符を浮かべながら、風呂敷を解く。
中から出てきたのは、女物の着物だ。
まだ捨てていなかった。捨てるのをずっと忘れていた。
「土方……?」
桂は、当然の如く、怪訝そうな……と言うか俺を変なものを見るような目で見やがった。
「違う! 昔付き合ってた女が置いてったやつだ」
別に、女物のを嗜む趣味なんざねえって。
だから、その蔑むような目はやめてくれ!
昔、ここに住んでいた事がある女が着ていたものだ。半年ほどの期間共に居た。共に暮らし、帰れる時は帰るようにしていたが、この仕事だ。一ヶ月近く帰れなかったら、久しぶりに来たこの家から書き置きと、ほとんどの身の回りの物と共に居なくなっていた。残していった服は、服が好きな女だったから、何度かねだられて俺が買ったものだったはずだ。束縛の強い女で、帰るのが苦痛になってしまっていた頃だったから俺も探さなかった。最近、仲良さそうに旦那らしい男と歩いていた。幸せに暮らしてんだろう。少し寂しい気もしたが、俺の度量で幸せになれる女でもなかった。服を捨てようと思っていたが、ここに来る時は、だいたい疲れていたから、面倒でそのままだった。
ちゃんと分別してゴミの日に出さないと大家がうるさいから、面倒になって押入に突っ込んで忘れていた。
まさか、役に立つとは思わなかったが。
「俺は、男だぞ?」
桂の視線が、冷たい。そりゃ、解ってるけど。
「解ってるって。別に、違和感ねえよ」
「それは侮辱か?」
「誉めてる誉めてる」
男に女物が似合うという賛辞もねえだろうが。
「髪を切れば良いだろう。そもそも何故俺はこんなに長い髪なんだ? 乾くのにも時間がかかるし」
「てめえの趣味なんざ知るか」
そりゃこっちが聞きたいって。真選組として桂と出会った最初から、桂の髪は腰まで届くほど長かった。
「切れば、大丈夫じゃないか? 印象はだいぶ変わると思うが」
確かに、髪を切ればだいぶ印象は変わるだろう。俺はいつもこいつのこの髪を見ていた。ほかの奴らも同じだろう。突然に髪を切られたら、俺は素通りしてしまうかもしれない。俺は桂の流れる髪を追っていた。
「やめろ。勿体ねえ」
漆黒の艶やかな髪は、触ると柔らかい。
俺は、こいつの髪が好きだった。桂だって認識しちゃいるが……無条件に桂の髪は綺麗だと思った。
切って欲しくないと思った。
それは、ただの我が儘なんだろうが。髪を切れば、多少出歩いたところで、ばれないかもしれねえが……だったら、出歩かなけりゃいいじゃねえか。
それにベランダぐらいじゃ、女物の服を着りゃ少しは変装になるだろう。
桂は、女物の服を広げて、相変わらず不審げな表情をしていたが……。
「なあ、土方。お前が俺を助けてくれたのだろう?」
「ん? まあ」
助けた。命を救った。恩着せがましいが、感謝してもらいたかった。こっちもけっこう大変だった。それ以上に……攘夷浪士じゃない桂から向けられる感情は、心地よかった。
「俺は、何をして誰に殺されかけたのだ?」
「……」
こっちが知りてえ。
それを知るために、俺がてめえを助けたってのに、忘れましたとか、何の冗談だ。そんでまだここに居て……つい、向けられる笑顔に温かくなる……冗談で済めばいいんだが。
「田宮、守……知ってるか?」
「さあ」
桂は服を置き、首を傾ける。さらりと長い髪が揺れた。俺は、それに触れたくて手を伸ばした。
手からこぼれるような手触りが心地よい。
「最近、大人しくはしているが、テロリストだ」
「……俺は、何故?」
「……」
それは、俺も知りたい。
「思い出せよ」
「……そうだな。いつまでも土方に迷惑をかけるわけにはいかない」
そりゃ、構わないが。
いつまでだって、思い出さないんなら、ずっとだって……。
「田宮のアジトを見つけたら、火事で、念の為に中入ってみたら、てめえが死にかかってたんだ」
具体的な話はした事がなかった。見つけた時の桂の状況を話したくなかった。
「また、見つかったら、俺は……」
「殺されんじゃねえ?」
言ってみたが。
だが、あの状。桂が自分で火を付けた可能性もあった。見てたわけじゃねえから、確信はできねえが……状況が物語るのは、火をつけたのは桂だった。
「だからそれは女装じゃなくて、変装だって」
一応、女顔をしている桂でも、男のプライドくらいあんだろうから、女装には抵抗があるのかもしれないから、なけなしのフォローをしてみた。
桂が、ここに居るのを誰にも知られるわけにはいかない。
「そうか、変装か」
桂が、口元を綻ばせた。こっちまであったかくなるような笑顔だった。
「てめ、何で嬉しそうなんだよ」
頭をぐしゃぐしゃにかき混ぜると、桂は笑いながら転がった。
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