「晋助」
「……あ?」
「晋助、と呼ぶのは久しいな」
「………」
いつからだろう。俺が高杉を晋助と呼ばなくなったのは。幼き時分からの付き合いで、昔は高杉とは呼ばす、名を呼んでいたはずだが、いつから俺はこの男を高杉と呼ぶようになったのだろうか。
「お前もいつから俺を名前で呼ばなくなった?」
幼い頃は、この男からも、名を呼ばれていたように思う。小太郎と、そう俺を呼んでいたはずだ。俺を今そう呼ぶ奴は居ない。
「てめえが先だろ?」
「そうだったか?」
あまりにも昔のことで忘れてしまった。
子供の高い声で、高杉が俺の名を呼び、俺を追いかけて走ってくる記憶はいつのものだっただろうか。
あの頃の高杉は、今とは違いよく笑う子供だったように思うのは、過去を慈しむ郷愁による補正が幾分か入るのだろう。
「……小太郎」
不意に名を呼ばれた。その、驚きを隠蔽できたかは自信がない。
自らの心の内にある思い出に埋没してしまっていたために、こんなに近い距離に居た事に気づかなかった。
いつの間に、こんな距離まで? 呼吸すら感じられるような距離まで縮めていて、俺はその空気の流れすらも感じることができなかった。
酷薄そうな笑を唇で形作るくせに、瞳の色は昔と変わらない。きっと、見ているものの色は、幼い頃と今では変わってしまったはずなのに……。
「小太郎」
高杉の声は、確かにこの男の物だと認識しているのに、やけに低い声だと思った。子供の頃とは、違う、男の声をしていた。
低い、声を、俺の耳から脳に伝わるようにして、高杉は俺の名を呼んだ。
記憶の中にある幼い子供の声ではない。
記憶の中の高杉は、無邪気な笑顔で……。
きちんと着ない、だらしなくはだけた胸元から覗く身体は、間違いなく、男のものだ。
高杉が、俺の袷から、そっと手を滑り込ませる。俺の肌に触れる手も、いつからこんな無骨な手になったのだろうか。竹刀を握り、豆が潰れて血だらけになっていた小さな手は、もうどこにもない。
「……高杉?」
戸惑いは表情に乗ぜず、不敵に笑いながら問うてみたのは、合意を確認するためだ。
「なあ……小太郎?」
ああ、そうだな。俺も興が乗った。
「ああ、そうだな……晋助」
その名を呼ぶと、遮られるように重ねられる唇。
支えられるように背を抱かれ、逃げることが敵わないほどのその腕の力強さに、この男の過去を偲ぶものはない。
いつから、この男は俺の知る子供の晋助ではなく、男の高杉になってしまったのだろうか……今更
「小太郎……」
過去の俺を呼ぶ。その名で呼ばれていたのは、遠く昔のことだ。
嬉しいような、どこかむず痒いような、座り心地の悪い気分がした。
了
20130813
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201105あたりに書いたはずなので、もしかしたら独り言にまだあります。
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