困惑 03





 情けない手段だが、包囲陣を強硬突破するしかない。何人かはひどく傷つけてしまうことになるかもしれないが……それも、仕方がない。
 駆け出し、真選組の一人に肘を入れて怯んだ隙に、俺を阻む男たちの隙間を駆ける。

「桂! 逃がすかあ!」
 他の奴等も流石にこれほどの好機を見逃す程には馬鹿ではない、刀を向け斬りかかってくる。
「っ……!」
 骨を断たれなければ、多少の怪我は覚悟した。痛みが腕に走るが、その程度は構っている場合ではない。腕は動く、筋を切られてはいない。

 俺も、刀を振るう。峰打ちをしたが、力加減を誤り男の腕の骨を砕いてしまったかもしれない。鮮血は溢れて、刀を握る手がぬるりと滑るが……今は、ただ逃げなくては……!
 斬りかかってきた男の刀を力任せに弾き飛ばした。刀が宙を舞い、落下地点から逃げるために、刀の行方を一斉に見上げた今が、好機だった。

 俺は懐に忍ばせていた爆煙を地面に投げつけた。
 ぼん、と破裂音がし、途端に、一面が白くなるほどに煙が立ち込めた。

「っ……わあああ」
「見えねえっ! 桂、どこだ! ……げはっ」

 自らが投げたものだ、呼吸を止めていたとは言え、目を瞑るわけには行かない。とてもこの煙は喉と目を痛めるから、投げる時はなるべく自分に被害のない場所にと思っていたが……この場合は仕方がなかった。
 煙が目に滲みる。涙が溢れてきて、それでも俺を包囲している一番手薄な場所に向かって、俺は駆け出した。数人を弾き飛ばして走る。
 煙が、薄くなった。このまま、逃げきれる、はずだ。無様な真似を晒してしまったが、それでも、大丈夫だ、きっと。

 早く、逃げてしまわねば……。

 煙に目をやられて、視界は霞む。目からは保護するために涙が溢れ、今はまだ痛みで目を開くのは辛いが、そんな泣き言を言っている場合ではないから……薄く開いた視界の間に見える景色を把握して、俺は走る。


「……っ!」

 突然、二の腕を捕まれた。捕まった。

 しまった……。煙の有効範囲の外にもまだ居たのか。目が痛み、他の敵を確認できなかった。
 振りほどこうと、腕を振ったが、俺の力では動かなかった……何で、だ?


「放せっ!」
「……あんた……」

 声が……聞いたことのある声だった。
「……土方!」

 俺の腕を掴んでいたのは土方だった。




 まさか、見られた、のか?

 今、俺が落とした匂袋を、見てしまったのだろうか……。

 ようやく見た視界の中で土方は、眉宇を寄せて、射抜くような鋭い眼差しを俺に向けていた……ああ……そうか。





 見たのか。



「あんた……」

「…………」

 骨まで潰れてしまいそうな力で握られていた腕が、ふと解放された……。


「……」


 逃げ、なくては。

 何故土方が俺の腕を離したのか、その理由を訊いている余裕もない。
 弁明している余裕などない。そもそも言い訳など何もない。


 俺は、駆け出した。
 俺は、走った。

 俺は、逃げたんだ。











 情けない。
 乱闘になり、腕の傷が開いた。その程度だが、一人で三十人を相手にしたのはなかなか骨が折れた。同じ目標を目指しながら俺が穏健派に鞍替えしたという理由がどうやら気に入らないらしい。派閥争いということだろうか、鬱陶しい。
 俺もだいぶなまったようだ。あの程度で遅れを取るとは……。

 そして目の前には土方がいる……今日は厄日だろうか。

 この男程度に遅れを取るはずがないが……腕の傷は熱を持ち、指先がしびれて今はもう刀を握れないだろうが……仕方がない。

「好きにしろ」
「何がだ?」

 睨みつけたが、この男は俺を捕まえる気はないという事だろうか……馬鹿か? 俺を捕まえる好機、今後ないかもしれんのに、まさか逃がす気じゃないだろうな……

 人気のない場所をと思い、裏路地に身を潜ませていたが、大きな乱闘になってしまった。うまく逃げられはしたものの、そばを何代ものパトカーが通り過ぎた。俺が居たとの証言を受ければ、俺がまだ遠くにいないということぐらいは解っただろう。

 俺を探して……俺を見つけて、捕まえないとは、どういうことだ? 借りを受けた事にしなくてもいいならば、俺はこのまま逃げる。人目にはつかないようにしなくてはならないが……ここに居るよりはマシだ。
 この男が居ない場所がいい。
 体重を預けていた壁から背を離し、立ち上がり、土方の横を通り過ぎようとした。

 ら、捕まった。怪我をしていない方の腕を掴まれた。

 早く、そうすれば良かったのに……。


「待てよ、怪我してんだろ?」
「何の用だ」
「腕、貸せ」

 断りもせずに、袖を捲り上げられて、俺の腕の傷を無遠慮に見ると、ポケットから出したハンカチで俺の傷を縛る。

 そのハンカチは……見覚えがあった。先日土方の口を拭いたものとよく似ていて……

「土方……なんのつもりだ」
「止血だ」
「違う」
「今、これしか持ってねえんだよ。洗って返せよ、借り物だ」
 借り物って……そもそも俺のじゃないか。

「とりあえずの応急処置だ。ちゃんと手当しろよ」
「言われなくても……」
 言われなくてもそうするが……どういうつもりだ?
 つまり、俺を逃がすという意味と捉えて間違いない発言じゃないか。

「お前は……何を考えているんだ!」
 俺が誰だかわかっているのか? 自分が何であるのか自覚しているのか、そして、今何をしているんだ。

「俺も色々、考えたんだ」

 土方は内ポケットから煙草を出して火をつけた。煙の香りは、あまり好きではない。


「俺、一目惚れだったんだ。綺麗な女でさ」
「………」

「てめえが落とした、匂い袋、あれ、俺が彼女にあげたんだ」
 暗黙の了解は、通用していたと思っていたと思っていたのは俺ばかりだったのだろうか。

「……なんのことだ?」
 俺が知らないフリをしたら、お前も白を切ればいいと、そう願ったのに。

「あの人に伝えたいんだ」
 土方は続けた。

「……何故、俺に?」
 俺の方が、バカみたいじゃないか。無かった事にする方がいい。当然そのつもりだって、コイツも言っている。

「それ、持っててくれたんだって、思って。嬉しかった」

「……馬鹿か?」
「ああ、多分。馬鹿なんだろうな」

 吐き出した煙は、俺にかからないように上に向かって吐き出された。
 馬鹿な奴だ……そう思った。なんて馬鹿らしい。
 こんな馬鹿げた話はそうそうない。あまりにも馬鹿らしすぎて、苦しい。

「お前がそれ持ってて、彼女の顔が浮かんで、重なって……そうしたら心臓凍りそうになって」
 騙したつもりはないが……土方が勝手に騙されただけだ。そんな言い訳は、最早見苦しさを伴う。俺にどんな弁解の余地があるんだ。

「そんでもそれ持っててくれたことが嬉しかった」

「………」

 袂に手を入れて、俺は匂い袋を取り出した。
 この前の時に、汚してしまった。血の付いた手で触ってしまったために、俺の血で汚してしまい、今は黒く変色をしている。汚れて綺麗な藍色をしていたのにこんなに汚してしまって……こんな色をしていても、それでも仄かな匂いはまだ続いていた。

「そっか……まだ、捨てないでいてくれたんだ」
 もし匂いが消えてしまっても、俺はこれの捨て方が分からない。
「ああ……捨てられずにいる」

「俺も、今てめえに使ったハンカチ、ずっと持ち歩いてたんだ。いつか会ったら返そうって、それが出来ねえって解ってからも、期待なんて無駄だって知ってたんだが……」

 自嘲めいた笑は、きっと俺の表情を写したものだろう。

「どうすりゃいいかな」
「それを俺に聞くのか?」

 俺だって、その匂い袋を未だに捨てられずに持ち歩いているというのに。


「困ったな」
「ああ、すごく困った」


 俺達は、そのまま動くこともできず、見つめあったまま立ち尽くしていた。







20130525
9100