困惑 01





「……土方」
 声をかけてしまってから、俺は後悔をした。そして、土方が声に気がついて俺を見て、そしてやはり後悔をする……。

「ああ、この間の」
 柔らかい笑顔は勿論俺に向けられたものではないと解っていたのに……。
「偶然だな」
 そう言って、土方は笑った……当然こんな格好をしてこの男に声をかけたんだ。偶然であるはずがない。
 俺は何を考えているのか、自分でも自分に不信感を持つ。女に変装していればバレないとでも思っているのか? 何故自らこんな馬鹿げた真似を……幸い今はまだ気づかれていないが……。
 何故俺は再びこうしてこの男の前に居るのだろう……こんな、危険な真似をして。

「姐さん、今日は買い物か?」
「そんなところだ。土方は仕事か?」
「まあ、見ての通りさ」
 見ての通り、パトカーから降りての喫煙中のようだ。
「なんだ、サボりか」
「いや、ちゃんと仕事してるって」
「サボりならば、しばらく立ち話をしても構わないと思ったが?」
「じゃあ、今からサボり」
 土方は、俺を見て、笑みを浮かべた。
 ついつられて微笑んでしまうようなその笑顔は俺には眩しくて、とても苦い。
 俺としてでは決して向けられるはずのない屈託のない笑顔……もう一度、見たいとただそう思っただけのはずなのに、何故胸が痛むのだろう。俺が何を考えているのか、俺自身でもわからない。

「姐さん、この間の怪我はもう大丈夫か?」
 先日、使いに出していた部下からの密書の受け渡しがあった。隠密裏に勧めたい作戦だったので、女の服を着て変装していたつもりだったが、どこで嗅ぎ付けられたのか、過激攘夷派の襲撃に会った。
 部下にはなんとか書を持たせて逃がしたが、先日、ようやく無事だとの報告があった。手勢は俺が倒した奴等だけだったらしかったので安心したが。その件に関してはもう済んだことだ。

 だが、その時、不覚にも俺が怪我をした。怪我と言っても、大した怪我ではなかった。対峙している時は気にならない痛みも、緊張が解けると熱を持ち、途中で歩けなくなってしまった。通信手段も持っていなく、誰にも場所を伝えていなかったために、どうやって帰ろうかと途方に暮れていた所へ、土方が来た。

「ああ。おかげですっかり。世話になったと一言、言いたくて……」
「じゃあ、俺の事探してくれてたのか? だったらうちに来てくれりゃ良かったんだ……って、もしかしたら来てくれたりした?」
「いや」
 病院には行きたくないと言ったら、屯所ではなく、その場から近かったためだろう、休日の日くらいしか使用していないだろう土方の自宅に連れていかれた。
 そこで足を手当てして貰い、少し休ませてもらい……

 それだけ。
 だから、俺は、その時の礼を、桂小太郎としてではなく、あの時の女として礼を言わねばならなかった。
 真選組の巡回経路は解っていた。だから、わざわざあの時の着物を着て俺はここにいる……そんな、必要などない。礼など、必要ない。この男だって、礼なんかいらないと言っていたのに……。

 確かに、俺だと気づかれていなくてよかったと思わざるを得ないが。
 もし気付かれていたら、当然この男の自宅ではなく屯所に連れて行かれただろうし、気付かれているのであれば今頃俺はこの男に捕まっていて、抜け出すのに苦労していたところだろう。

「姐さん、この辺りに住んでんだろ? 仕事でいつも居るわけじゃないけど、たまには遊びに来てくれよ」

 手当てをされてしばらく熱は引かなかったが、今の住居が近かったので助かった。土方は家まで送ってくれた。さすがに俺の住処ではない家を教えたが、その家の玄関先で土方の背が見えなくなるまで送り、その間土方は何度も振り返って俺を見た。完全に見えなくなってから、俺はその近くにある自分の家に戻ったが……。

 土方に、また、来てくれと、言われたんだ……。

「ああ、そうだな」

 俺がそう言うと、土方は安心したような笑顔を作った。だからつられて俺も同じような表情になってしまった。
 馬鹿らしい。俺のこの笑顔は、嘲笑で良かったはずなのに、何故か自嘲にしかならなかった。

「今度、飯とかどうだ?」
 馬鹿げた話だとは思った。手当の礼はした。それ以上はない。この姿で二度とこの男に会うことはない。勿論、この男はそんなことを知るはずもないのだが。
 借りた借りは返す、その手段も方法もない立場で、だが感謝だけは伝えたくて、今こうしてこの姿でこの男の前に立っている……まだ明るいのに。どれほど危険な真似をしているかも、俺はちゃんと自覚している。
 これで、終わりだ。言葉だけで感謝を伝えるのは、受けた厚意には及ばないかもしれないが……それでも、少し肩の荷が下ろせるように思った。

「……ああ、そうだな。いつか」
 本当に、馬鹿げた話だ。二度とこの男の前に、この姿で俺は現れない。曖昧な返事は、期待も落胆も他人任せになる。

「これからどうするの?」
「得には。家に戻るだけだ」
「じゃ、今日は? 珍しく今日は夕方から非番なんだ。アンタの快気祝いだ」

「………」

 土方は、俺に、笑顔を向ける。
 こちらまでつられてしまいそうなその笑顔は、俺だと知らないから向けてくれているものだ。

「姐さん?」
「……あ、いや。すまない」

「いや、こっちこそすまねえ。会えて嬉しかったから、姐さんだって予定あるだろうに、勝手に……」
「いや、予定は無いが……」

 予定は、ない。確かにそれは事実だが……俺は、何を?

「本当かっ?」

 曇りかけていた土方の表情が途端に明るくなる。

「ああ。今日、予定は無い」

「じゃあ、夜に飯食いに行こうぜ? なんか食いたいものあるか?」

「……蕎麦」
「蕎麦かよ。まあいいや。とっておきの店に案内してやるから」


 微笑む土方に、ただ、つられてしまっただけだ。自らの表情が緩んでいた事に、どうしていいのか解らなくなる。



 俺は、何をしようとしているのだろう……。














「なんだ? 顔になにか付いているか?」
「あ、いや……」
「そうか。お前は右頬に飯粒がついている」
「え、……あ、悪い」
 慌てている様子を見るのは、なかなか見ものだったが。
 俺が食っている様子を、じっと見つめられていたのに座り心地が悪くなる思いがしたので睨み返すと、土方は慌てて自分の丼を掻き込んだ。丼の上には多量のマヨネーズがかけられていて、この男が頼んだ物はマヨネーズ丼だったのかと疑いたくなるが、そんな品はメニュー表には記載されていなかったはずだ。俺の幼馴染といい、不思議な味覚を持つ人間は意外にも多くいるのかもしれない。


 晩飯を奢ってくれると言うので、ついて来てしまった自分の不甲斐なさを呪いたい。俺は一体、本当に何を考えているのだろうか、自分で自分がわからなくなる。
 晩飯として連れてこられたのは、蕎麦屋ではなく、小さな飯屋だった。夜は酒も出す。ただ、親父殿のこだわりによって、蕎麦は美味い産地のものを仕入れてきていて、茹で加減も絶妙だった。
 飯は、美味い。

 勿論、蕎麦一杯程度に釣られたわけではない。それほど俺も安くはないが。

 ただ、この男が、俺に笑ったから……初めて、見た表情だった。俺に向けるなど、有り得るはずがない。俺を俺だと気付かずにいるから、だから……そんな事は知っている。このままこの男を懐柔し、情報を引き出す手もあるが、リスクの方が大きすぎる。


「だから、何だ?」
 なんで俺の顔ばかりを見ているのだろうか。やはり、何か勘づいているのか? 多少の化粧はしているとは言え、下の顔は俺だ。思い出されては困る。

「あ、いや……あのさ。良かったら、これ」
 いつの間にか食い終わった丼を置き、とっくに食い終わって茶を啜っていた俺の近くに、何かを置いた。

「これは?」
「いや、別に、大したもんじゃねえけど、要らなかったら捨ててくれて構わねえ。さっき、ここに来る前に、あんたに似合いそうだって思って、歩いてた時にあった店でみつけて、つまんないもんだけど」

 手に取ると、それは紫紺の絹織で作られている小さな匂い袋だった。ほんのりと香りを漂わせていた。

「快気祝い。っても、本当はそんなんじゃなくて、せっかく足が治ったんだから、もっといい、例えば下駄とかさ。そう思ったんだけど、時間がなくて……」
「いや。いい、香りだ」
 両手の中に収めて、その中で呼吸をする。やわらかな香りが胸に広がるような、華やいだ香りだが、それでも気分を落ち着かせてくれるような、そんな香りだった。

「………」

「ありがとう」

 そう言って、俺は笑った。
 ここに来てからはずっと、俺は何をしているのだろうと、自嘲することしか出来なかったが、ここに来てから初めて、俺はちゃんと笑えた。そんな必要などはないのだが、それでも、笑った。

 素直に、この心遣いは嬉しくて……だから、感謝は笑顔に乗せた。


「………」

「土方?」

「………………」

 土方は、俺を凝視したまま、とても間の抜けた顔をして惚けている。だらしなく開いた口元からは、今すすったばかりの茶が零れた……おい。

「土方? どうした、目を開けたまま寝てしまったのか?」

 疲れているのだろうか……仕方がないことだろうが、それにしても、なんとも器用な真似をするものだ。
 懐から出したハンカチで土方の口元を拭ってやると、ようやく目を覚ましたようで、慌てて自分の袖口で口元を拭っていた。

「っ……悪い、すまねえ」
「いや。疲れているようだな」

「すまねえ。それ、預かるわ」
「ん?」
「そのハンカチだよ」
「これか? 欲しいのか?」
 これが一枚や二枚無くなったところで何も困らないが。
「いや、欲しいっていうか……いや、だって洗わねえと……困るだろ?」
 当然洗いはするが、困る事もない。勿論欲しいと言うならば渡してしまっても困らない。

「土方?」



「……だから、またあんたと会う口実が欲しいんだよ」



 馬鹿な。

 どうせ、近いうちに会うことになるだろうに……ここのところ天人との衝突が多発している。現時点では小競り合い程度のものではあるが。俺もあまり自分の時間を取ることができない。俺が忙しければ当然この男も忙しい。今この男が目を開いて寝ていた程度には、疲れているのだろう。


「そうだな……では、ちゃんとアイロンをかけてくれ。次に会ったら……」

 次に会ったら……ただの敵でしかない。次に会ったら、俺はその先を言うことができなかった。



「ああ、任せとけ」

 得意げに笑う土方に、俺も同じように笑う……今だけは。

 ただ、土方に手渡したそのハンカチは、一生俺の手元には戻ってくる事はないだろうが。









20130430